死神の怠慢
棗颯介
死神の怠慢
「もう、どうでもいいや……」
———そうだ、早く死んでくれ。とっとと仕事を終わらせたいんだ。
目の前の痩せこけた青年はキッチンに立つと、手にした包丁を何の躊躇いもなく自分の手首に押し付ける。手首から赤い汁が滴り落ちた。
———あぁもう、そんなんじゃ足りないだろ。こうするんだよこう。
俺は包丁を持った青年の手を握ると、それを手首にさらに強く押し付け、そのまま勢いよく切り裂いた。まるで噴水のように血が溢れ出し、痛みに苦しむ青年は全身からかき集めたかのような大量の涙を流す。しかし、決して悲痛な声をあげることもなければ助けを呼ぶこともしない。そうだろう、この青年は自分で死を選んだのだから。
青年はキッチンの床に倒れ、陸に打ち上げられた魚のようにしばらく身体をビクンビクンと震えさせるが、やがて血だまりの中で眠るように息を引き取る。
———よし、終わった終わった。
青年の死を確かめ、俺は外へ出る。
扉は開けない。開ける必要がないから。
階段は降りない。降りる必要がないから。
人目は気にしない。気にする必要がないから。
———俺が“死神”の仕事を始めてからどれだけの時間が経ったのだろう。
最初に目を覚ました時から、自分は既に死神だった。
多くの人間がイメージしている黒いマントを羽織って大きな鎌を持った髑髏顔の死神は、自分が知る限りはいない。他の死神たちも概ね人間と遜色ない姿をしている。
目覚めた時に目の前にいた先輩の“死神”が言った。
「お前は今日から死神だ。死を望む人間の手助けをしろ。」
訳も分からず、ただ“先輩”に連れられて仕事を覚える日々。いつの頃からか俺は“先輩”の元を離れ一人で仕事をこなせるようになっていた。
死神の仕事とは、人を殺すことではない。
自ら死を望む人間の手助けをすることだ。
手助けといっても、本当にただ背中を押してやる程度のこと。
飛び降り自殺をしようとして迷う青年の背中をそっと押してやることもあれば、首を吊ろうとして高所に上ったはいいが怖気づいたサラリーマンの足場を蹴飛ばして止めを刺してあげたり、生きることに絶望しているが自分で死ぬ気力も体力もない老婆に事故に見せかけて上から棚を倒してあげたり。
“死神”は誰の目にも映らないし声も聞こえない。こちらから意識的に触れようとしなければ人でも物でも建物でもすべてをすり抜けて移動できる。宙に浮くことも朝飯前だ。
この仕事に俺個人の悪意や殺意と呼ぶべきものはない。まず最初に本人の“死にたい”という意思があり、その意思を尊重して手助けをするだけ。慈善事業とも言っていいだろう。この仕事でどれだけの人を殺しても誰にも何も報われず、あるのは死を前にした人間の深い絶望、悲しみ、怒り、憎しみ、そして死への希望だけ。これほど割に合わない仕事もないだろう。
どうして“死神”という存在が在るのか、この仕事を始めたばかりの頃一度だけ“先輩”に聞いたことがある。
「この世に人が増えすぎたから、適度に減らしてバランスをとる必要がある。どうせ減らすのなら自分で死にたいと思っている人間を減らした方がお互いにメリットがあるだろう?」
どうしようもないほどに合理的だ。
その思想がこれ以上ないくらいに正しいと思ってしまったからこそ、俺はこんな仕事を淡々と続けていられるのだろう。
以来俺は数えきれないほどの死を望む人間の元を訪れ、“生”という呪いから人々を救ってきた。
そう、これは救いなのだと思う。
———さて、今夜のお仕事はと。
基本的に死神は眠らない。食事もとらない。疲労すら感じない。時間の感覚すらないが、おそらく歳をとることもないのだろう。そして死神には名前すらない。死神は世界中に存在し、今この時も死を望む人間の元を訪れているが、基本的に一緒に行動することは仕事を覚えたての時期くらいで、独り立ちしてしまえばもう他の死神とコンタクトをとる必要もなくなる。人間ともコミュニケーションをとらない以上、名前など必要ないのだ。
———近くに“匂い”がするな。
死神は死を望む人間の居場所が“匂い”で分かる。これを俺は死の匂いと呼んでいるが、とにかく感覚的に分かるのだ。人間社会では警察という組織が犬の鼻を利用して別の人間の後を追うというが、それに近い。
“匂い”を辿った先にあったのは、小さなアパートだ。その部屋に人の気配はあるが、夜であるにもかかわらず明かりはついていない。こんなことは珍しくもなかった。自ら死を望むような人間というのはどうしてか光を嫌う。そしてこの手の人間を相手にしたときの仕事の成功率は限りなく100%に近かった。
部屋には髪の長い女性が一人、椅子があるにも関わずフローリングの床に足を崩して座っている。暗くて顔はよく見えないが、その瞳はひどく虚ろに見えた。
———あぁ、これはきっと楽に終わるな。
見ただけでそう思えるほどに、その女性は憔悴しきっているようだった。その手に握られているのは小ぶりなカッターナイフ。正直自殺する上でのカッターナイフの殺傷力はあまり高くはないのだが、まぁ俺が手を貸せばなんとかなるだろう。
女性はしばらく抜身のカッターナイフをぼんやりと眺めていた。俺はそれを少し離れた場所で胡坐をかきながら見つめる。
何時間が過ぎただろうか。あるいはほんの数分しか経っていないのか。時間の感覚がない自分には分からないが、とにかくその女性はようやく動いた。
———お、動いた動いた。
女性はカッターナイフの切っ先を自分の喉に向けた。
———おぅ、手首じゃなくて喉いっちゃうのか。確かにそっちの方が確実かもしれないけど、カッターナイフだと途中で折れちまうかもだぜ?
まぁ最悪最後の一押しは自分が手伝ってやればいいだろう。
そんなことを考えているうちに、女性は一思いに喉にカッターナイフを突き刺した。
「いたっ……」
が、どうやら刺したところがちょうど喉の骨にぶつかってしまったらしい。薄いカッターの刃が骨とぶつかる鈍い音が聞こえるとともに、女性は痛みに耐えかねて咄嗟にカッターを手放してしまった。
「……ふっ、ふふふ………」
喉から流れる血を手で抑えながら、女性は自嘲するかのような笑い始めるが、やがてその声に悲しみの色が滲み出る。
———あーあー見てられないな。早くカッター拾えよ、俺が一思いにやってやるから。
その時、不意に闇に包まれていた部屋に薄く光が差し込む。どうやらそれまで雲に隠れていた月が顔を出したようだ。窓から入り込んだ月明かりに照らされた女性の喉元には、今なお赤い血が滴り出ている。血の量からして大した怪我にもなっていないだろう。せいぜい一針縫う程度の小さな傷が残るだけ。
まぁもう死ぬんだからそんなこと気にする必要もないけど。
それまで傍観を決め込んでいた自分はようやく立ち上がり、女性のすぐ傍まで顔を近づける。
「っ、お兄ちゃん……」
月明かりが差し込んだことでようやく見えた女性の顔と、その口から不意に漏れた言葉が、まるで大きく鋭い槍のように自分の胸に突き刺さる。
自分は、この顔を知っている。
自分は、この声を知っている。
どこかで見たことがある。
どこかで聞いたことがある。
そう、どこかで———。
月明かりに照らされた部屋の一角。ふと視線を向けると、そこにはこの女性の家族と思われる集合写真が飾られていた。
父親と母親の間に挟まれるように、二人の兄妹が仲良く並んでこちらを見ている。片方は、きっとこの女だろう。隣に立っているのは———。
———俺?
死神は幽霊ではない。吸血鬼でもない。だから鏡にも自分の姿は普通に映るし、死神の自分がどういう姿をしているのかも俺は知っている。だからこそ、その写真に写っているのは俺だということはすぐに理解できた。
「お兄ちゃん、どうして一人で死んじゃったの……」
目の前の女性はしきりに“お兄ちゃん”の名を呼び続ける。どうやらこの女には兄がいて、それはもう死んでしまったらしい。
死んだ兄というのは、おそらく俺だ。
自分には“死神”として目覚める以前の記憶はない。だから、これはただの俺の妄想だ。
俺は多分、人間だった。
人間で、目の前にいる女の兄だった。
俺は、きっと自分で死を選んだ。どうしてかは分からないし思い出せない。
もしかしたら、俺はあの“先輩”に背中を押されて死んだのかもしれない。だとしても“先輩”を責める気にはまったくなれない。
もしそうなのだとしたら、死ぬことを選んだのは他でもない俺自身だ。
そしてこの女は、俺の妹だったのかもしれない誰かは、俺の目の前で死のうとし、延々泣き続けている。
俺の死が、彼女を傷つけたのか。
俺がいなくなったせいで、彼女は死のうとしているのか。
だとしたら俺は、本当に彼女にとっての死神じゃないか。
“死神”が手を貸すわけではなく、ただ自分の中に残ってしまった思いだけが彼女を死に向かわせている。その思いをくれた“誰か”は、もうこの世のどこにもいないのに。
これはきっと、今まで“死神”としてやってきた俺の仕事の中で、最も楽で、最も罪深い。
人はみんな呪われている。生きている限り、過ぎ去ったものを求めて、もう手が届かないはずのないものに手を伸ばそうとする。
元々はこの世に存在するはずのない命だったのに。死んでしまえばもう何処へ行くこともなくなるのに。生きているせいで人は心に振り回され、傷つき、苦しみ、怒り、悲しむ。
“生きる”ということは、やはり呪いだ。
この日、俺は初めて人間を見逃した。
手を貸す気にはなれなかった。
放っておいても勝手に死ぬかもしれない。
俺は彼女の死神だから。
———でもまぁ、個人的なことを言わせてもらえば、俺はお前に生きてほしいと思うよ、知らない誰かさん。
死神の怠慢 棗颯介 @rainaon
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