声なき者の湖
しげぞう
第1話
1、
小舟に乗っているのは、全部で四人だった。
長細い舟に前から、旅装束の戦士タルス、西岸に里帰りするという若い女、行商人らしい上背のある浅黒い肌の男、それに小男の船頭だ。少なくとも、朝まだき、ザルルイの波止場で乗り込んだ面々がこの四人だったのは、間違いない。
というのも、出発から半日経ったいま小舟は、白い闇と見紛う、微細な水の粒の只中を進んでいるからだった。行く手も来し方も、視界は白く滲み、舳先のタルスからですら、艫の船頭はぼんやりとした影法師めくのだった。
南方大陸の東部を侵食するム・オン湿原は、又の名を〈声なき者の
唯一の手段は、無数にあるウネウネと蛇行した川を小型の木舟で往くことで、それには網目のように入り組んだ川筋を熟知した、土着のゾイル族に案内してもらうしかないのだった。船頭の小男はゾイル族である。
向かいに座っている女が、腰につけた革袋から、乾燥させた無花果を取り出してモグモグとやりだした。正午近い時刻だが、辺りはいつまでも朝のような夕のような薄明の中にある。南国だのに気温も上がらず、タルスは一度ならず革のマントをかき合わせた。
「おひとつ、いかがです」
タルスの視線に気づいて、愛想良くすすめてくる。まだ二十くらいであろう女は、典型的なヒルニア人農婦の格好をしているが、肌の色がくすんだ乳色なので、片親のどちらかがゾイル族の出であろうと思われた。
「ありがとう、でも今はいい」
タルスは断わったが、女の後ろから声が上がった。
「俺はもらうぜ」
行商人が、女の手から無花果をヒョイと取り上げて口に放り込んだ。
「腹へったぜ、まだ着かないのか」
女は困ったような笑顔をタルスに向けたが、無花果がお嫌いでしたら、と今度は黒ずんだ干し肉の破片を取り出した。世話を焼きたがるのは、タルスの見た目が珍しいからだろうか。タルスは、ゾブオンではない。今はもうあまり見掛けなくなった古い種族ルルドとモーアキンの間の子である。筋骨逞しいが、手足は短く、ずんぐりむっくりしている。
「おい、ありゃ何だ!」
行商人が大仰な叫びを挙げた。振り向いたタルスもギョッとなった。
進行方向、霧の紗幕越しに、異様なモノがたち現れていた。
巨大な悪魔の手ーーそう見えた。黒々とした幅広の影から、幾筋もの細長い影が四方八方に伸びていた。それらは湿原の川のようにウネウネと蛇行し、捩れ、枝分かれし、合流している。
もう半日も、せいぜい丈高い葦か、ひねこびてヒョロ長い矮樹しか目にしていないため、その大きさの存在感は圧倒的だった。
「ああ、ありゃあ、御廟でさあ」
船頭は、落ち着いた様子で教えてくれた。近づくにつれそれは、中洲にある黒い石に、植物が絡みついて膨れ上がって見えているのだと知れた。船頭の云う通り、影の中心の黒石は純粋に天然自然のものではなく組石で、何者かのーーゾブオンとは限らないがーーの作為を感じさせた。そもそもこの辺りに、こんな色の石があるとは思えない。どこからか運んできたに違いなかった。
「へぇ、何の廟宇だ?」
臆病風を誤魔化すように、行商人が尋ねる。
「さあて、とてつもなく旧いとは聞いてますがねぇ……」
「きゃあ!」
最後の方は女の悲鳴にかき消された。理由はすぐに分かった。小舟の底にみるみる、川の水が入り込んできていた。タルスの旅用の長靴を濡らす水が、緑がかっていた。
「おいおい! どうなってんだ、こりゃあ!」
行商人が水を避けて立ち上がり、毒づいた。
2、
「クソッ、何のためにお前らに、高い渡し賃を払ってると思うんだ」
行商人の罵倒はまだ続いていた。
船頭は首をすくめて、やり過ごしている。小舟はひとまず目の前の中洲に着けられた。客たちは中洲で下りて、船頭自身は、水漏れ箇所を探り始めた。紫色の妙に派手な下帯が丸見えになるくらい、着物の裾をからげて船底を見ている。その船頭に、
「おい、すぐに直るんだろうな?」
と作業を覗き込んでは、まだ喧しく怒鳴っている。そんな行商人とは逆に、女は途方にくれた様子で水辺をうろうろしている。
タルスは小舟から離れて、中洲の真ん中に向かった。端と端に立ってもお互いの顔が分かる、そんな程度のこぜまい土の部分は、ほとんどが葦や地衣類で覆われている。それだけに、不釣り合いに中央に聳えるそれは、不気味だった。
廟宇は、表面が滑らかな黒い石を数個縦にして立て、ひと塊の柱のようにしている。近づいて見ると石肌に、古代文字か呪紋か分からぬ奇怪な文様があった。計り知れないほど昔に刻まれたそれは、磨耗していても尚、邪な力を有しているように感じる。
廟宇を覆う植物も、周りとは異質だった。黒紫の蛇体のような太い蔓が幾筋も黒石に絡みついて、それが空に向かって寄り合わされるように一体化し、そこからさらに周囲に拡がっているのだった。
通常、蔓植物は支えとする物より高くはなれないはずなのだが、一体どういった構造になっているのだろう。葉はなく、蔓の表面には小さな棘のような部分がびっしりとついている。見ていると、棘に切れ目があった。軽く指で触れてみる。すると棘は蕾のように開いて、中から吸盤めいた器官がニュッと出てきた。
ーー生きている。
訳もなくゾッとした。植物が生きている、という当たり前のことが、酷く禍々しく感じる。
タルスは何気なく小舟を見遣った。というのも、行商人の喚き声がすっかり聞こえなくなっていたからだ。
ふと、眉をひそめる。霧に巻かれてハッキリしないが、男の様子がおかしいように思えた。精気に満ちていた上背が丸まり、力が抜けて見える。
「おい……」
タルスが声を掛けたのと、それが男を襲ったのが同時であった。
白い闇を突いて飛び出したものが、男に肉薄した。大蛇のようなそれは、行商人の脚に到達するや、するすると絡みついていく。男はたちまち、均衡を失い、引き倒された。
巣穴に戻るようにそれが、男の脚を巻いたまま還ろうとする。行商人は、声にならない叫びを挙げて抵抗した。両手がむなしく土を掻いた。しかし腕に力がなく、ずるずると引き摺られていく。
タルスは怪物に殺到した。
小舟の方からも船頭が、行商人に駆け寄って来た。手に櫓を握りしめている。一足早く着いた船頭が櫓を振り上げる。
信じられないことが起こった。
船頭の振りかぶった櫓が、怪物ではなく、行商人をハッシとうち据えたのだ。
「何をする!」
タルスは行商人に飛びついたが、僅かに遅かった。屠殺場の獣めいた悲鳴を残し、男は一気に飲み込まれた。忌まわしい水音がした。川に引き込まれたのだ。
茫然となったタルスは、激しい衝撃で我に返った。咄嗟に防御態勢をとった。瞬時に気息を整え、全身を巌のように変じる。ヴェンダーヤの僧兵に伝わる修法をタルスは身に付けていた。満身の力で叩きつけられた櫓が、折れて砕けた。
攻撃を加えていた船頭は、赤黒く色づいたタルスの皮膚が無傷なことに、驚愕の表情を浮かべた。
「アレは何だ? 正体を知っているな?」
ジリッとタルスは船頭に詰め寄った。
船頭は答えなかった。人の良さそうに見えた顔は、いまや鬼の形相になっている。船頭は折れた櫓を放り投げ、彎曲したナイフを出して構えた。
タルスが寄ると、船頭は後でなく横に移動して距離をとった。二つの影法師は円を描くように間合いを測った。タルスの筋肉が躍りかかる猛獣さながらに、ギリギリと引き絞られていく。
ふいに霧が流れ、船頭の邪悪な笑みが目に入った。
気づいたときにはすでに遅かった。水辺を背にしてしまったタルスに、背後から蔓が襲いかかった。
3、
ガレオン船に使われる綱みたいな太い蔓が、タルスの左足と頸に巻きついた。凄まじい力だった。たまらずタルスは両手をバタつかせてのけ反り、よろめいた。好機を待っていた船頭が、水滴を掻き分け、ナイフをタルスに突き出した。
しかしタルスの左手は、寸ででナイフの刺突を撫でるように受け流すと、船頭の手首をがっちり掴むのに成功した。体術の修練のなせる技だった。右手は咄嗟に船頭の衣服を掴んだ。
小男ながら船頭は大した剛力だった。ナイフの切っ先をタルスに向け力任せに押しつけてくる。しかしそれは目眩ましだった。船頭は、タルスの脚に自らの脚を引っ掻け、倒しにかかった。
さしものタルスもこれには足元が掬われてしまった。どう、と地に倒れ込んだタルスは、船頭もろとも、瞬く間に川の中に引き込まれた。
ゴボリ、と生臭い水が鼻に入った。タルスはもがき、空気を求めて水を蹴ったが、手は離さなかった。船頭はタルスの腕から逃れようとメチャクチャに暴れている。
その出鱈目な動きが功を奏したようだった。手首を握るタルスの手が外れた。船頭はさらにもがき、ついに衣服をタルスの手に残して、拘束から脱した。
タルスは水中でうっすら目を開けた。うっすらと差す陽で、上に向けて泳いでいく船頭の足と尻が見える。船頭は下帯すらとれている。
そのとき、不可解なことが起こった。タルスの頸に巻きついていた蔓がほどけ、それが船頭に向かっていったのだ。蔓はたちまち船頭を捕まえた。彼奴にとっては不幸だが、タルスにとっては千載一遇の機会だった。タルスは左足に巻きついている蔓を両手で掴んだ。
肺に残る空気の量からして、これが最後になる。タルスは頭を空にして、体内の力を両の腕に集中させた。熱が、各所から腕に集まった。瘤のように盛り上がった筋肉が、蔓を捻り、引きちぎった。
蔓の抵抗のなくなった足を蹴ってタルスは、いっさんに上方を目指した。
無限に感じられた数蹴りの後、水面に顔が出た。
肺が勝手に大気を取り込んだ。
空気がこんなに甘露だとは!
しかし愚図愚図してはいられなかった。深呼吸し、抜き手をきって中洲に向かった。
なんとか土を踏んだとき、タルスは、偶然にも自分の足に船頭の下帯が絡みついていたことに気づいた。それを足で蹴り捨てようとして思い止まる。拾い上げて歩き出した。
中洲の中央、例の廟宇に近づく一歩一歩で、タルスの頭に考えが組み立てられていった。
魔術師のような学識はないが、彼には生き延びてきた智慧があるのだ。
渦巻く霧の中、廟宇の前では、女が青い顔で佇んでいた。
「嗚呼! 生きていらしたのね! いったい何があったのです? あの怪物は?」
タルスは答えず、女を脇にどかした。そして廟宇を覆っている蔓の一本を掴むと、先ほどの要領で満身の力でちぎった。
「止めて!」
叫ぶ女を、またも無視する。
蔓の損壊した箇所から、液体が漏れ出していた。樹液なのか血液なのか判然としないが、それは紫色の不気味な液体であった。
タルスは女に歩み寄ると、野良着を掴んで乱暴に引き剥がした。
「いや! 何すんの!」
女の反応は当然のことのようだが、タルスは獣欲に駆られたのではなかった。
なまめかしく乱れた裾から覗く腰巻きは、鮮やかな紫色をしていた。
「ふん、やはりお前も仲間というわけか」
タルスはつまらなそうな顔で云った。
「樹液で染めた下着を身に付けていれば、獲物と間違われないで済むということか?」
下着を隠した女は、無言で睨んでくる。
「さっき親切めかして寄越した食い物に何を入れた? 行商人の様子からして痺れ薬か?」
女の双眸が熱を帯び、ギラギラした光を放ってきた。
「いずれ干し肉にも入っていたのだろう? 察するにゾイル族は、定期的にあの怪物に生贄を捧げることで、ここで暮らしているのだな? ここは餌遣り場なのだな」
ふいに女が、魂切るような叫び声を挙げた。
「声なき者よ! 御身にこの漢を捧げます! 殺してください!」
「成る程、あの草の化け物がお前たちの神ということか。そしてお前たちはその眷族というわけだ」
「おとっつあんを、殺したわね!」
女の顔が憎悪に歪む。その詞で船頭が、女の父親なのだと知れた。
「お前を殺してやる!」
「どうやって? 素手で俺とやり合うか? それともあの怪物をけしかける? これを持っていれば襲われないのだろう?」
そういってタルスは、船頭の下帯を嫌そうに掲げた。
「お前たちの神が、智慧によって獲物を選り分けているとは思えんな。試しにお前を裸に剥いて、水の中に放り込んでみようか?」
たちまち女は顔色を失くした。
「止めておこう、たいして愉快でもなかろうからな。下帯を脱いで俺に預けろ。舟は操れるのだろう? 西岸に遣ってくれ。渡し賃は払ったんだからな」
タルスは、ニヤリと女に嗤い掛けた。
(了)
声なき者の湖 しげぞう @ikue201
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