【短編集】残映

藤橋峰妙

白黒の恋 1 *



 少しだけ開いたカーテンがはためく。ふわ、ふわと、羽のように軽く。

 薄い布の向こう側からは、歓声と、応援と、合奏と、一定のリズムで数を唱える声が聞こえてきた。あれは部活動に勤しむ人たちの声。無為な時間を気ままに過ごす私とは、全く別の世界にいる人達の声だ。

 その声に混じって、日暮らしの足掻き声が聞こえる。足掻きか、なんて言って笑ったら失礼かもしれないが、私には、最後の力を振り絞っているようにしか思えなかった。

 その喧騒から隔たれた校舎の二階の図書室は、夏の夕暮れ、全てが橙色に染まる。

 この瞬間が、私は好き。

 西日が綺麗に差し込む時。全ての雑念を取り払ったように、太陽の傾き加減によって、全てが飲み込まれる時。ここに存在する全てのものが、同じ色合いになる。

 色とりどりの本の背表紙も、間隔をあけて並んだ木製の薄い小麦色の机も、書籍特有の煤けた紙の蒸した匂いも、静寂に包まれた中で聞こえる紙を捲る音でさえも、図書室という空間を描いた下地の上に、オレンジ色のグラデーションを重ねて、ハードライトの合成をしたみたいに、一色に染まっているのだろう。

 あの人の横顔だって、そう。

 図書室のカウンター越しに見える顔。ちらちら、こっそり、本棚の影から伺ったその横顔は、相も変わらず視線を手元に本に落としたまま。けれど、窓側に並んだ机の、一番遠くの席を独り占めにしているその横顔も、西日に照らされて赤く縁取られていた。

 カーテンをはためかせる風に、さらりと、後頭部の髪が柔らかそうに揺れている。その姿は、とてもじゃないけど言い表せなかった。綺麗という言葉だと足りないくらい、一つの精巧な絵を切り取ったかのようで。

 まあとにかく、私は見惚れてしまった。恥ずかしいことに。

 見惚れてしまったまま、操られたように、腕から先が自然と動いた。肘の下敷きになっていた英語の課題ノートをすぐに捲り、明日提出の課題をそっちのけにそて、新しいページを開く。

 描きたい――。何を、もちろん、彼の横顔を。

 描きたい。残したい。今、この瞬間を。

 筆箱を開けたら、ボールペンと色ペンと鋏と定規とシャープペンしかないことがとにかく悔しい。仕方なく、筆箱から愛用のそのシャーペンを静かに取り出す。

 かちかちかちかち、ノックをして、しゃ、しゃ、と何度も線を引く。

 癖で芯を出し過ぎて、ポキッとどこかへ飛んでった。かちかちかちかち、また親指を伸ばす。芯が紙に触れる瞬間でさえ、緊張する。そしてまた、芯の先が白紙に触れる。消しゴムは使わなかった。それだけの自信があった。

 けれども、緊張しているのはなぜだろう。一本でも気に入らない線をこのページに書き入れたとしたら、その場でペンを折ってしまうかもしれない。そのくらい、私の指先は硬直した力を入れてペンを握っていた。

「ねえ」

 西日が沈み始めていた。図書室が本来の色を取り戻した始めた。一心不乱にノートに齧り付いて、その事にも気が付いていなかった私は、急な呼びかけに顔を跳ね上げた。

 目の前に、その人が立っていた。

「これ」と本を掲げて見せて、その丸い瞳が私の手元を覗いた。

「あっ」と、咄嗟に手のひらで覆い隠し、私は立ち上がった。

「かっ、かか、かっ、貸出ですか」

 顔が真っ赤になっていただろう。ぶわりと身体中の熱が上がって、心臓が破裂しそうなほど音を鳴らしていた。自分でもわかるほど。

 まだ名前も分からないその人は、首を傾けてクスリと笑った。サラリと、艶のある額の黒髪が流れた。

「あはは、貸出で。2冊これ、お願いします」

「わ、わ、分かりました。年組を……」

「二年I組、梅宮」

 淡々と告げられた情報を口の中で転がして、青い背表紙のファイルを取り出しながら、同級生だ、と顔を緩める。こんな男子、いただろうか。A組の私とI組の彼はクラスが距離的にも離れている。知らなくても仕方ない。

 新しく更新された情報が頭を駆け巡って、わたわたと名簿を探していると、見かねた『梅宮くん』が「後ろから見た方が早いよ」と、慌ただしく巡るページと、私の手を止めた。

「あ、はい――」

 と返事を返しながら、私は本をひっくり返した。

 冷静になれ、冷静になれ。すると、I組の欄はすぐに見つかった。

 赤羽、井浦、井上、宇井――『梅宮』。その文字を目で追う。『梅宮くん』の下の名前は、『春樹』だ。春の日差しのように柔らかな視線が、私を見ていた。名は体を表すというけれど、なるほどぴったりな名前だ。

 ピ。

 そう心の中で思いながら、名前の下のバーコードと、預かった書籍の裏のバーコードを、コードリーダーで読み取る。学校の図書室なのにスーパーのレジみたいだと思ってしまうのはいつものことだ。お金は払わないけれど。

「貸し出しは二週間後なので……」カウンター上のカレンダーをちらりと見る。「九月十五日までです」

「うん。あと、本を探しているんだけどさ、今あるかな。見当たらなくて……」

「どんな本ですか?」

「『世界五分前説』っていう本。哲学書じゃないよ。確か、洋本だったかな。名前だけしかしらないけど」

「『せかいごふんまえせつ』……?」

 カタカタとパソコンのキーボードを鳴らして、検索を掛ける。聞きなれない題名だ。どんな内容の本だろうと思っていると、表示された内容を読み上げる前に、「あ、やっぱり貸し出し中か」と、梅宮君が画面をのぞき込んでいた。

 思わず少し仰け反った。整った綺麗な顔が急に近づいてくるものだから、一気に熱が上がった。「ごめんごめん」と謝りながら梅宮君の顔が遠のいていく。眉はハの字に下がっていたのに、その表情はどこか楽しそうで、窓辺の静かなあの横顔とは、まるで人違いだった。

「やっぱ人気だからなあ、残念」

「予約……しときます?」

「え、できるの?」

「できますよ。ま、あの、予約ってものがあるわけじゃないんですけど、その、ほら、図書委員の特権っていうかなんというか」

「予約のシステムがあるわけじゃないんだ」

「あ、はい。先生が良いって言ったんで、勝手にやってるだけで」

「へえ、そっか、どうしようかな」

 裏にとって置けば、来た時に読める。図書委員しかしらない裏技だ。それを注意する側の先生でさえも「いいよいいよ、うん、誰も居なかったらね、ほどほどにね」なんて言うほどのものだ。

 梅宮くんは悩んでいた。なぜ悩むのだろうか首を傾げる。「んー」と唸りながら首を傾げていた梅宮君は、乱雑に自分の後ろ髪をかき混ぜて、「うーん、いいや」と首を振った。

「予約ってちょっと気が乗らないんだよね。なんかさ、本との出会いも一期一会って思わない?」

「え……あ、うん?」

「だから、予約はいいや。取り置きもしないでいいよ。いつか来て、その本があったら、借りるから」

「……は、はあ」

「じゃ、この二冊は二週間後までね。ありがとう」

 さらっと言って、さらっと去っていく黒髪を目で追うと、「あ、そうだ」と梅宮君が振り返る。

「それ、君が書いたの?」

「それ?」

「それそれ、その絵」

 指先の示す先を見て、「ぎゃっ!」と机をたたいた。

 女子も真っ青な叫びに、十二分に羞恥心が膨れ上がる。くすくす。梅宮君はそんな私の慌てぶりに、くすくす、ころころ、目を細めてかみ殺すように笑った。何がそんなに面白いのか。いや、梅宮君はそんな笑い方をするのか。

 私はただ呆然と顔を真っ赤にして、恨みがましく、「違います!」と叫んでいた。

 叫んでから、さーっと体温が足の先から消えていった。ここは図書室。司書室の扉をちらりと振り返る。先生が此方を覗く様子はない。ぐるり、暗くなり始めた図書館内を見渡す。

「え、違うの? さっきまでめっちゃシャーペンの音響いてたけど。今ここ、俺と君しかいないけど」

 その言葉の通り、本当に誰もいない。人影だと思った白い影は、風に揺れたカーテンの裾だった。

 なんて人が悪いんだ。私の中で、梅宮くんの印象は急降下し、自分の頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。恥ずかしい。今すぐカウンターの下に隠れて、見過ごして欲しかった。

「み、見たんですか……見えちゃったんですか……? しょ、肖像権の侵害とか、そういう話ですか!?」

「え? ……ふーん、じゃあそれって俺なの?」

「な、えっ、えっ、いや、それは……!」

 墓穴を掘った。後の祭りだ。私は体温が下がったと思った足先から、逆に猛烈な体温上昇に襲われた。

 恥ずかしい。恥ずかしすぎる。見知らぬ相手の絵の対象になってたなんて、気持ち悪いと思っただろう。今すぐに図書館から消え去りたかった。これは、そう、文化祭のクラス発表でやった演劇で、自分の出番じゃないところでステージに上がってしまった時以上だ。心臓が今にも破裂しそうだ。

「……ご、ごめん、なさい。勝手に」

 俯いたまま指先に力を入れると、くしゃりと歪んだノートが無残にも音をあげる。ああ、せっかく上手くかけてたのに。せっかく、納得のいく絵が書けそうだったのに。たとえシャープペンでも、絵を描くために筆をとったのは、久しぶりだったのに。白と黒の濃淡でできた絵が、悲鳴をあげる。頭の奥で想像した橙色は、そこには無い。

 延々に続くと思った恐ろしい沈黙は、一つ、小さな呟きで掻き消された。

「上手、だよ」

 ぱっと顔を上げると、笑った名残に頬を染めた表情が一つ。さらりと揺れた黒髪の隙間に見えた瞳は、柔らかい色を滲ませていた。

「……また書いてよ、何か、絵。ほら、僕じゃなくてもいいから、さ」

 え。私の喉から出ていったのは、微かな空気の擦れる音だけで。

「じゃ、またね、藍沢さん」

 梅宮くんは手を振りながら、楽しそうに去っていった。

「……私の名前、知ってるんだ」

 ぼんやりとした呟きだけが、日は落ちてもまだ明るい、暑い図書室に響く。

 日暮らしの声は、聞こえなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る