モノに恋するタイプなんです
nekojy
自転車が部屋にやってきた
横倒しされた自転車の前輪が、スポークのところまで砂に埋まっている。
握り飯を頬張りながら、オレはその光景を眺めていた。
西から吹き付ける風は冷たかったが、陽射しをいっぱいに受けたウインド・ブレーカーは暖かい。
遠く波打ち際の方へ目をやると、何羽かの千鳥がシルエットになって遊んでいた。
キラキラと光る波。ダイヤモンドを散りばめた、大自然の宝石箱。
潮騒の優しいささやきが耳に届く。風が清々しい。
一台の自転車を手に入れたオレは、その翌年の正月、海まで一人走った。
ルイガノ LGS CCT。それが、その自転車の名前だった。フランス語なのにカナダ製。スポーツ・バイクながらカジュアルな使用感。
パツパツの派手な自転車ウエアなど絶対に着ることはない。ツーリングよりもポタリングのほうが好き。そんなオレには、ちょうどいいモデルだった。
二輪車は、動いていないと倒れてしまう。基本的に前進することしか出来ない。そして、乗車中は無意識に五感が働き、どこかで心の緊張を強いられている。
大きさもスピードも全く違う乗り物ながら、どこか飛行機にも似たものがある…… ちょっと言いすぎか。
そいつに乗り始めた頃は、小さなアパートに暮らしていた。便利な立地ながら、周辺は治安があまり良くない。
オレは盗難を恐れるあまり、自転車を室内で保管していた。そのためか、いつしかそいつは同居人のような存在となっていた。
無言ながら、その同居人とはどこかで心が通じ会う。気がつくと、殺風景な部屋でポツンと二人、酒を酌み交わしていた。
最初に部屋に招き入れた理由は、変速ギヤの微調整を行うためだった。
ひとめぼれで手に入れた自転車、名前があったほうがなお愛着がわく。んー、そうねぇ…… ルイと呼んでおこうか。本名がルイ・ガノーだからね。
ルイとのふれあいは、楽しいものだった。
メカニカルな調整は、既にサイクル・ショップで完璧に仕上げられている。だから、ほとんどやる必要はなかった。
やったことといえば、サドルの高さ調整くらいだ。ルイに跨がり、ペダルに足が届くギリギリのところまでサドルを引き上げる。
その高さは「だって、足が長いんだもん」という見栄の高さでもあった。
機能美という言葉がある。特に自転車のようなシンプルなものは、それが際立っている。
ドロップ・ハンドルの曲線。三角形のメイン・フレームの太さに比べると、随分と細い前輪と後輪。
唯一、複雑な機能美を見せているのは変速装置だ。そして、スリムにカーブしたサドルだけがアンバランスに高かった……
そんなことをしているうちに、すっかり日が暮れてしまっていた。
オレは、部屋の天井照明を点ける代わりに、小さなクリップ・ライトを光らせ、ルイの背後に置いた。
真新しいボディーの輝きが際立つ。
まるで恋人の肉体を眺めているようだった。
「今日のキミは、とてもキレイだよ」
そんな言葉を囁きかけるように視線を送る。そして、更にじっくりと眺めていたかったので、オレは手元に酒を用意した。
ルイと名付けられた自転車は、男の舐め回すような視線に晒されている。羞恥心からなのか、ルイはじっと身を固くしていた。
恋人の肢体を眺めながら、男は昼間のデートを回想する。
……そのスリムなボディに跨り、覆い被さるような姿勢で両手を繋ぎ合わせている。汗ばむ手のひらで身体を引き寄せ、グイグイと登り詰めてゆく。ハァハァと荒くなる息……
他人から見たら、ただの自転車乗りの風景だろう。だが、人に見られながらする行為に、オレの脳内からは快楽ホルモンがドクドクと出ていた。
ルイという名前。よく考えると、少年のようじゃないか…… まぁ、いいか。
「股間の痛みは、もう大丈夫。痛くても堅いほうがいいの…… 」
男は恋人のサドルを眺めながら、そう語りかけていた。
股間の痛みとは、長時間サドルに座ったときに訪れるケツの痛みを指す。
スポーツ・バイクのサドルはカチンカチンに堅い。軟らかだと、漕ぎ手のパワーを100%活かせないからである。ただ、この痛みはすぐに馴れるが。
酒の酔いからか、男の上半身が崩れ始めた。床に片ヒジを張り出し、上体を支えながら酒を飲んでいる。視線は相変わらず自転車に注がれていた。
しばらくして男が上体を起こす。そして、少し自転車に近づく。ちょっと触れたくなる衝動に駆られたのだろうか。
もし、この対象がオートバイだったら、間違いなくそのグラマーなボディーの上に乗っかっているだろう。そして、丸く膨らんだガソリン・タンクに、頬を擦り付けていたに違いない。
自転車の場合、酔いに任せて乗っかるには、あまりにも華奢だった。それでも、メインの一番太いフレームを握ってみる。そして、そのまま上の方まで手を滑らせて行くと、形の良い小ぶりな 「お椀型」 のものがあった。
横にクリクリと動くものが…… それを指で弾いてみた。
チン、チーン♪
ルイが、そう応えた。
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