植木さんに恋をした
オレの仕事場がある雑居ビル。その裏玄関を出たところで、管理事務所の係員と目が合った。
「あ、ども。メシ食ってきます」
いつもの挨拶とはいえ、いちいち行き先を報告するのも、変な話だな…… そんなことを思いながら、オレは馴染みの定食屋へ向かった。
* * *
そして、昼飯の満足感に浸りながら、職場へと戻る。
──アジフライ定食がワンコインだなんて、神だぜ。
ここ最近の最大の楽しみは、このランチタイムだけだった。
ちょっと寂しい人生。なんの
裏玄関の扉に手を掛けた時だった。誰かが、訴えかけている声が聴こえる。
──ボク、ここにいるよ。気づいて
そう言っていた。
後ろを振り返る。誰もいない。
……気配を感じた。
玄関口すぐ横の自転車置場だ。
干からびた鉢植えが一つ、そこに置かれていた。
捨てられていた、と表現したほうが正しかったかもしれない。
その鉢植えが、妙に気になった……
まさにその時であった。
オレと、その鉢植えとの、運命が変わったのは。
それがオレ達の、新たな日々の始まりだった。
春は出会いと別れのシーズン。この、地味な雑居ビルでも、間接的にそれを感じていた。
人事異動に伴い、部屋のレイアウトを変更する。その時、溜め込まれていた不要物などが、ゴミとして大量に出される。
この鉢植えも、そんな経緯で出されたのだろう。
「どうしたんですか? あの鉢……」
気になったオレは、すぐ横にある管理事務所の係員に聞いてみた。
「あぁ、それね。一階の内科クリニックの奥さんが持ってきたんだ。処分してくださいってね。そう言われてもねぇ、鉢植えの土は分別しなきゃならないし、まだ完全に枯れていないし。どうしたもんだかねぇ…… 」
その奥さんなら、オレも知っている。にこやかで上品そうな、院長夫人である。何かの手伝いで来ているのか、ときおり顔を見かけた。
院長は、眼鏡を掛けた白髪の紳士という風貌だっだ。穏やかな
子供の背丈より少し大きなその鉢植えは、ベンジャミンという種類の観葉植物だった。
枝ぶりがかなり荒れていて、殆んど手入れをされていなかったことを物語っている。
長期間放置されていたためか、全ての葉を落としていた。だが、枝を触ると弾力がある。
まだ生きていることを主張していた。
──医者に
瞬間、オレはそう思った。
頭の中に〈不条理〉という言葉が、駆け巡っていた。
三階にある勤務先の事務所。殺風景を絵に描いたような空間だった。
──鉢植えのグリーンがあるだけで、ずいぶん雰囲気が変わるだろうな
そう考えたオレは、処分品の鉢植えを貰い受け、育てることにした。
素人ながら、こみ入った枝をある程度剪定してみる。すると、いじけていた姿が、ほんの少しだけ堂々としたものに見えた。
ベンジャミンの鉢植えに触れているとき、終始オレは〈ベン〉という愛称で呼び掛けていた。
その名前は少年を指している。だが、繊細な枝ぶりは女性の印象をまとっている。ベンと呟きながらも、オレはボーイッシュな少女を想像していた。妄想が次々に広がる。
鉢植えだから…… 苗字は、植木さん、かな。
細身だけれど、まだまだ身長が伸びそうな予感が。部活は、きっとバレー部だ。背中のゼッケンにUEKIと書かれているのが見えた。
名前は…… ベン子。ベンちゃん。ちょっと変だけど、オレは、そう決めた。
枝ぶりの剪定をしながら、そんなことを考えていた。
──もし、オレに子供がいたなら、こんな風に身体を洗ってやる場面などがあったのだろうか
丸裸になった幹や小枝。埃を丹念に拭き取る。その身体に触れていたとき、相手が少女だったことに、ふと気付く。
モヤモヤとした、変な気持ちになった。だが、エッチな、それ…… ではない。なんと言うか、もっと精神的な何か。
ある衝動が走った。
──オレ、植木さんのことが、好きです
鉢植えを前にして、そう告白していた。
それはそうと……
勤務中なのにオレ、一体何やってんだ?
ふと、我に返った。
* * *
そして、一週間が経過した。
ベンちゃんに、ある変化が現れた。
細い枝のあちらこちら、そこが僅かに膨らんでいる。それは、明らかに芽吹きの前触れだった。
さらに、数日後。小さな葉っぱが、たくさん出てきた。点々と、明るい緑色が広がってゆく。
当初、ツルツルの裸だった少女。それが今や、グリーンのドット柄を着こなしている。
──ベンちゃん、凄くオシャレ。素敵だよ
クソ寂しかったこの事務所、そしてオレの人生。そこに、ベンちゃんが彩りをもたらしてくれた。
剪定したての頃が、もはや懐かしい。部屋の隅で、恥ずかしそうに固まっていたあの頃が、もう遠い過去のように思えた。
空調の効きは悪いが、自然光が入る環境が合っていたのだろう。その後も、ベンちゃんはスクスクと育っていった。
そんな、ある日のことであった。ベンちゃんの足元に、水の入ったペットボトルが置いてある。
「あっ、それね。清掃係の人が、ずっと水やり管理してたやつ。置き忘れてったらしいよ」
同僚が、そう言った。
そうなんだ…… みんな気に掛けてくれていたんだ。
いつしかベンちゃんの身長は、天井に近付くほどまでに成長していた。最頂部が、空調の風に揺れている。それは歓喜のダンス。
オレにはそう見えた。
モノに恋するタイプなんです nekojy @nekojy
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