第4話
濃厚だった空の色は、だんだんと色硝子のような澄んだ水色に変化していく。秋の雲はどうして高いんだろう、とあおいは思った。蝉の声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
九月の二週目、最後の土曜日。ひなたの人生を左右すると言っても過言ではない、運命の日。
ホールの雰囲気はピリピリと張り詰めていた。高く積まれた積み木のように、指先で軽く触れたら崩れ落ちてしまいそう。そんな緊張感。自分が場違いな気がしてならなかった。
ひなたの出番は午後二時すぎだ。入り口で手渡されたパンフレットと腕時計を見比べて、もう少し時間があることを確認したあおいは、ホワイエに設置されたベンチで時間を潰すことにした。
あおいの物語はあと少しで終幕を迎えようとしていた。応募締め切りは明日。しかし、あおいは最後の一幕を書くことができないまま今日を迎えてしまった。
ひなたの音をまだ彼は書くことができていなかった。スマートフォンを取り出し、メモアプリを起動する。美しい音色、心に響く旋律――そんな陳腐な言葉ではどうしても納得がいかなかった。
壁に設置された小さなテレビをぼんやりと見つめた。コンサートホールとホワイエを繋ぐライブカメラの映像が映し出されている。持っている語彙の全てを総動員しても、まるで乾いた雑巾を絞るように何も出てはこない。
やっぱり、僕には、才能が――頭の奥の方で生まれた嫌な感情が、濃霧が広がるように心を支配する。それを洗い流すように、あおいは持っていたペットボトルの中身を一気に飲み干した。
テレビから響く拍手の音にはっと時計を見ると、長針はひなたの出番の五分前を指していた。演奏者が入れ替わるのに合わせて、あおいも中に入る。
コンサートホールは薄暗かった。数千人の観客が、皆一斉に同じ方向を見ている。それが何だか恐ろしかった。今ここにいる全ての人間が、舞台に立つひとりの人間を審査している。そんな気がした。
隅の方に空いている席を見つけた。そっと腰をかけて、目当ての人物の出番を待つ。
○
――ありがとうございました。次は、七瀬ひなたの演奏です――
アナウンスが耳に飛び込んでくると、突然心臓がうるさく鳴り始める。まるで自分が審査される側の人間になったかのように呼吸が乱れた。しっとりと濡れた掌をズボンに擦りつけるようにして拭う。
淡い夕陽色のスポットライトに照らされて、舞台の下手からきっぱりとした足取りで女性が姿を現した。
きらびやかなドレスがちらちらと光を反射する。大勢の観客の前で、彼女は神聖な雰囲気を纏っていた。ゆったりとお辞儀をしたひなたは、あの屋上での彼女とはまるで違って見えた。細い声で弱音を吐いたひなたはどこにもいない。堂々たる微笑みを
美しいと思った。
在り来たりな表現だったが、胸が詰まるほどに美しいと思った。
ひなたがバイオリンを構える。
息をするのもためらわれるような静寂。心臓の音だけが、耳の奥で大きく響いていた。
彼女と、目が合ったような気がした。夜色の瞳が、僕の胸を真っ直ぐ貫いたような気がした。
赤銅色の弦楽器が、鈍く輝いた。
畏怖の念――いつかの言葉を思い出していた。やはり彼女には、その言葉がぴったりだった。
点と点が繋がって線になるように、音符と音符が繋がってひとつの旋律を創り上げていく。
夏の朝の澄んだ空気のような、洗練された音色。今まで聴いたどの音よりも深く、深く、あおいの心の奥底まで入り込んできた。この音色を表現する言葉を彼は持っていなかった。いや、どんな文豪だって、彼女の世界を正確に書き記すことができる人間など、きっといない。
頬が濡れた感覚に、驚いて目元を拭った。いつの間にか涙を流していた。彼女の姿が、雨に濡れた硝子越しの夜景のようにぼやけていく。音楽を聴いてこんなにも心を揺さぶられたのは、これが初めてだった。僕は泣いているのに、彼女は薄い微笑みを絶やさなかった。
最後の一音が客席に余韻を残し、溶けるように消えた。
拍手の音が、止まっていた時間を動かした。ひなたはもう一度深々と礼をすると、やり切った、とでも言うように満足げに口角をあげた。
あおいは弾かれたように立ち上がり、重厚な扉を開けて外へと飛び出した。
切っていたスマートフォンの電源を入れ、たった今感じた全ての感情を忘れぬように打ち込んだ。彼女の世界の欠片を、僕の世界に閉じ込めたかった。色褪せぬように、忘れぬように。涙がディスプレイの上に落ちた。
心臓だけが自分のものではなくなったかのように高鳴っていた。二、三度大きく息を吸い込んでは吐き出す。色々な感情がぐちゃぐちゃに混ざりあって、身体が熱かった。
○
――結果だけ言うと、彼女は頂点に立つことはできなかった。
結果発表の後、ちらちらと光る衣装のままホワイエに現れた彼女に何と言葉をかけたらいいのか分からなかった。まずは「お疲れ様」と一言。その後、この感情をどう表そう?
「無理だった」
先に口を開いたのはひなたの方だった。眉を下げて笑う彼女は、やはりとても美しかった。
「……綺麗だった」
掠れた声を絞り出した。それだけしか言えなかった。口にすればするほど、彼女の世界がくすんでしまうような気がして。
「ありがとう」
ひなたは恥ずかしそうに笑ってから、「次はあおいの番だね」と
「あおいがいてくれてよかった」
今度は気のせいじゃなく、しっかりとふたりの視線が絡み合った。
「私ね、この結果に少しほっとしているのかもしれない。あ、こんなこと言ったらお父さんに叱られちゃうから、内緒ね……」
艶やかな黒髪を撫でるように
「諦めることって、結構勇気がいるんだよね。あおいがいなきゃ、私はプロの道を諦められなかったと思う。このままずるずる続けて、いつかきっと、大好きだったバイオリンのことを嫌いになっていた」
「諦めるのも、諦めないのも、勇気がいるなら――」
あおいは喉の奥で母の言葉を反芻した。
「後悔しないように生きたいよね」
たった十八年しか生きていない僕らに、「人生は選択の連続だ」なんて言葉は、いささか酷なように思われる。最良の選択だったかどうかは、未来の僕らに聞いてみないと分からない。
分からないなら、悩んでいたって仕方がない。だから――
今この瞬間、選んだ道を信じるしかないんだ、きっと。
彼女の右目から、すっと一筋の涙がこぼれ落ちる。
僕は少しためらってから、それをそっと指の先で
夏が終わる。大きな硝子窓の向こうでは、秋の気配を
蝉時雨、原稿用紙に君の音 水無瀬いと @i_drop
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