大きな悪と小さい悪
「あなたが『悪の牙』さん?」
足元で鳴き声を上げる小さな生き物を、黒い獣は見下ろした。
二本の足で立つ小さな生き物。
「そうなんでしょう?話に聞いたとおりの、大きくて、恐ろしい姿」
恐ろしい、というわりに小さな二本足――人間の子どもだろう――は楽しそうに言った。
「あなたって、どれくらい罪深いの?」
一切の遠慮もなく、子どもは無邪気に問う。
「あなたはたっくさんの人を食べてきたのよね。それはとっても悪いことだわ!」
子どもは産まれたての雛鳥のようにぴいぴいと、一方的に話しかけてくる。
何にせよ、黒い獣が言葉を使ったことなど、一度としてないのだけれど。
「あのね、私も悪い子なんですって!」
奇妙な子どもの言葉。どこまでも一人で子どもは話し続けた。
「私ね、親なし子なんだけどね。生きてるだけで無駄なお金がかかるし、ただ飯食らい子どもなんて、存在自体が悪いんだって。お荷物、疫病神ーって。そんなこと言ってもねえ、お腹すくんだもん」
体をゆらゆら揺らしながら、なんてことのないようにしゃべり続ける。
「あー、あと、私の親もね、悪い人だったんだって。人をだましてお金を取ったり、盗んだり、殺しちゃったりとかね。だからその子どもの私もね、悪い子なんだって。罪人の子は罪人なんだーって」
ぐらぐら揺れる体はあちこち泥だらけで、ひどく痩せていて頼りない。
「んー、そんなこと言われてもなあ。私はお父さんとお母さん覚えてないし、私は盗みとか殺しとか、したことないもん。だから痛いこと、やめてほしいんだけどな」
獣は黙って話を聞いていた。興味もなかったが、勝手にしゃべり続けるのだから仕方あるまい。
子どもを放って去ることも、食べることも、できたはずだけど。
「悪の牙さん。あなたも私を悪い子だと思う?」
体を揺らすのをぴたりと止めて、子どもは尋ねてきた。
悪いも善いも。
黒い獣は人間の物差しで生きてはいない。
子どもが語る『悪いこと』の何がどう悪いのかがさっぱりわからないし。
人間が自分を悪だの罪だのと決めつけることも、まったくもってどうでもいいことだ。
黒い獣は、ただ生きているだけだった。
「生きてるだけで罪なんだって」
子どもは黒い獣の足元に、ひざまずくようにして座り込んだ。
「私、こんなにちっぽけな存在なのに、存在してるだけで悪いんだって」
子どもは獣と目を合わせる。
「私ね、自分よりずっとずっと大きな悪を知りたかったの。自分みたいな小さい悪は、大したことないよって、そう思いたかったから」
獣と合わせた瞳を、不器用に細めて子どもは笑う。
「すごく変だよね、そんなの。きっと大きい小さいは関係なくて、悪いことは悪いことのままだよね」
黒い獣には、善も悪もない。
罪というものは知らないし、ましてやそんな形のないものに、大きいだとか小さいだとかがあるだなんてことも理解できない。
「だったら私、もういっそ。大きな大きな悪いものになってしまおうかな」
獣には、罪に大きさがあるだなんてわからないけれど。
だけど目の前の子どもが、とても小さいということだけはわかる。
「ほんとのほんとに罪人になっちゃうの。私も『悪の牙』とか『災厄の爪』みたいになるのよ」
子どもは不器用な笑みのまま言う。
「だけど、私は人間は食べられないかなあ。そうだなあ、えーと、じゃあ誰かを騙してあなたのところに連れてきたりとか。頑張って、人間をこの森までさらって来たりとか。そうやってあなたが人を食べるのの片棒を担ぐ?のを、したりとか」
子どもは黒い獣に向かって細い手を伸ばす。
「ねえ、悪の牙さん。私を悪の道に引きずり込んでよ」
その言葉に、獣は初めて子どもに噛みついた。
口をがばりと開けて、牙をむき出しにして。
食べようとするのでなく、追い払うように。獣に両手を伸ばす子どもに向かって大きく吠えた。
「ひゃ!」
子どもは頭を抱えて後ずさる。
『去れ』
この世の何者も、恐らく獣自身さえ聞いたことのない声が言った。
ただの一度きりの獣の言葉に、子どもは信じられないものを見る目つきで、黒い獣の二つの目を見た。
そこにはただの二つの穴が穿たれているわけではなく。
間違いなく意思のある、強い光が輝いていた。
それから黒い獣はもう一言もしゃべらなかったし、子どものことはなすがままにすることにした。
ふとした衝動や飢えを感じたら、子どもを食べてしまうだろうという気がするくらいには、いつも通りの悪も善もない獣だった。
獣はずっとそういう生き物だし。
だけど子どもはそういう生き物じゃないだろう。そうなる必要も、きっとない。
そんなことを本当に一瞬だけ考えて、獣としては『気が迷った』かのように、子どもに吠えかかったのだった。
吠えられた子どもは、ずいぶんと長いことその場にとどまっていたけれど。やがて踵を返して、暗い森の中を駆けて行った。
どうやら言葉は通じたようだった。
『去れ』
言葉なんて使わない獣が、意識に浮かび上がってきたものを口にしただけのこと。
他にも『帰れ』とか。
近しい言葉が浮かんでは消えていった。
『サヨナラ』とか。
悪だか罪だか知らないが、小さな者。
それが去った今、もう使うことのない言葉だろう。
サヨナラ、小さな罪 いいの すけこ @sukeko
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