サヨナラ、小さな罪

さかたいった

最後の時間

 どうして?

 どうしてそんな悲しそうな顔をしてるの?

 泣かないで。

 あなたが泣いたら、わたしまで……。

 そっと右手を伸ばし、彼の頬に触れる。

 こぼれそうな雫を、ゆっくりと指に移す。

 これで大丈夫。悲しみは拭き取ってあげた。

 笑って。わたしの大好きな笑顔を、見せて。

 なにを驚いてるの? わたしは幸せだよ。

 あなたがいてくれるから。

 このまま、あなたの優しさに包まれて、眠りたい。


 それは罪。自分勝手な欲望。

 彼女はもう、彼女じゃない。

 自分と同じ、呪われた存在。

 おれが救いたかったのは、彼女じゃない。自分自身の、弱い心。

 助けたんじゃない。逃げたんだ。

 どうしようもない不安と、悲しみと、恐怖から。

 彼女の首筋から滴るそれは、甘美な味。

 どんなチョコレートよりも、濃厚で甘い。

 罪の意識は消えない。

 もうおれは笑えない。

 彼女は笑ってくれる。また、自分に笑顔を見せてくれる。

 だけどおれは、その笑顔が怖かった。

 彼女が怖いのではない。

 怖いのは、自分の弱さだ。


「朝日を見に行こう」

 そう言った彼は、わたしに背中を向けていた。

 どうして、とは訊かなかった。言ったらきっと、彼の悲しい顔を見ることになるから。

 彼は自分を責めている。わたしは彼に感謝していた。でもどんなにその気持ちを伝えても、彼は笑ってはくれない。

 あなたの笑顔が見たいのに。

 どこで間違えたのか。何がいけなかったのか。

 わたしは幸せ。とても。

 それだけでは、いけないの?

 夜の街は、風がひんやりとして、でも彼が手を繋いでくれたから、寒くなかった。

 街灯に照らされた石畳の道を歩く。渡し舟が多く行き交う、水の都。

 狭い路地を抜けて、短いトンネルを通って、小さな橋を渡って。

 わたしたちは歩く。

 気分は上々。人気のない夜の道は、秘密めいた雰囲気が漂っている。

 レンガの垣の上を歩く黒猫とすれ違う。

 黒猫はギャアと鳴いて去っていった。

 そんなに怯えなくてもいいのに。

 わたしたちはあなたの血を吸ったりしない。

 建物の間から見える夜空に、まあるい月が見える。

 見惚れるほど綺麗で、ウキウキした。

 わたしは歌って踊りながら、彼と歩く。

 彼は驚いていたけど、くすっと笑ってくれた。

 久しぶりに見た彼の笑顔。

 楽しい夜にしましょ。

 だって最後の夜なんだから。

 夜空の月も笑っている。

 誰にも邪魔されない、二人だけの世界。

 彼と手を繋ぎ、陽気に歩く。

 楽しくて。楽しすぎて。

 涙が出た。

 笑いながら、こぼれる涙。

 まだまだ夜は終わらない。


 彼女の歌声は美しく、輝く彼女の瞳は愛おしかった。

 そんなつもりじゃなかったのに、彼女につられて楽しくなる。

 彼女のことが好きだった。それは偽りのない、正直な気持ち。

 彼女への感謝の気持ちで胸が膨らんでいく。

 彼女に出会えて、よかった。

 彼女は自分を救ってくれた。

 満月に見守られながら、夜の街を歩く。

 このままずっと、一緒にいたい。

 だけどそれは許されない。

 自分は罪を犯したのだ。

 けれど、今この瞬間だけは、楽しみたい。

 彼女と過ごす時間を噛みしめたい。

 ぼくらは手を繋ぎ、笑いながら、歌って、踊って、また笑って。

 幸せを分かち合って。

 そして、岸に着いた。


 街のはずれ。すぐ目の前が水面。

 岸に座り、足をブラブラさせる。

 月の光が水面に反射して、幻想的。

 静かな、二人だけの夜。

 彼の肩に頭を預けて、寄り添う。

 手は握ったまま。

 その手を離したら、もう二度と届かない。そんな気がして。

 いろいろと話したいことがあった。でもそれは言葉にならず、消えていく。

 時が止まったような、二人だけの時間。

 でも時は確実に流れている。

 小さな波。

 脳裏に浮かぶ、彼との思い出。

 すぐ隣にいる、彼の温もり。

「後悔、してる?」

 気づいたら、わたしの口からその言葉が漏れていた。

 なんて悪戯な言葉だろう。

 彼はゆっくりとわたしのほうを向く。

 純粋な輝きを放つ、彼の瞳。

 彼は答えず、前を向いて、少しだけ強く手を握った。

 わたしも手を握り返す。

 彼より強く。力を込めて。

 もう一度彼がわたしを見た。

 あなたは優しすぎる。

 だけど、そんなあなたが愛おしい。

 時が過ぎていく。

 地平線が、淡い光を放ち始める。

 新しい朝の始まり。

 今ならまだ間に合う。

 だけど二人とも、動かない。

 それが二人の願い。

 このまま離れずに、二人で……。


 地平線から太陽が顔を出すにつれ、月の光が薄くなる。夜が出番を終えて、バトンを渡す。

 もう怖くはなかった。彼女が傍にいてくれるから。

 体が少しずつ、そこへ向かっていく。

 だけど最後までこの手は離さない。

 オレンジ色の太陽は、美しかった。

 希望の光が、世界を照らす。

 自分たちには眩しすぎる光。

 体から少しずつ蒸気のようなものが上がっている。

 ふと隣を見ると、彼女は笑っていた。

 優しく、穏やかに。

 自分も彼女に笑い返す。

 答えは、ノー。さっきの彼女への答え。

 最後にきみの笑顔を見ることができた。

 最後まで二人で、一緒にいられる。

 日は地平線から姿を現し、ゆっくりと昇っていく。

 それにつれ、意識が遠のいていく。

 彼女の笑顔を描いたまま。

 これでやっと。


 サヨウナラ。

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サヨナラ、小さな罪 さかたいった @chocoblack

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