蝉時雨、原稿用紙に君の音
水無瀬いと
第1話
凛とした後ろ姿だった。
膝下までのプリーツスカートがふんわりと風に
蝉の声が脳髄に響く七月下旬の屋上。じんわりと滲む汗を拭って、立花あおいは息を飲んだ。視線は縫い付けられたかのように柵の向こう側を捉えて離さない。
艶やかな黒髪をなびかせ夏の街を見下ろす女性は、三組の七瀬ひなただった。同じクラスになったことはなく、言葉を交わしたこともなかったが、白い肌に映える絹のようなセミロングの黒髪が印象に残っていた。刺すような日差しが髪に反射し、ちらちらと漆黒に光る。
それだけじゃない。この学校でひなたを知らない人はいなかった。否、今や「この日本で」と言った方が正しいかもしれない。
九歳で初めて国際音楽コンクールに出場、十三歳のときには一位の座に君臨。天才中学生バイオリニストとしてメディアは大いに彼女を持ち上げた。あおいにはその凄さが分からなかったが、あの絹のような黒髪と意志の強そうな瞳が脳裏に焼きついていた。
テレビ画面の向こうからこちらを見据える凛々しい瞳。視線が交わっているかのように錯覚した。多くのカメラとマイクに囲まれていながらも、ひなたはカメラのレンズを通してあおいの瞳を覗き込んでいるようで――なぜだか心臓がちくちくした。
『この子、あおいと同い年じゃない』
十三歳のあおいに、母親がそう声を投げかけた。あおいは眉根を寄せてチャンネルを変える。お笑い芸人の下品な笑い声がリビングに響いた。
『すごいわねえ、あおいと同い年なのに』
独り言のように呟くそれは、ただの感想だったのかもしれないし、あおいに向けた嫌味だったのかもしれない。どちらでもよかった。あおいが気分を害したことにかわりはなかったから。
夕立の前に暗い雲が青い空を覆い尽くしていくように、あおいの心にモヤモヤとしたものが広がっていく。あおいは無言で席を立ち、自分の部屋へ逃げ込んだのだった。
そう、つまりは、七瀬ひなたはあおいにとって「テレビの向こうの人」で、「天才中学生バイオリニスト」で、「ただの有名人」であった。自分のような凡人はお目にかかることさえ許されないような、そんな人間だと思っていた。
だから、高校に入学して、同じ学年にあの「七瀬ひなた」がいると風の噂で聞いたときには、本気で何かの勘違いだろうと思ったのだった。後にそれが噂ではないと知ったときには大いに驚いた。どうしてこんな、校則が緩いことだけが取り柄のような高校に?
高校三年生になった今でも、あおいはまだ一度もひなたと言葉を交わしたことはなかった。自分のような一般人が話しかけてはいけない、という意識が残っていたのも事実だった。だが、ひなたには近寄り難い独特の雰囲気があったことも理由だった。
一言で言うと、オーラのようなもの。全身から沸き立つ、きんと冷えた圧倒的な凄みを彼女は纏っていた。周りを拒絶するためのものではない、ある種神秘的なオーラ。あの瞳で見つめられると、自分でも知らないような心の奥の方まで見られている気がして――畏怖の念、そんな言葉がぴったりだと思った。
瓶詰のサイダーを煮つめたかのような濃厚な水色に、手を伸ばせば掴めそうな入道雲。熟れた熱気が頬を撫でた。汗が一滴コンクリートの床に落ちて、小さな水溜まりを作る。
動かなきゃ、と思うのに、身体が言うことを聞かない。というよりも、脳がこの状況をまだ理解できていなかった。
あおいはただ、いつも通り屋上でひとりお昼ごはんを食べようとしていた。そこに先客がなんてことは予想もしていなかった。ましてやその招かれざる客が、四階建て校舎の屋上の柵の向こうに突っ立っていることなんて。
少ししてから、あおいの脳味噌は活動を再開した。ああ、飛び降りようとしているのか。そう気がつくのに時間はかからなかった。
ああ、飛び降りようとしているのか。
……飛び降りようと?
全身の毛穴という毛穴からどっと汗が噴き出た。心臓が鼓動を早める。今この瞬間、彼女の華奢な背中が不意に視界から消えてしまったらどうしよう。止めなければならない、今すぐに。
でも、もし僕が声を掛けたことによって彼女が一歩を踏み出してしまったら? 近づいたら飛び降りるから。黒い瞳できっとこちらを睨みつける彼女の様子が容易に想像できた。
彼女の後ろ姿はどこか不安定で、少しでも強い風が吹いたらそのまま真っ逆さまに落ちてしまいそうな。そんな印象を与えた。
「あの」
驚かせないように控えめに声を掛けた。掠れた声だった。気温は三十二度を超えているというのに、手足だけが妙に冷たかった。
ひなたはゆっくりと振り向いた。逆光で影になった彼女の表情は、見えない。何を考えているのだろう。彼女はここで誰かが来るのを待っていたのだろうか。それとも、今この瞬間、彼女は最悪の決意を固めたのだろうか。
「……あの」
声をかけたものの、何を話したら良いのかは検討もつかない。自殺は駄目だよ。命は大事だよ。君が死のうとしてる今日は、誰かが生きたかった今日なんだよ――そんな綺麗事を吐けるほど、あおいは出来た人間ではなかった。人の命の責任を負う勇気を、残念ながら彼は持ち合わせてはいなかった。
「何、してるの」
出てきたのはそんな頼りない言葉。危ないよ、と小声でつけ足す。ひなたが小さく息を吐いたのが分かった。
「大丈夫」
少しハスキーな声だった。大勢の記者に囲まれてインタビューを受けているときの彼女の声とは、別物のように思われた。小さな声は夏の風に乗って優しく鼓膜を震わせた。
「大丈夫。死のうとなんてしてないから」
ひなたはみぞおちの高さほどある柵を勢いをつけて乗り越えた。安全な場所に降り立った彼女を見て、ほっと胸を撫で下ろす。自分が息を止めていたことに気がついた。
「こうやって遠くを見てるとね、落ち着くの」
どうしてこんなところに? あおいの疑問を察したかのようにひなたが口を開いた。驚かせちゃったかな。ばつが悪そうに口角を少し上げた彼女には、普段感じていた気後れするほどの凄みは感じられなかった。
予鈴が鳴った。
「……授業、サボる」
ひなたは小さく微笑むと、その場に体育座りをした。え、と素っ頓狂な声をあげたあおいを見上げながら、くすくすと笑う。天才バイオリニストが、そんなことをするなんて。
「一緒にサボろう。君も、お昼ご飯食べてないでしょう」
そこでようやく、あおいは自分がコンビニの袋をぶら下げたままだったことに気がついた。
どきどきした。女の子、しかも有名人から秘密のお誘いを受けてしまうなんて! 十八年間清廉潔白な人生を歩んできたあおいにとっては、それだけでもうとてつもなく破廉恥なことに思われた。つまり彼は今までガールフレンドというものがいたことがなく、それどころか身内を除いた女性と業務連絡以外の会話をした記憶が、無いに等しい。
こくこくこく、と小さく三回頷いた。いかにも童貞臭い自分にほとほと嫌気がさした。もっとこう、爽やかに、こなれた様子で、かっこよく受け答えできないものなのか。
広辞苑三冊分ほどの距離を空けて彼女の隣に座った。広辞苑三冊でも、彼にとっては勇気を出した方であった。
「ところで」
ひなたが申し訳なさそうに眉を寄せ、小首を傾げる。首筋を伝う汗が妙に色っぽかった。真夏の青空の下で、彼女の瞳は夜色に濡れていた。見透かされてる、とあおいは思った。男子高校生の下心を見透かされている。僕の不純な気持ちが。僕も知らない僕が。どさくさに紛れて、白い鎖骨を盗み見たことをひどく後悔した。彼女のブラウスは誘うように第二ボタンまで開かれていたけれど、それより下に視線を落とす覚悟はなかった。開かれた胸元はあおいの欲情を煽る目的ではなく、たんに身体に籠った熱気を逃がすためでしかない。
桜色の唇が動く。
「君、誰だっけ」
三年間勉学を共にして、認知すらされていなかったことに軽くショックを受けた。蝉の声がうるさい。少しでも期待をしたあおいを嘲笑うかのようであった。
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