宵闇の彼

ねこK・T

宵闇の彼

 誰も居ない自宅へと辿り着き、窓から外を眺めると、闇に満ちた中、黒々とした海がうねるのが見えた。時折波頭が防波堤にぶつかり、白い泡がちらちらと舞う。今宵は月もなく、水平線と接した夜空も闇の色、ただ一色で。色といえばその波間の白くらいだった。今は窓を閉めているせいか音までは聞こえないが、空に雲が無いところ、そして海の傍の木立が止まず揺れ続けているところを見ると、そこそこ強い風が吹いているらしい。視線の先でまた波頭が砕け、散った泡が風に乗って飛んでいった。

 自室の電気も未だ付けないまま、私は外の景色をぼんやりと眺め続ける。そういえば、この部屋に住もうと決めたのは、この窓の外に見える海景色が気に入ったからだった。日中外を眺めれば、その一面に光を含み弾ける青い波が見えるのだ。初めて不動産屋とこの部屋に来たときは、その美しさに息を飲み――そして次の瞬間には住むことを決めてしまった。光と共に、部屋の奥深くまで差し込んでくる青。部屋中がまるで海のようになってしまったかのような錯覚すら覚え、住み始めた当初は海に泳ぐ夢ばかり見たものだ。

 ただ、住み始めてから時間が経つにつれ、私は海がただ美しいだけのものではないと思うようになった。――そう、たとえば今窓外に広がっているような冬の夜の海。特に月の無い夜は、海は色をただ闇、その一色に染め上げ、冷たく音を響かせるのだ。ざざん、ざざん。窓を開ければ部屋の中に飛び込んでくるその音は、低く響き渡り自分の心の奥深くへと沈み込む。沈みきった音はまるで氷のように、或いは冬風のように。心の中を冷やしてゆくのだった。

 私は暗がりの中音も立てずに窓辺へと進み、細く窓を開けてみる。やはり予想通り外からは風が吹き込んできた。波音は潮の香りと共に風に乗り、部屋の中に広がってゆく。

 ――寂しい。人恋しい。

 今夜の海もやはり例に漏れず、まるで泣いているかのような波音を部屋中に響かせる。その音を聞いていると、こちらまで寂しい気持ちになってきてしまうから不思議だ。駄目だ、このままではまた、暗い夜の海に引きずられてしまう。部屋の換気をしたくて窓をせっかく開けたのだが、仕方ない。私は再び窓に手をかけ、そこで、はたと気付く。闇の中にぽつん、と色が見えたのだ。先程から見えていた、波が砕ける白ではなく。ゆらゆらと揺れながら動く、ぼんやりとした白い――光の色が。

 光はゆるゆると防波堤の上を滑り、止まった。炎のように瞬いたりはせず、ぼんやりと照らすその光の様から、ランタンか何かであると知れた。遠目でしかとは分からないが、光の脇には何か、人影らしきものも見える。誰かが灯りを持って海へ来たのだ。珍しいこともあるものだ。私は小さく呟いた。夕方であればまだ、釣りやサーフィンで訪れる人もある。しかし、既に日も暮れた夜の海にわざわざ訪れる人は少ない。一体何がしたくて、この場所に訪れたのだろうか。

 海がまた波音を立てる。ざざん、と響くそれは後に長く尾を引いた。窓の隙間から入り込んだ音は部屋を巡り、私の心の中、奥深くへと沈み込んでゆく。私の中へと入り込む音は、自分の感情を波立たせ、頭の中をかき回す。

 ざざん、ざざん――少なくとも私は、一人であんなところに立ちはしない。だからきっと、私とは違った思いを抱いてあの場所へやって来たのに違いない。海辺に立つあの人物はどういう人なのだろうか。たった一人で、何を思って夜の海へ来たのか。

 ――聞いてみたい。

 浮かんだ疑問は好奇心へと膨れ上がり、胸の奥から体中を染め上げた。私は窓辺から立ち、家を出ると、海辺のあの光の元へ向かう。

 人恋しい。

 私を突き動かしたのはそんな感情。夜の海が響かせる音から生まれたそれだった。


 月明かりも電灯も無い今夜は、闇の色が視界を占めている。その濃淡で辛うじて木立や防波堤のブロックの輪郭が分かる程度だ。私は防波堤から海へと転がり落ちないよう、ゆっくりと歩を進めた。足元に視線を落とし、ブロックの端を確認しながら、一歩。そしてまた一歩と。俯いたままの頬に時折冷たい感触があるのは、砕けた波の粒がぶつかっているからだろう。

 そのうちに、落とした視界の端に白い色が映る。顔を上げると、まず、ランタンの灯りが飛び込んできた。闇色に染まる世界の中で、その白が何と明るく見えることか。次いで、それに照らされている横顔が目に入る。闇の中に浮かび上がったのは、防波堤に座り込んだ人物、頬の少し痩けた青年のものだ。顎には剃り残したのか、ぽつぽつと無精髭が見える。そんな彼の顔が、光の中でゆるりと向きを変え、私の方へと向いた。

 ランタンの光を弾いた彼の瞳は茶色く、不思議そうな色を視線に乗せている。私は何も言わずに瞳を見つめ返すと、彼は瞬きを二つ三つ繰り返した後に唇を開いた。

「――驚いた。幽霊かと思った」

 だって、こんな暗い場所に人が来るなんて思わないから。そう続けた彼を私は軽く睨んだ。確かに、こんな夜の海にやって来る人は稀だ、そう思ったのは自分も同じだ。しかし、それをそのまま口に出さなくても良いではないか。しかも一言目にだ。むっつりと押し黙ったままの私を見て、視線の先の彼は悪いと思ったのだろうか、申し訳なさそうな表情を見せた。

「すみません。いきなり言う事では無かったですね。……ええと、今更ですが。こんばんは」

「――こんばんは」

 ようやく交し合った挨拶はどこか間が抜けていて。波音がざざん、と私たちを笑うかのように響いた。――不思議だ。私は思う。部屋で聞いていたはずのそれが、少しやわらかく聞こえ始めていることに。先程聞いていた時の音は、あんなにも寂しく、人恋しさを助長させるものでしかなかったのに。ざあん、とまた、波音が鼓膜を叩いた。ひときわ強く響いた分、その波は大きいものだったらしい。防波堤にぶつかった波頭は砕け、白い泡は暗闇の中、高く舞い上がった。

「わ、わわっ、危ない、濡れる」

 青年は慌てて、濡れないよう手の中のものを持ち上げた。おや、と私は思う。濡れてはいけないようなものを海辺に持って来ているなんて、と。本当に彼は一体何をしにこの場所へやって来たのだろうか。

「と、とと……ふう、危なかった、濡れるところだった」

「――濡れてはいけないものなんですか」

「ん、ああ、もちろん。――ほら、これ紙だからね」

 こちらに見えるように向けられたのはスケッチブックだった。ランタンの灯りに照らされ、その紙面は驚くほどに白く明るく見えた。まるでそれ自体が発光しているかのように。スケッチブック――そうか、この人はここに絵を描きに来ていたのだ。よく見れば紙面はただ白いだけではなく、鉛筆の薄黒があちらこちらに散っていた。描き始めたばかりであろうそれは、まだ絵と呼べるほどの形は取っていなかったが、きっと彼は、この防波堤からの風景を描こうとしているのだろう。

「それにしても、こんな暗い夜の海にわざわざ来なくても」

 月も無ければ星も無く。闇に沈んだ海を、ランタンの光それだけで捉えるのは大変だろうに。彼は私の言葉に苦笑を零したようだった。光に照らされた口角が上がる。

「本当にあなたの言うとおりで。本当はね、もう少し早く来るつもりだったんですよ。夜になる直前の空と海とを描きたくて……でも、思った以上に日が早く沈んでしまって、着いたときにはこの通り。なので、色付けは無理でも、せめて、海の様子だけでもスケッチしてから帰ろうかなと」

 肩をすくめながらの彼の言葉に、私は引っ掛かりを覚えた。一体それはどういうものなのかと。頭に浮かんだその疑問がそのまま唇から零れ落ちる。

「夜になる、直前……?」

「そう。日が沈みきった直後の、深い青色の空と、それを映した海が描きたくて。昼の明るい青空から、闇色の夜空に変わっていく間の色だね」

 私は彼の言葉に、思わず空を見上げた。そこにはやはり、月も無く星も無い真っ暗な空が広がっているだけだった。確かにその闇は深く、吸い込まれそうな色ではあるが――彼の言うところの「深い青」は見当たらず、それを想像することすら難しかった。

 昼間の明るい青空ならば知っている。あの部屋を選んだのもその青の美しさが理由なのだから。そして、海に沈む夕陽が作り出す、緋色の空も勿論知っている。その空を映した波が揺れるたび、まるで炎が揺らめいているかのようで、その美しさに目を奪われたものだった。けれど彼が言うのはそのどちらでもない空であり、色だという。

「私には分からないな……」

 空から視線を戻し呟くと、彼はやわらかい笑みを浮かべてみせた。それは、相手に分かってもらえないという、無念さが滲んだものだった。

「そうですよね、この時間だし。こんなに真っ暗では。残念だな、あの空と海の色はとても綺麗なのに」

「――申し訳ない」

「いいえ、分かりにくい事を言っているのはこちらなんです。あなたが謝るような事じゃないです」

 謝罪の言葉を口にした私よりも、彼の方がずっと申し訳無さそうな表情を見せる。そして彼は、どこか寂しそうにスケッチブックに向かい、鉛筆を走らせ始めた。さらさら、さらさら。波音の合間合間に、スケッチブックと鉛筆とが奏でる音が聞こえる。途切れなくその音が響くのは、彼が迷うことなく絵を描いている証拠だ。

 ――どんな絵を描いているのだろう。

 ざあん、とまた波音が響き、私の背を押した。

「見せてもらっても良いですか」

 近づきそう言うと、勿論です、と彼は迷い無く言葉を返して来る。描いている絵そのままに。

「残念ながら、色も何もないただのスケッチですが。それでも宜しければどうぞ」

 右隣に置いていたランタンをずらし、彼は隣に座る場所を作ってくれた。私はその場所に代わりに収まり、左側、彼の抱えるスケッチブックへと視線を落とす。やわらかな白い光の中、彼の右手は淀みなく動き、紙面には防波堤から見える海辺の景色が、いきいきと描き出されていく。こんな闇の中にもかかわらずこんなに描けるなんて。ほう、と私は感嘆の息を漏らした。

 ――これに色が付いたら、一体どんな絵になるのだろうか。

 今この絵の中にあるのはスケッチブックの白と、鉛筆の黒、その二色だけだ。だが、彼の言葉からすると後日必ずまた、彼はここに絵を描きに来るだろう。そうきっと、今度はスケッチだけではなく、絵具での色付けもするだろう。彼の言葉にあった「深い青」――夜になる直前の空と、海の色。それを彼は、どのように描くのだろうか。

 紙面と向かい合い続ける彼の瞳には、隣にいる私の姿は見えていない。それを良いことに、私はそっと握り拳を作った。そうだ彼がこの海辺に来たときはまた、絵を見せてもらおう、と。そんな決意を、掌と一緒に握り締めたのだ。


   * * * * *


 職場からの帰途空を見上げると、沈み始めている太陽が見えた。西の空が赤々と染まっている。後一時間もしない内に空は闇に沈むだろう。北風に飛ばされたのか雲はまばら、きっと夜空も美しいに違いない。そうだ、と私は思いつき、行き先を自宅から防波堤へと変更する。

 きっと彼は今日も来ているだろう。そんな予感にも似た思いを胸に浮かべ、西空を見つめながら歩みを進めると、次第に耳には波音が響き始める。ざざん、ざあん。夜が近付いているにもかかわらず、その音は何時かのような寂しさを含んではいない。まるで春の朝方のそれのように、滑らかに遠く近く響いては、私の心を丸く、穏やかにしていくのだった。

 何故そんな風に聞こえるようになったのだろう。歩く道のりで思考を巡らせるが答えは出ない。日は段々と傾き、空の青が段々深みと暗さを帯びる。薄闇の帳が周囲へ静かに落ちようとするところで、私は防波堤へと辿り着き、目的である彼の姿を見つけた。

「――こんばんは」

「こんばんは。また見に来て下さったんですね、ありがとう」

 最初に会った時はスケッチブックを広げていたが、数日後、彼はイーゼルとキャンバスとを持って現れた。下絵が既に描かれたキャンバスに、油彩絵具で色を付けていく。絵筆或いはナイフが、一つ、また一つと色を運ぶたび、四角く区切られた海や空が命を宿してゆくように私には思えてならなかった。絵画なんて全くやったことの無い私が何度も彼の元へ足を運んでしまうのは、彼がこうして絵に命を吹き込む工程を見ているのが楽しくて仕方ないからだろう。

 今日は何処まで進んだのか。隣から私は絵を覗き込む。キャンバスには既に青を基調とした色が付いており、今は部分部分に更なる色を重ねている途中のようだった。

「何度見ても不思議だ……色を付けるだけでこんなにも印象が変わるなんて」

「ええ、僕も描いていて思います。色っていうのは本当に美しくて、面白くて、不思議なんだなあって」

 彼はそこで言葉を切り、ほら綺麗でしょう、と空を指差した。つられて見上げれば、深く青い、闇に沈む一歩手前の空がそこには広がっていた。太陽は完全に海の向こうに沈み、夕方の赤は、水平線に沿って一本線を引いたように残るだけだ。もう後数分もすれば、この青も消えて空は黒一色に染まるだろう。彼の描こうとしているこの空の色は短い時間しか見られないだけに一層美しく、せめて絵画に留めたいという彼の気持ちが分かるような気がする。

「綺麗だ……本当に。だけどこう、何色、とは言いにくいな。藍、紺、青、青紫――どんな言葉で表現すれば良いのか分からなくて。その分絵に描くのも難しいんだろう?」

「そうですね、一色だけじゃなくて様々な色を混ぜて重ねてみていますが……いや、やっぱり難しいです。悪戦苦闘してもなかなか上手いこといかなくて、絵具ばかりが無駄になってるような気すらしますよ」

 彼は鞄から絵具のチューブを取り出した。買って日もそれ程経っていないと思われる新しいそれは、既にその八割方が使われていた。

「この色ばかり減ってしまうんですよ、空の色をこの色中心で塗りますから。でもなかなか思うように塗れなくて、減るばっかりで。お蔭で最近は画材店に通いっぱなしです」

 苦笑に唇を歪めて彼は言う。私は彼の掌の絵具を見遣り、その色の名を読み上げた。

「――ウルトラマリン・ブルー?」

「ええ。日本名だと紺青とか群青、それと、瑠璃色っていう色が近いですかね。実際昔この色の絵具は、瑠璃――ラピスラズリを砕いて顔料にしていたらしいですし」

 チューブを再び鞄に戻しながらの彼の言葉。私はそうなのか、と驚きに目を瞬かせる。ラピスラズリは私にも縁のある貴石だが、顔料にもなっていたとは初耳だった。彼にもラピスラズリについて話をしたことがあるが、その時のことを覚えていたからこそ、こうしてわざわざ教えてくれたのだろう。穏やかに微笑む彼の表情から、私はそう確信する。

「ありがとう、教えてくれて」

「お礼を言われるほどの事じゃないですよ。――さて、また描きますか」

 彼はランタンに灯りを点すと、防波堤の少し高くなったところに置いた。白い灯りが、闇に染まった周囲を柔らかく照らし出す。キャンバスに向かい合う彼の横顔も白く照らされ――私は、彼の頬に以前よりも濃い影が落ちていることに気付く。痩せたのだろうか。だが、そんなことをいきなり問いかけるのは失礼に感じられ、浮かび上がった疑問は胸底に押し込めた。


   * * * * *


 細く開けた窓から、ざざん、と波音が入り込んでくる。その音は何時かと同じく泣き声にも似て、寂しさで部屋中を染め上げていく。まだカーテンを引いていない窓からは、深い青に染まった空と、同じ色の海が見える。月は多分出ないだろう。今宵はきっと、波の音だけが響く、暗い夜になるに違いない。

 夜が迫る時刻、外は段々と明るさを落としていた。部屋の電灯はまだ点けていないが、完全な闇に沈んだわけではないから、辛うじて部屋の中のものは見える。私は視線を壁に走らせた。時計の横に掛かっているのは、先日貰ったばかりの絵。ウルトラマリン・ブルーを基調に様々な色を重ね合わせ、夜の迫る海辺を描いたもの。

 そう、壁に掛かるこの絵は彼が描いていたものだ。


 この絵を貰ったのは彼からではない。数日前、彼の住むアパートの管理人と名乗る女性が持参したものだ。人の良さそうなやわらかい彼女の笑顔は、彼のそれに通じるものがあった――だからだろうか。いきなり彼女が私の元を探し尋ねて来て、渡したいものがあるんです、と言ったときも不信感を抱く事は無かった。

「――大崎さんがね、貴女に渡して欲しい、って言っていたんですよ」

 そう言って彼女が差し出したのがこの絵だった。そして共に渡されたのが一通の手紙。

 私はその手紙を、挟んでいた手帳から取り出す。受け取ってからまだ数日しか経っていないにもかかわらず、何度も何度も、読んでは封筒に戻しと繰り返したせいで、便箋は折り目の部分から破けてしまいそうだった。決して破けないよう、私は慎重にそれを開く。


「渡辺瑠璃 様

 あの空の色を名前に持っていらっしゃる貴女に、この絵をお渡ししたいと思いました。

 宜しければ受け取って下さい。貴女に会えて嬉しかった。

――大崎清司」


 彼の名すら、私はこの手紙で初めて知った。

 彼に請われて自分の名を教えたことはあったが、逆に私から尋ねたことは無かったからだ。別に名前を知らなくても、私はあの防波堤で彼の顔を見ることが出来れば満足だったのだ。何時か必要になったら、彼の名を呼びたくなったら聞いてみよう。そう思ってはいたのだが、切り出す機会を逃したまま、彼は突然防波堤に来なくなった。そして先日。私を訪ねてきた、彼のアパートの管理人の女性から、この手紙を渡され、私は彼の名前を知った。

 そして同時に、彼がこの世を去ったという事も知った。栄養不良から体調を崩し、入退院を繰り返していた、とも。高い画材を買うのに、随分生活を切り詰めていたみたいでねえ、とは彼女の言だ。

 防波堤で会ったあの日、頬に濃い影が落ちていたのはそのせいだったのか。

「――馬鹿だ、本当に……っ」

 唇から零れ落ちた声は悲鳴のように細く掠れて、私の鼓膜をざらりと撫でた。その言葉は彼に向けてというよりは、自分自身に向けてのものだった。

 もし、彼の名前を聞いていたら。もし、あの時顔色の悪さを問うていたら。もしかしたら、今とは違った今があったのかもしれない。事情を聞けば、彼に対して何か出来たかもしれないのに。何故私は、あの時一歩を踏み出さなかった? ――言葉はぐるぐると渦を巻き、答えも出ないままに私の心を掻き乱す。胸に押し込めていた疑問は、後悔になって沸き起こり、部屋に響く波音と相まって胸を刺した。

 私は便箋を破れないよう慎重に封筒へ戻すと、痛む胸を押さえ大きく息をつく。

 ――気付いた時点で既に叶わぬ恋心だなんて。

 何度も何度も防波堤へ足を運んだのも。波音が違って聞こえたのも。彼の気遣いが嬉しかったのも。全て、彼が好きだったからだ。しかし、その思いに気付かされたのは今になって。彼の綴った手紙を読んで、そして彼の死を知ってからの事。

「本当に、私は馬鹿だ……」

 再度呟き、私は視線を上げる。縋るように彼の絵を見た。青を何度も重ねて描き出された、夜になる直前の空と海の絵。その絵の右下、防波堤の部分に、ぽつんと白光が描かれている。彼が持って来ていたランタンの灯りのようなそれは、私が防波堤で見た時には無かったものだ。そこだけ後から描き足したのだろう。一体何故、青に満ちた世界に、一つ、光を描いたのか。その理由も、今となっては分からない。


 私は窓の向こうに広がる空と海とに視線を放る。後少しで夜に落ちようとする世界は、深い青で満ちている。海辺の木立には影が落ち、砕けた波頭からは白泡が舞う。ざざん、ざざあ。波は寂しさに満ちた声を上げた。段々と防波堤には闇が忍び寄っているが、そこに、何時かと同じく白が揺れることはもう無いのだろう――壁の絵とは違って。

 それでも私は、その光を探さずにはいられなかった。

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