58

 病室の一階には早朝の時間帯だというのにたくさんの人がいた。

 大きなガラスの壁越しに見る緑色の中庭にも、すでに何人かの人が散歩にでも出かけるようにして、中庭の中の円形の道の上を歩いている人たちがいた。

 一階の白いロビーを抜けて、二人はガラスのドアをくぐって緑色の中庭の中に出た。

 中庭と言っても天井にはガラスのドーム状の屋根があり、ここはいわゆる温室のような空間になっているので、病室の中と同じくらいに暖かだった。

 雫はお目当の一本の大きな若い木の前にある白いベンチに腰を下ろした。その隣には羽根先生が座った。

 雫はその白いベンチから、なにをするでもなくただぼんやりとその若い木と、その緑入りの葉っぱの間から溢れるきらきらと光る太陽の光に目を向けていた。

 羽根先生はなにかの難しそうな本を白衣の中から取り出して、それを雫の横で読んでいた。

 それから少しの時間が経過した。

 それは、とても穏やかな時間だった。


「……ありがとうございました。もう大丈夫です」と雫は羽根先生に言った。羽根先生は「うん」とだけ言って、また雫の小さな手を握った。

 二人は温室の中庭をあとにした。

 それから三階にある雫の病室に帰る途中、一階の温室の見えるガラスの壁の前で、「雫くん。悪いんだけど、少しだけここで待っていてくれる?」と言って、羽根先生が自動販売機のある横の青色のベンチを指差した。

「わかりました」と雫は言ってベンチに座った。

 羽根先生は一度雫ににっこりと笑いかけてから、ずっと握っていた雫の手をそっと離して、少し遠くにいた別の子供のところに近づいていった。そんな羽根先生の後ろ姿をぼんやりと少しの間だけ、雫は見つめていた。

 それから雫は目をつぶった。

 いつものように自分から世界を遮断しようとしたのだ。

 でも、その行為は途中で遮られてしまった。

 誰かが雫の横に座ったのだ。

 それも結構距離が近い。

 雫は驚いて目を開けた。

 するとそこにピンク色のパジャマを着た、長い黒髪をした雫と同い年くらいの女の子が座っていた。

 女の子は驚いた表情をしている雫の顔を、なんだか面白い新しいおもちゃでも見つけたような、そんな楽しそうな顔をして、じっと見つめていた。

 女の子は雫の言葉を待っているようだった。

 でも、雫はなんの言葉も言えなかった。

 ずっと一人だった雫は他人と話すことにとても慣れていなかったのだ。

 するとしばらくして、「ねえ? あなたの名前はなんていうの?」と女の子は雫に言った。

 雫は「……雫」と自分の名前を女の子に名乗った。

 すると女の子は「しずく。雫くんか。えっとね、私の名前は瞳っていうの! 今日から、よろしくね、雫くん!」とまるで太陽のような笑顔と一緒に、きょとんとした顔をしている雫に言った。


 真夜中のお散歩 終わり

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真夜中のお散歩 雨世界 @amesekai

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