沈んだ彼女について

ねこK・T

沈んだ彼女について

 水底から見上げた先には、ゆらめく光があり、広がる蒼があった。


 しかし一方。私自身が居る場所までは、殆ど光は届かない。そのせいか、周囲はとろりとした色合いの暗さだけが広がっている。隣に居るはずの仲間たちも、微かなシルエットを見せているだけだ。

 沢山生えているであろう藻の姿も、時折潮流に洗われることで、初めてようやくその存在を分かるに過ぎない。もし流れがなかったなら、動きがなかったならば、薄暗闇にまぎれたそれらを、私はきっと知ることは無かっただろう。

 たまに私の視界を横断する魚は、酷くゆっくりとしたペースで、ゆうらり、ゆうらりとその尾びれを揺らして泳ぎ去ってゆく。私の腹を時折その影がかすめるらしく、微かなくすぐったさが全身を包む。

 私はそんな場所に、この薄墨の闇が広がる水底に、ずっと居続けている。時たま訪れる激しい潮流のせいで、存在する場所は少しずつ変わったとしても。水底にいること、それ自体は変わらない。月日など忘れてしまうほど、以前からずっと、変わらないことだった。

 常に私の周りには、まるで眠りを誘うような闇があり。

 常に見上げた先には、上から差し込む光と、水を通してきらめく蒼色が存在していたのだ。


 それはずっと、変わらないことであり。そしていつもの私の日々を構成するものだった。


   * * * * *


 だからその日も私は、いつものように上を見上げていたのだった。

 

 水の向こうからは白々とした光がこちらに届けられ、輪を描く。しかし、こちらまで――水底まで届くことなく、それは解けて消えてしまう。残っているのはちらちらとした光の残滓。それが微かに周囲の闇色をやわらげているとはいうものの、全てを照らし出すまでには至らない。

 さ、さらさらららら。

 周囲に響く潮流の音を聞く。流れに乗って光の輪もまた、流れ、向こう側へと連れ去られていった。私の身体もそれに伴い、流れてゆきそうになる。地面と触れていた筈の片側が浮く。ぐら、とかしいだ身体が揺れる。

 ――と、ととと。

 片側だけを地面につけ、支えにして。ふらふらと揺れていた身体は、ようやく落ち着いて。とすん。浮いていた場所も元通り、地面へと着地する。何とか転がってゆくことなくこの場所に留まる事ができて、私は胸を撫で下ろした。

「――よかったねェ、またどこまでも転がってゆくところだったジャァないか」

 私の隣で潮流に揺れていた藻が、からかうような口調で言葉を投げてくる。私はぶっきらぼうに、ああ、そうだね二股分かれ、と、短く言葉を返した。――正直少し疲れていたのだ。

 この場所は光の様子、水の向こうに望む蒼……それらがよく見える場所だった。視界を遮る岩もなく、通り過ぎる魚もまばら。何かに邪魔されることなく、日がな一日、上を見上げていることが出来る場所。水底の色々な場所を巡っては来たが、この場所が一番良い。

 そんな場所に居るのだ。出来れば動きたくない――自分を動かそうとする潮流に逆らおうとするのは当然じゃないか。

 だからこそ、対して軽口を叩くことも出来ないほど、私は今、疲れていたのだった。

 そんな私の様子を知ってか知らずか。隣の二股分かれは私を気にした風も無く、あァいいねェ、気持ちの良い光だ、音だ――そんな風に一人呟き続けていた。

 ――まあ、何時ものことか。

 彼のことは放っておいて、じゃあまた上を見上げていようか――私がそう思ったときだった。

 

 光が途切れる。

 

 何だ? そう、思う間も無く。暗く、大きな影が現れた。

 私の視界を覆いつくしたそれは、魚の影よりもずっと大きく。それでいてゆうらりとしたやわらかな動きを持って。

 ゆうらり、ゆら、ゆら――揺れながら。

 沈む、沈む、段々と私の方へとやってくる、近くなる。

 光の輪が浮かぶ水面から、ゆるやかな闇の待つ、水底へと、沈む。

 ――何だ、これは?

 私はそんな疑問を抱きつつ、「それ」がゆらりと沈むのを、そしてそのまま、私と仲間がひしめく水底へと着地するのを見つめていた。水面近くに居た時はまだ、光に縁どられて姿が見えそうなものだったが、ここまで辿り着いてしまっては、それすらも見ることは適わない。凝った闇の中、何となく「在る」と分かる程度。

「何だろうネェ、これは。……アンタの位置からは見えるかい、白腹の」

「いいや――私のところからじゃあ、さっぱりだ。私よりも、二股分かれ、あんたの方がずっと高い位置から見える筈だろう。そんなに背が高いのだから。――それにも関わらず全然ということは……」

 私は隣に居る藻にそう言いながら、くるり、と上を見た。潮音が聞こえたのは、ほんのつい先ほどだ。当分は潮流なんてやっては来ない。――すなわち、この闇が薄れる事も当分無く、この「何か」が何なのかも当分分かりはしない。

「――当分は分からん、って事だねェ。魚にしちゃあ大きすぎるし。全然動く様子を見せないってのも変なもんだネェ」

 藻がそうやって首をひねる一方、私はただただ、その突如水面から降って来たそれを見つめ続けていた。水底に着地してからというもの、藻の言うとおり全く動く様子が見られないそれ。

 一体それは何なのだろうか。考え続けても、埒は明かず、思考は巡るばかりだ。

 ――今は諦めよう。

 そう決めたのは早かった。どうせ姿を見ることができるのはずっと後、潮流がこの闇を洗い流してくれる時なのだから。

 

 だから、目の端に、思考の端に。急な訪問者の存在は追いやって、私はまた何時ものように上を見続けることに決めたのだ。


   * * * * *


 ざあ、という音を聞く。


 それは、水底への訪問者がやって来てから随分と時間が経ってからのことだった。見上げていた蒼はすっかり無くなり、水の向こうには朱と薄墨が混じったような色が広がっていた。ちらりと望む白は、星なのか、月なのか。

 音に続いてやって来た大きな流れに、私は必死に踏ん張り、転がってゆかないように力を全身に巡らせる。

 そんな中で、ちらちらとそれでも見ていた視線の先、それは昼間突如やって来た、訪問者が横たわっているはずの場所だった。

 周りの闇をざあと取り払われたそれは、強い潮流にもびくともせず、予想通りにそこに居た。端の部分がゆらゆらと水に踊る。

 暗闇が潮流によって洗われ、白い明かりの元、姿がぼやりと浮かび上がる――それが身にまとっている色は、蒼。

 その色は、私が何時も、水の向こうに望んでいる色、そのものだった。


   * * * * *


 ゆらり揺れる蒼。それは一日のうち何度か訪れる潮流によって、暗闇が洗われ――明らかになる。私がその度に視線を向けると、必ずそれは、ひらりひらり、と潮に踊っていた。


 ――一体あれは、何なのだろうか。

 暗闇の向こうに見える姿や、魚たちの証言を繋ぎ合わせながら、ここ何日も私は考え続けていた。だが、言葉からその姿を思い浮かべる事が出来ても、それが一体どういったものなのか、答えを知る者は誰も居なかった。

 それは、私も含めて。

 水面からは、いつものように揺らめきながら光が降り注ぐ。その暖かさを全身で浴びていると、つい、と何か影が横切るような感覚に包まれた。

 視線を上げると、やはり私の目の前には、派手な色をした尾びれを揺らしながら、にんまりと笑う魚の姿があった。ひらりひらりと踊る尾びれが、まるで闇の向こうのそれの姿のようだと。私はちらりと思う。

「やあ白腹の」

「やあ紅尾びれ、元気かい」

 私の言葉に、ひらりと紅尾びれはご自慢のひれを揺らしてみせた。もちろんさ、と。私はその様子を見て、言葉を継ぐ。

「紅尾びれ。――君は。あれ、見たのかい?」

 一瞬、きょとんと紅尾びれは私へと視線を返す。あれって何だっけ? そんな不思議そうな言葉が聞こえてきそうだ。その様子に私は慌てて説明を加えた。数日前に突然やって来た訪問者、未だに動く様子すら見せない、闇の向こうのもののことを。

 言葉を重ねるうちに、彼はようやく合点したようだった。ああ! と大きな声を上げ、嬉しそうにひれで水をかく。

「ああ――あれかい? 見たよ。見た。うん、白い棒のような塊があってねえ。それをこう……ひらひらしたものが覆っているみたいだよ。ほら、僕らのひれだったり、鱗があるだろう。こんな感じだよ」

 紅尾びれはそう言いながらくるりと円を描くように、私の上を泳いだ。水面から降って来る白が、その鮮やかなひれや鱗の色とぶつかって、周囲に色を散らす。私はそれを見上げながら、頭の内側で再び、暗闇の向こうのそれの姿を描き直した。

 何度か、見ることのできたその姿。私の位置からでは、ただ、ひらりと水に踊る蒼しか見えなかったが――それは、その私が見ていたひらひらしたものだけではなくて、棒のようなものと一緒になって一つになっているらしい。上手く想像は出来ないが。

 紅尾びれは頭上でくるりくるりと円を描き、描き。その鮮やかな色を散らし、散らし。そして遊び泳ぐことにようやく飽きたのか、私の目線にまでするりとその体を返してきた。

 彼は私をじぃ、と見つめてから口を開く。そうそう、そのさっき言ってた奴のことだけれど、と。

「白腹の。でもね。あんまりにも皆が突付くものだから、蒼いのがぼろぼろになってきてしまっているんだよ。もうじき白い塊だけになりそうだ。だから――見れるのも、あと少しなのかもしれないね」

 紅尾びれは闇の向こうに居るはずのそれの方へと視線を向けた。

 一方私は、先ほど自らの内で描いていたそれの姿を、もう一度なぞっていた。白の棒を包んだ、揺れる蒼。ひらり、ひらり、けれどそれは、いつしか水に流され居なくなる色。

 ずっと眺めていた水面と同じその色が、無くなってしまう。

 ――ならば、せめて、

「少しでも長く見ておかないとネェ。白腹は随分あれがお気に入りみたいダシ」

「煩いなぁ、二股分かれ」

 隣から突然投げられたその声に、私はむっとしながらも言葉を返す。自分の思っていたことを、全て先回りされてしまったようで悔しいが、確かにそれはその通りなのだ。かといってやはり、どうにも悔しい気持ちは治まらず、私はきつい視線を隣へと向けてみる。――けれど、やはり隣に佇む藻といえば、ひょうひょうと波にたゆたっているだけなのだった。私は大きなため息をつく。

「じゃあ、これで僕は帰るよ」

 話は終わったとばかりに、つい、と紅尾びれは水面へと帰ってゆく。

 鮮やかな紅を周囲に散らしながら去る、その背中を見送って。そして視線を移すのは暗闇の向こうだ。そこに今は何も見ることは出来ない。


 けれどそこには白い塊を見せながらも蒼を揺らすそれが、横たわっているはずだった。


   * * * * *


「……?」

 水面の向こうは、水底と同じ色が広がっていた。朱の世界は疾うに過ぎたのだ。見上げる視界の隅に揺れながら居る白は、三日月だろうか。

 ざあ、ざああ――響く響く波の音。聞き慣れたそれに何かが混じる。蒼い空にするりと白雲が流れてゆくように。自然に。解けるように、溶けるように。

 ――一体、何なのだろうか?

 私がそんな問いを浮かべた時だった。こちらに訪れた潮流が、先ほどから聞こえ始めた音を含みながらも、ざあと周囲の闇を取り払ってゆく。


「……っ、――、……」


 その向こうには――

 潮流に暗闇が洗われ、明らかにされる姿。そう。細い月明かりの元、沈んできたそれがゆっくりと体を起こしながら言葉を紡ぎ、海に音を乗せているのだった。

 ゆらりと潮流に揺れながら、体を揺らし――そうそれは、訪問者の「体」に違いないと私は直感した――周囲に響き広がる潮流を震わせるように、音を発す。

 高く、高く、そして低く、低く。急上昇しては急降下する音の繰り返し。

 それは、きぃん、と。張り詰めたような。

 悲鳴にも似た、けれど、まごうことなき「歌」に違いなかった。


「ぁ――っ……あぁ――っ」


 白い腕を――そう、それは、腕だ!――ゆらりと巡らし。

 体にまとっていた蒼い衣――衣などという概念を、何故私が知っているのか。自分でも分からないが、それでも――それは、三日月から零れる、細く白く鋭い光の下で解けてゆく。ほろほろと、ほろほろと。水に散っていった蒼を見逃さないように、思わず私は向こう側へと視線をずらす。

 そして視線を訪問者へと戻したならば。

 身にまとっていたぼろぼろの蒼と同じ色が、訪問者の下半身をびっしりと覆っていた。そう、正に紅尾びれが言っていた言葉どおり、覆うそれは蒼の鱗だった。


「らぁ――る、りぃらら――ぁっ」


 訪問者はゆらりと頭を揺らす。――そう、その先端についた大きな丸は頭に違いなく。頭上の水面を求めるかのように、その向こうの月を抱きしめるかのように、細い腕を伸ばし、揺らす。

 そして鱗に覆われた下半身が、ざあ、と水をかく。月明かりに照らされて、その鱗が周囲に蒼を散らした。波に乗って、こちらにまで蒼がやって来る。ちらちらと。

 ざあ、ざあ、ざあ――響く響く潮流の音に混じるように、大きな下半身が何度も何度も、水をかく。ざあ、ざ、ざあ。

 ゆらりゆらり、腕は水底から上を目指す。


「ら――りぃ、あぁ、らぁ――っ」

「りあ、ああっ」

 

 氷のような張り詰めた声が周囲の水音を消した。


 その高い、一際高い声を一つだけ残して。

 水底に眠っていた彼女は、大きな下半身――否、ひれを動かしながら、上へ、上へと目指して泳ぎ昇る。そう、訪問者は「彼女」だったのだと、私は感じた。彼女は降る白月の光を体中に浴びて、鱗の蒼を反射させ、辺り一面をざあとその色一色で染める。

 蒼が散る。水底へと散る。

 潮流は過ぎ、戻ってくるはずの暗闇は未だ戻ってこない。

 ここに残っているのは、彼女が残した、張り詰めた歌と三日月を含んだ蒼。


 それは、私がいつも水底から望んでいたものだったのかもしれなかった。


   * * * * *


「後は知らない。私が知っているのはここまでさ」

 そんな私の言葉に、目の前にいる男は面白そうに頷いた。私はこの男に請われて、水底の話をちょうどし終わったところだった。手に持った何か――あれは、手帳と言うのだったか――に、時折手を動かしながら、男は私の話を興味深そうに聞き続けていた。時折、これはどうだったんだ、と質問を重ねる位だ、余程しっかりと聞きたかったに違いない。

 ――妙な奴だ。

 私はそんなことを思いながら、光に照らされた熱い身体を少しもてあましつつ、こうしてここまで言葉を紡いでいた。

 そう、何の因果か――水底に居た私は、流れ流され、ぽちゃり、と。水面へと顔を出し。そして今や岸辺の地面へと、その居場所を変えていた。

 あの場所に居続けたい――そうは思っていたものの、水の流れは酷く気まぐれで。私の意志などお構い無しに、強い流れは、私の身体を意図も容易く運んでいったのだ。

 光を望み、空を見上げた水底から。

 光を浴び、空の色をこの肌で感じてしまえる岸辺へと。

「他に何か、あるかい?」

 目の前の男はいいや、と首を振った。これで十分――十分素敵な物語が紡げるよ。そんな言葉を一人ごちるように付け加える。物語とは何だろうか――私にはよく分からなかったが、余りにも目の前の男が幸せそうな表情を浮かべているので、深くは聞かないことにした。説明を求めるのは無粋なような気もしたのだ。

「では、もう、いいだろう? 早く、早く」

 私は男の指先を見つめながらせがんだ。この話をする代わりに、と。事前に彼とは約束を結んでいる。その約束を早く果たしてほしかった。じりじりと焼ける背中が痛い。ざあざあ、さらさら、と。頭には懐かしい潮流の音が響く。

 

 さあ、いくよ。白い小石くん。

 

 ごつごつとした指先に摘み上げられる。陸の上の仲間達が何事かと私を見上げているのが、中空から見渡せる。少し申し訳ないような気持ちがよぎるが、それよりも帰れることの喜びの方が勝っていた。体中に響き渡るのは彼女が響かせていた歌だ。

 今ならば分かる。彼女が水底で口に乗せたのは、私と同じ気持ちから来る歌だったのだ。体中を巡る喜びが唇から溢れて、歌となったのだ。望んだ場所へと帰れる喜びが歌に。

 私の体を包む彼の指が、中空で動く。併せて私の視線も横に薙ぐ。

 ひゅう、という音と共に私の体は放たれて。空を飛ぶ。ひゅう、ひゅう。そんな音を体中で聞きながら、私は水面を目指して落ちてゆく。

 ――ああ、これで。

 ようやく帰れる。

 水底へと。水面を望む事の出来る場所へと。


 ぼちゃん、という音と共に、私の体は暗闇を目指して沈んでいった。




 その後、水面を目指した彼女がどうなったのか、物語なるものを紡ごうとしていた彼が一体どうしたのか。私には分からない。

 ただ私に分かるのは。

 この薄墨の広がる水底から望む、ゆらめく光と、広がる蒼だけだ。

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