白黒の恋 2
往々にしてこの世界、僕たちは、自分と他者とを切り離すことができない。
リンゴの赤さは、蛍光灯の光は、川の水の冷たさは、青信号の緑は、本の背表紙の色は、花の色は、食べ物の味は、好きなことは、嫌いなことは。
僕たちは、常に何かをこの目に写し、この手で触れ、この口で感じ――、そして考える。
自分が見ているものも、感じていることも、相手もまたそう見て感じているのだと、どこかで思っている。自分の頭の中で考えていることは相手も読み取ってくれているはずだと、言葉足らずにもどこかで信じている。
けれども、それは自分勝手な思い込みにすぎない。
自分を主体として据え置き、他者を自分と同列かそれ以下に思っているに違いないと、僕は思ってしまう。
相手の頭の中身はどうあっても完璧になんて読めないのだし、僕の頭の中身も、相手には読まれることはない。もちろん読まれたくもないけど、人の頭を読んだつもりで知ったかぶりに偉そうにすることが、僕は嫌いだ。
その絵に出合った場所は、学校の廊下。図書館へと続く三階の廊下。窓と窓の間の柱にひっそりと掛けられた額縁の中にその絵はある。今でもある。平坦な廊下の中で、存在感を放っていた。
その白黒の絵に、僕は目が離せなくなった。
僕は生まれて初めて口からぽろりと零れるように、きれい、という言葉を使った。きっとそれは心からの言葉で、自然と湧き上がった感情だったのだろう。
この絵を描いた人は、どんな世界を見ているのだろう。
簡素で、けれどもどこかで悲しくて、もっとも楽しげにも思えて、良く分からなくなってくる絵。それはその時の僕の、見て、感じ、食み、触れて得た、なけなしの価値観の全てを否定して、ぼこぼこに殴りつけた。
僕の世界の色は、一体どんな色なのだろう。もしかしたらこの絵みたいに、本当はパンダみたいな白と黒でできていて、僕の見ているものは全て幻なのかもしれないかとさえ錯覚した。色とはなんだろう。目に見えているものとは何だろう。
僕は、僕が見ている世界と、この作者が見ている世界は、全く違うことに気づかされた。
そして、いつもどこかで胸の奥に詰まっていた想いが口の中にせり上がる。
なんで、どうして分かってくれないのか。
胸の内の凝りが、グッと押された。
――題名、『白と黒』。作者、藍沢詩織。
名前だけ聞いたことのある彼女について、僕が唯一知っていること。
それは、彼女の世界に、色がないということ。
学校という集団の中で、一人だけ違うという人の話は、誰かの恋愛話よりかもうんと早く広まった。僕は、その女子生徒が目の前にある絵を描いたのだと、まるで信じられなかった。
なんのことはない、田んぼのあぜ道と、ぽつぽつと並ぶ家。その背後にあぜ道の端で自転車を押す一人の少年を見下ろした山々。空に浮かぶ丸い球体は、果たして月なのか太陽なのか、その二択で世界がひっくり返るのだろう。
見たことがある景色。刻一刻と変わる世界の、ほんの数秒を切り取ったような絵に描かれているものは、僕が毎日往復している通学路だった。
その時、今まで見てきたすべての景色が頭の中で集まった。色が重なり、白と黒だけの上をすべるように、描かれていない色が今にも飛び出してきそうで。まるで魔法のようだと、思わず僕は息を呑む。
きっとその時からだ。
白と黒の重なる絵に、その絵を一本のペンで生み出す彼女の真剣な横顔に、僕は、魅せられてしまったのかもしれない。
【短編集】残映 藤橋峰妙 @AZUYU6049
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