第3話

 夏は短い。

 約束の二ヶ月後は、刻一刻と近づいていた。


 ○



「まだそんなことやってるの?」

 背後から聞こえた声に肩が跳ねた。睨みつけるように振り返ると、呆れたような顔をした母の姿。

 窓の外には朧月が弱々しく揺らめいていた。壁に掛かったアナログ時計は、午前一時を少し過ぎた頃を指している。

「今はもっと大切なことがあるんじゃない?」

 ノートパソコンを音を立てて閉じ、あおいは母に向き直った。



 彼女もまた、夢を諦めた側の人間だった。


 あおいの母親は、お世辞にも高学歴とは言えなかった。最終学歴は高卒。偏差値の低い私立高校だ。大学に行くだけの学力も資金も無かった。

『高校の先生になりたかったんだけどなぁ』

 いつだったっけ、そんな風に言っていたのを覚えている。

 母さん、僕の気持ちも分かるだろう? 自分の心にそっと蓋をする虚しさが。現実から目を背ける惨めさが。分かるだろう? 実力がないことを、才能がないことを認める辛さが。

 だからと言って、応援してほしいなんて言えなかった。親の心子知らずなんて諺があるが、あおいは母の気持ちを痛いほどよく分かっていた。


『あおい、学歴は裏切らないのよ』

『お母さん、今でも思うの。あのときもう少し勉強してたら、先生になってた未来もあったのかなって』

『あおい、後悔しないように生きてね』

 母の言葉には重みがあった。私みたいな思いはしてほしくないから。彼女は口癖のようにそう言っていた。



 けれど、少なくとも僕は今、書かなければ後悔すると思っている。

 だったら、後悔しない人生っていったい何なのだろうか?


 動画サイトにアップロードされていたひなたの演奏が、ふと脳内に流れだした。音楽的な専門知識は何一つ持ち合わせていない。それでも、彼女の演奏にはどこか胸の奥まで入り込んでくるような何かを感じた。そう、あの夜色の瞳のように、僕の知らない僕をさらけ出してしまうような――そんな何かが。あなたはどうしたいの? そう問いかけられているように感じた。


 あなたは、どうしたいの?

 ――せめて、君に恥じない選択がしたい。



「……これで最後にするよ」

 小さく呼吸を整えて、あおいはしっかりと母の目を見据えた。今までずっと向き合うことを避けてきた目。逃げてきた目。もう逸らさない、そう決めた。

「これで最後にする」

 もう一度小さな声で呟いた。今度は自分の心に向けて。


「……どんな話を書いてるの?」

 束の間の沈黙の後、母の表情が幾分か和らいだように見えた。あおいはノートパソコンを開き、目を細めてそこに綴られた文字列を一瞥した。画面の中に創られた、小さな世界を愛おしむように。

「天才バイオリニストの話」

 あおいはそこでふと言葉を止めた。いつだったか、インターネットで調べた言葉の意味が脳裏に蘇る。

「いや……秀才バイオリニスト、かな」


 先天的に優れた能力を持つ「天才」と、後天的に秀でた才能を手に入れた「秀才」――

 似て非なるふたつの言葉で表すなら、彼女は後者だとあおいは思った。


 母にはふたつの言葉の違いはよく分からなかったようだ。不思議そうに少し首を傾げ、そう、と微笑んだ。



 ○


「気が散っているんじゃないか」

 父親の言葉に、はっと顔を上げた。冷たい視線がひなたを射抜く。ごめんなさい、そう呟き、バイオリンを構えなおす。

「何かあったのか」

 ひなたは黙ってかぶりを振った。長くて深いため息が聞こえる。どうしてこんな旋律も弾けないんだ、と責められているような気がして、喉の奥が苦しくなった。乾いた唇を舌先で湿らせる。

「……昼飯にしよう。気分転換だ」



 ひなたは典型的な音楽一家の一人娘だった。母はピアノ講師、父は音楽大学で教授をしている。専門はバイオリン。ひなたがバイオリンを始めたのも、父の影響だ。

 やりたい、と言い出したのはひなたの方だった。初めは単なる憧れだった。バイオリンを構える父の背中が、とても格好良かったから。


 初心者が使うにはいささか高級すぎる楽器を父から譲り受けた。音楽を学ぶ環境は十二分に整っていた。家には防音室が備わっていたし、生まれたときからたくさんの音と共に育ったからか耳も肥えていた。ひなたはめきめきとその腕前をあげた。

 朝起きて夜眠るまで、ずっとバイオリンのことを考えていた。楽しかった。

『さすが、七瀬さんのところの娘さんね』

 そう言われるのも悪い気はしなかった。

『天才の子は天才だな』

 嬉しかった。皆が私を認めてくれている。


 けれどいつからか、そんな賞賛の言葉さえ素直に受け取れなくなっていた。

「期待」という周囲から押し付けられる無責任な感情に、ぺしゃんこに押しつぶされて息ができなくなりそうだった。

 天才バイオリニスト。そう言われることが嫌いになった。そこに私の努力は微塵も尊重されていない。結局、環境なんだろう? そう言われているような気がして胃の奥がむかむかした。


 プロのバイオリニストになることが夢だった。

 けれど、あんなに大好きだったはずのバイオリンが、今では私を苦しめる。


 そう、大好きだった。浮かんだ言葉は過去形だった。


 誰か、私を見てよ。七瀬ひなたを、天才バイオリニストじゃない、私を。

 そんなわがままは許されない。天才は一生、「天才」として生きるしかない。



「大切なのは、誰に届けたいかだ」

 昼食のオムライスを前にした父が、ケチャップをかけながらそう言った。

「誰でもいい。審査員じゃなくてもいい。父さんじゃなくても、母さんじゃなくてもいい。誰かひとりの心に届けたいと思えれば、音は生きる」

 すとん、と何かが腑に落ちた。誰かひとりに、届けたい音を――

 蝉の声が耳の奥で聞こえた、ような気がした。あの日絡めた小指がじんと熱を持つ。


「そんな相手はいるか?」

 優しい声で彼は問う。

「……うん」

 桜色の唇を引き締めて、ひなたは小さく頷いた。

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