第2話

「二ヶ月後にね、コンテストがあるの」

 ひなたはぽつぽつと話し始めた。あおいに向けて話してるように見えて、実際はただの独り言のようにも見えた。「うん」とか、「そうなんだ」なんて、適当な相槌を打つのがためらわれ、黙ってひなたの横顔を見つめていた。


「海外からもたくさんの関係者が見に来るのよ。そこで一位を取れば、アメリカの音楽大学に入学することを許されるの」

 大学、という言葉に脳味噌の奥が揺れるような不快感を覚えた。そうか、彼女はもう将来のことまで考えているんだ。――いや、彼女だけじゃない、クラスのみんなもきっとそう。現実を見れていないのは僕だけだ。


「みんな期待してる」

 ひなたの表情は硬い。天才バイオリニストとしてのプレッシャーはあおいに想像できるものではなかった。

「私、本当は、そんなにすごい人間じゃないのに」

 彼女は膝を胸に寄せ、タータンチェックのスカートに顔を埋めるようにさらに小さく身体を丸めた。肩にかかっていた黒髪がさらりとこぼれ落ちる。熱い風に乗って、熟れた果実のようないい香りがした。シャンプーの匂いだろうか。

 消え入りそうな声だった。見てはいけないようなものを見てしまった気がして、思わず目を背けた。冷えた近寄り難さを纏っていた天才バイオリニストはどこにもいない。そこにいたのはただの七瀬ひなたであった。十八歳、高校三年生の七瀬ひなたであった。


 無性に、彼女を愛おしいと思った。初めて言葉を交わした彼女を、今すぐにでも抱きしめてやりたいと思った。彼女の肩は小さくて、とても周りからの期待を一人で背負いこむことができるとは思えなかった。

 きっと、誰も知らない。こんな七瀬ひなたを、誰も知らない。僕だけが知っている七瀬ひなた、それは案外普通の女の子で。どうしようもなく胸が締めつけられた。

 彼女に触れたいと思った。広辞苑三冊分の距離を取り払ってしまいたいと思った。

 けど、手を伸ばす権利は僕にはない。知ったような口で慰めの言葉をかける権利も。


「天才って言葉はね、呪いなの。言うのは簡単だけれど、言われた方は【天才】の肩書きを背負って生きていかなければならない」

 ひなたは小さく息を吐き出すと、自嘲気味な笑みを浮かべた。

「勝手に期待して、勝手に失望して。観客はみんな自分勝手」



「……羨ましいな」

 しまった、と思ったときには遅かった。ひなたの目が丸く見開かれる。なんて空気の読めない発言。あ、いや、違うんだけど。なんて、慌てて言い訳をするのも愚かしい。

「僕は、誰にも期待されたことなんてないから」

 自分の言葉に、きゅっと心臓が締めつけられた。期待されないのは、実力がないから。分かっている。けれど、認めたくないだけ。卑屈になって閉じこもって、やればできるんだって今でも思ってる。『そろそろ現実を見たら?』母親の声が蘇った。


「小説家になりたかったんだ」

 クラスの誰にも言ったことがなかった話を、初対面と言っても過言ではない彼女にしてしまったのはなぜだろう。身体が熱くなって、涙が出そうになった。汗で濡れた前髪を指先でいじってみたりする。

「本が好きなんだ。それだけの理由。自己満足の小説をちまちま書いて、ごっこ遊びしてるだけ」

 取り繕うように早口で吐きだした。本鈴はいつ鳴ったのだろうか。気がつかなかった。

「そろそろ現実を見ろ、だってさ。二ケ月後に公募の新人賞があるんだ。……あぁ、七瀬のコンテストも二ケ月後だっけ。なんか、偶然だね、でも……事の重大さが違うな、ごめん。……そこで入賞しなければ、小説家になることは諦めてもっと安定した職に就け、って言われた。僕だって頭では分かってるんだ、いつまでもこんなことしていられないって」

 吸い込んだ息を深く深く吐きだして空を仰ぎ見た。ぎらぎらとした陽の光が目に刺さり視界が白く弾ける。


「でも、今更そんなことできないよ」

 ひなたは何も言わない。はっと彼女の方を見る。誰がこんな話に興味があるというのだろう。つまらない人間だと思われたかもしれない。午後一時の屋上のおともに僕を選んだことを、彼女は既に後悔しているかもしれない。


「あー……、ごめん。自分語りとか、どうでもいい、よね」

 あおいは笑った。ひなたは笑わなかった。



「なれるよ」

 彼女は立ち上がって、スカートのおしりの部分を軽くはたいた。驚いて見上げると、彼女は白い柵に肘をついてどこか遠くを眺めている。あおいも腰を上げて隣に並ぶ。広辞苑三冊分の距離を保ったまま。

「何にでもなれるよ」

 眩しそうに目を細めてそう言ったひなたは、またいつもの神秘的なオーラで身を包んでいた。けれど、ついこの間まで感じていたはずの冷えた近寄り難さはそこには無かった。結局、「天才バイオリニスト」としての色眼鏡でしか彼女を見ていなかったのだと気づく。彼女は天才だから。有名人だから。僕みたいな平々凡々な人間とは違うから。最初から別の次元に住む人種だと決めつけて、関わろうともしなかった。僕が壁を作っていただけだった。


「……なんて、無責任なことは言わない」

 ひなたは身体ごとあおいの方へと向き直った。

 凛然たる夜色の瞳。息が止まりそうだった。心拍数が高まる。

「私は知ってる。夢を叶えるのが、努力をするのが、どれだけ大変なのかを」


 彼女の言葉には説得力があった。皮が固く、厚く、象の足の裏のようになった指先を擦り合わせる。物心ついたときからバイオリンに触れてきた手。皮膚が裂けて血が滴っても、弦を押さえることを止めなかった手。


 あおいは何も言えなかった。急に自分のことが恥ずかしくなった。

 甘かった。夢を見ているだけでいい気になっていた。具体的な行動なんてなにひとつ起こしてもいないのに。まだ本気を出してないだけ。やればできるんだ、やってないだけで。そうやってごまかしてきた。


 あおいにとって、本とは世界そのものだった。

 百冊の本があれば、百通りの世界がある。嬉しいときも、悲しいときも、寂しいときも、いつだって何百もの世界が傍にある。それだけでこわいものなんて何もなかった。

 いつしか、その世界を自分で創ってみたいと思うようになった。あのとき寄り添ってくれた世界を、今度は自分の手で。


 漠然とした希望に縋っているうちは気が楽だった。もしかすると僕にはとんでもない可能性が秘められていて、ある日突然それが開花するかもしれないだろう?

 でも、最後にはどこかで折り合いをつけないといけない。自分はただの七十七億分の一でしかなくて、とんでもない可能性が花開くことなんてなくて、「いつか」はいつまでも来ないと。



 自分に才能がないことを認めてしまえば、諦めることは簡単だ。

 だけどそれは、いるはずもない青い鳥を追いかけ続けることよりも、ずっと辛い。



「ねえ、指切りげんまんしよう」

 不意にひなたが明るい声をあげた。

「私は、次のコンテストで一位を取れなければ、プロになることを諦める。君は、新人賞で入賞できなければ、小説家になることを諦める。どう?」


 目の前に差し出された、白くて細い小指を見つめる。少し悩んでから、あおいは自分の小指をそっと絡めた。指先から伝わった熱は体中の血液を沸騰させる。ひなたは満足げに微笑んでいた。



 赤信号、みんなで渡ればこわくない。

 燻ぶった「いつか」にも、ふたりでならお別れを言える。そんな気がした。



 ○


『凛とした後ろ姿だった。』

 その日の深夜、あおいは自室でノートパソコンと向き合っていた。キーボード叩く指先は軽い。なぜだか、今までにないほどの高揚感を感じていた。脳味噌がとろけそうだった。

『膝下までのプリーツスカートがふんわりと風に弄ばれ、ほっそりと白い脚が露わになった。』

 彼女の髪が、瞳が、肌が、声が、匂いが、文字となって綴られていく。濃厚な空が、メレンゲのような雲が、むっと熱い午後の風が、文字となってひとつの世界を創っていく。


 いつの間にか、東の空は淡い鈍色に明るんでいた。

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