恋影レーヴ

七夕ねむり

恋影レーヴ


 じりじりと肌を焼く日光、けたたましい蝉の鳴き声、汗ばんだ髪が鬱陶しい。


「菜穂、私今日急いでるから先に帰るね」

「了解、お疲れさま」


 夏休みの部活終わり。朱莉はそう言って足早に部室を出て行った。

最近ピアノを習い始めたらしく、とにかく先生が厳しいのだそうだ。その言葉のわりに、唇は弧を描いていた横顔が脳内を過ぎる。

将来保育士になりたいから今からやっておくのだと言っていたっけ。全身を制汗シートで拭きながら、親友の少し前の話を思い出した。


将来の夢、ね。


 明るくて元気な朱莉らしくて素敵な夢だ。真面目な彼女のことだから、きっとそれは遠からず現実になるのだろう。

高校二年の中半、去年先輩たちが言っていた「シンロ」とやらに振り回される季節はもうそこまで来ていた。自分が何になりたいか、数年後どうありたいか考えなさいと先生は言ったけれど。

そんなもの考えてすぐに思いつくようなら、始めから考えなくても頭の中に思い描いているものがあるに違いない。

胸のうちがざわざわする。

ずっと。


私は何になりたいんだろう。


 朱莉が居ないとなると、同時に寄り道をする必要も無くなり、私はいつもよりゆっくり荷物をまとめて部室を後にした。駅前のアイスの半額キャンペーンは、一人では行く気になれない。

鉄の扉を押して一歩踏み出すと、熱気が爪先から頭まで全身にぶつけられて、息をするのさえ苦しい。冷却された肌も一瞬で日光に焦されて、じわじわと熱を持ち始める。数歩歩いて、せめてもの抵抗のようにお気に入りの白を開いて噛み付くような太陽を遮った。

 シンプルでひとつだけ小さな花の刺繍が施してあるこの日傘は、先日お母さんが買ってきてくれたものだ。同級生はふりふりのレースがたっぷりとついたものを持っていた子もいたけれど、私はなんだかそれが気恥ずかしくて、駄目だった。

ペンキが何重にも塗られた階段を降りる。ぎしぎしと軋む音は慣れっこだ。


 手のひらで、束になった銀色が微かに金属音を立てた。これさえなければ私もさっさと帰れるのに、なんて。考えても仕方ない。

不在の部長の代わりに職員室への返却を買って出たのは私自身なのだ。二年生は朱莉と私だけの出席だったし。予定もなかったし、ね。

 それにしても暑かった。去年の夏はどうやって過ごしていたんだろうと不思議に思うくらい。

蜃気楼さえ立ち昇りそうな熱風が頬を煽っていく。職員室で汗が冷えたのは一瞬で、廊下を渡る時にはもう生温い空気に全身が飲まれてしまう。背中に張り付くワイシャツの不快感を、水筒のお茶を飲み干して誤魔化す。

早く帰ろうとその一心で廊下の板を踏んで、硝子の扉を押し開ける。また、隙間からぶわっと溢れた数分前と違わぬ空気に、ぽとりと首筋から滴が垂れるのがわかった。

鞄の中からマフラータオル引っ張り出して、首に掛ける。埃っぽい格子の中から、背の低い傘を掴む。面倒なので傘は開かないことにした。どうせ、目的地まではもうすぐだ。




「ぎゃ!」


 それは、中庭を抜けて自転車置き場に向かおうとした時だった。

冷たい重みが、ぱしゃんと頭上から降ってきた。

ひやりと身体が冷たくなったのは束の間だった。徐々に緩くなった水滴が頭からぽとり、ぽとりと落ちてゆく。まるで小さな夕立にでも降られたみたいに。

一瞬の、ことだった。


「ごめん!」


雨、じゃないな…………状況を上手く把握できなくて、ただぼうと突っ立っていたら、声がした。

聞き慣れない人の、強張った声。

男の子の声だった。

コンクリートを蹴る音が数歩分聞こえた。ローファーの浸水具合を確かめているともう一度、焦りを含んだごめんという音が耳を打った。

 やや速い呼吸音。私の前でぴたりと止まったスニーカー。目の前には水がちょろちょろと出ているホース。伝わって来る戸惑いの空気。

私はやっと自分が誰かの不注意で水を引っ被ってしまったということに気づいたのだった。


「ごめん、是枝さん」


 名前を呼ばれて顔を上げる。

陶器みたいな肌に、陽に透けると栗色に映る髪。決まり悪そうにホースを携えていたのは、驚くことに知った顔だった。

ほとんど話したことのないクラスメイトの、真宮君。

「大丈夫? じゃないよな。 タオルは……教室、」

はっと方向を変えようとした彼の袖を、慌てて掴む。

「タオルならここにあるから気にしないで」

首元のタオルで、がしがしと髪を拭う。ポニーテールの先から滴がぱたりと、焼けた地面にそのまま落ちた。じゅ、っと音を立てそうな熱されたコンクリートに。

「冷たかったよね」

ポケットに手を突っ込んで、何かをごそごそと探す真宮君の顔は鼻先まで真っ赤染まっていた。

「暑かったから丁度よかったよ。 そんなに濡れてないし、ちょっと涼しくなった」

 見たところ濡れてしまったのは、髪と肩、それからプリーツスカートの裾だけのようだ。ブラウスはほとんど濡れていなくてほっと胸を撫で下ろす。靴の中も浸水ゼロ。

細口のホースでよかった。へらりと笑ってみせると、やっと真宮君もつられたように、頬をぎこちなく緩める。

「ほんとにごめん」

けれどそれも一瞬のことで。結局何も出てこなかったポケットから手を出した彼は、だらりと腕を下げる。眉を下げた彼の表情は、さながら叱られた賢い犬のようだった。

「そんな気にしないで。 私なら平気だし。 それよりなんでホース?」

あれ、こんな人だったっけ。

 私はホースを指差しながら尋ねる。教室にいる彼は静かで、表情がこんなに豊かな印象などなかった。もっと澄ましている人だと思っていたけれど。

「ああ、これ。 水やり、先生に頼まれたから」

そう言って彼はベンチ周りの植え込みを振り返った。長い木組のベンチ数本をぐるりと取り囲む植え込みには、よく見るといくつかプランターが置いてあって花壇になっていた。中には小さな花をつけているものもある。この暑さだからだろう、元気のなさそうな花も少しだけあったけれど。

「真宮くん、園芸部だっけ」

「いや、帰宅部だけど」

当たり前のように彼は言って、不思議そうに首を傾げる。

「え、じゃあなんでこんな暑いなか水やりなんてしてるの!」

すると彼はまた私が何を意図しているのかよくわからない、という様で口を開いた。

「先生に頼まれたから」

「園芸部でもないのに? だってここ、園芸部の活動場所でしょう?」

思わず大きな声を上げてしまった私に、彼は少し目を丸くして、それから平然とした声で淡々と言う。

「園芸部、休みらしくて。 俺は丁度暇してたから、まあいいかなって」

それでこんな暑い中部活動でもないのに水をやっていたのか。大体今は夏休みのど真ん中。きっとクラスの大半が部活をしているか遊びに行っているというのに、暇だからとはなんとも酔狂なことだ。私なら絶対何かと理由をつけて断る。

「まあ、なんだかんだで一時間もかからないし」

しかし、さらりと真宮君が口にした言葉にさっと肝が冷えた。

「一時間!?」

この炎天下で一時間?私は冷えた職員室から出てきただけでこんなに汗だくなのに?

 飛び出しかけた言葉は飲み込んだ。余計な詮索をしていいほど、私達は親しくないのだった。代わりに、手元の白を開いてさっと差し出す。彼には足りない日陰だろうけれど。小さな影に入った彼は口元を緩めた。


「あ、涼しいかも」


 私は腕を精一杯と伸ばしながら、うん涼しいなと満足気な彼をそっと見上げる。気温で上気した頬は私が知っている真宮君より、少し幼く見えた。

この人…………。こんな人だったっけ。

二度目の疑問が頭をもたげて、もう一度薄い頬を見上げる。

そもそも真宮君とはお互い顔を知ってるぐらいの間柄で。真宮君の声さえも私はわからなかったわけで。

彼とこんなに言葉を多く交わしたのは初めてのことだった。





 真宮君ははっきり言ってよく掴めない人だった。

クラスの派手な男子のように騒がしいこともなく、もちろん何か問題を起こすわけでもなく、決まった友人数人といつも一緒にいた。強いて言うなら、外見は少しばかり目立っていたと思う。

すらりと高い背に、透明を溶かしたみたいな肌、陽に透ける栗色の髪、長い睫毛に同じ色の瞳。それから骨張った大きな手。

新学期の間もない頃、朱莉が真宮君ていいよねと嬉々として言っていたのを聞いたことがある。

私はふうんと返し、特段気にしたこともなかった真宮冬哉という人物をその時初めてきちんと認識したのだった。そんな朱莉はその後劇的に惚れ込んだ今の恋人を見つけたので、まあそれもほんの一、二週間の間だったけれども。

その時掴めない人だな、という感想が色濃く胸の内に残ったことを今でも覚えている。

 見た感じ、真宮君は別にクラスで浮いているわけでもなく、かと言って外見以外に何か飛び抜けて目立つわけでもなかった。

けれどなんだか少しだけ他の男の子と違うような、変な感じがした。

何がと尋ねられたら、上手く言葉にすることは出来ない。

 真宮君は無口すぎるわけでも、同じ歳の男の子達のように悪ふざけしないわけでも、授業中に居眠りしないわけでもなかった。特別頭がいいという話も聞いたことがなかったし、けれど勉強がひどく苦手だという話を聞いたこともない。周りのクラスメイトの男の子たちとなんら変わりはなかった。

それなのに。

私は彼が同じような、特別目立ちもしない、暗くもない友人の中でなんとも言い難い浮遊感を醸し出しているのが気になって仕方がなかった。

彼だけが水に沈んだ溶けない絵具のような、どう振ってみても、混じり合わずにぽかんと浮き上がるような、そんな違和感。

グループの中で浮いているわけでも、友人と上手くいっていないわけでもない。けれど確かにある違和感。

溶け合いそうで、決して溶け合わない。私は彼が、周りの人たちと自分の間に薄い細かな膜のようなものをすっと張っているように見えてしまった。

 例えばくだらない冗談を言い合っている時、宿題を見せ合っている時、体育のドッチボールでわざと当たりに行った時、とか。ただの日常にもずっとその感覚は拭えなかった。

それは細かな霧のような、薄い薄い膜だった。誰もあることすら気づかないのに、確かにそこにある透明な霧の膜。

薄くて柔くて、多分本当の真宮君が息を潜めているところ。


まあもう、何ヶ月か前の記憶だけれども。



「是枝さん?」


「ああ、ごめんね」

 そして、それは今この瞬間も、私の隣でふわりと張られているのだった。

涼しかった、ありがとうと言った彼はちらりと私の傘を見て、それからはっとしたように口元をひき結んだ。

それは一瞬のこと。ぱちん、と薄い霧の膜が、弾ける音がした。


耳元で、した。


急き立てられるように真宮君の表情をまじまじと見る。彼の切れ長の涼しげな瞳は大きく見開かれていて、硝子玉みたいに空虚な色が静かに乗っていた。どっどっと心臓が嫌な音を立てた。私が知らない、寂しい色が視界を満たして、広がってゆく。見たことのない色だった。

私はひゅっと息を飲む。

「綺麗な色の傘だ」

ひどく抑えた声で真宮君は言った。何事もなかったかのように淡々とそう言った。影の中でもわかる。夏の光を閉じ込めた硝子玉の瞳は静かに美しく佇んでいた。ただ差し込む光りを映すだけの眼差し。それは、失くしたものを思い出すひとの横顔だった。

心臓がちくりと痛んだ。その瞳の隅っこ、隠し切れていない僅かな感情に知らん振りをする。

時に瞳は言葉よりよくお喋りをする。それはとても厄介だ。

「ああこれ? 暑いから買ったの」

振り払うように、太陽の光の色だけが差し込んだ傘をくるりと回す。

「傘、貸してあげようか」

気がついたらそんなことを口走っていた。

あれ、私なにを言っているんだろう。

慌てて、でもこんな女の子のもの差しにくいよねと続けようとした私の言葉は、余計な言い訳を付け加える前に彼の力強い一言で遮られた。


「いらない」


 大人びた彼には不釣り合いなほど、頑なさを感じさせる強い響きだった。

「ごめん、嫌だったよね」

さっと私は傘を自分の頭上に引き寄せる。逆光に照らされた真宮君の表情は見えなかった。よく考えなくても、こんな女の子みたいな傘なんてきっと嫌だったに違いない。彼はこの日光の中一時間も水やりをしていたのだから暑いのだって平気なのだろうし。

だから、この傘が本当の真宮君の何かを引き摺り出した気がしたのはきっと気のせいなのだ。

強く吐かれた言葉も、がらんどうの瞳も、多分。

少なくとも、私が触れていいものではないのだなと思う。

「………じゃあ、私帰るね」

 余計なことをしてしまった自分が恥ずかしくて、自転車置き場に足を進める。大体自分は真宮君と特別親しいわけじゃない。私は鍵を返すために職員室に寄って、真宮君は花壇に水をあげていて。

ただ偶然に会っただけ。それだけなのだ。

ぐっと唇を噛む。

数分前の横顔が頭にこびりついていた。悔しい、何故か無性にそう思った。

力を込めて地面を蹴る。さみしい、なんてそんな感情をコンクリートに押し込むみたいに。



「あ、是枝さん」



待って。

自転車置き場に数歩足を進めた私を、鋭く、掠れた声が引き留めた。ぐいと強い力で手首を引かれる。朱莉とも、部活の子達とも違った強さだった。


男の子の力、だ。


「待って、是枝さん」

「真宮君?」

振り返ると、

「違うんだ」

強張った声は、震えてる気がした。

 傘を傾けてそっと、そっと彼の表情を盗み見る。

「是枝さんは、何も悪くない。俺が勝手に、勝手に思い出しただけ」

引きつった頬、きゅっと寄せられた眉根。歪んだ目が、私をじっと見つめていた。その眼差しは悲痛なほどに強かった。心臓が痛いと鳴く。まるで彼の瞳の感情が流れ込んでくるみたいに。目の前の真宮君は何かに縋るようで、私はその手を振り解けない。

「なにを、思い出したの?」

 やっと言えたのはそんな何の気も利いてない言葉。

しかし彼は一度目を閉じて、それから苦しさの中から絞り出したみたいな声で言った。

「大切だった人の、こと。是枝さんの傘が……知り合いの人のものと似てたから」

歯切れの悪い言葉が低い音で、ぼたりぼたりと真夏の影に吸い込まれていく。私は彼の言葉を、噛んで拾ってそろりと解く。

燃えるような深い色の瞳が歪められ、口元はきゅっと引き結ばれていた。波打つ感情を必死で引き留めるみたいな瞳。

そこにいたのは。今私の目の前にいるのは。

 クラスで見る真宮君じゃなかった。

それはさっきまで私と話していた真宮君でもなく、ただ同い年の、途方に暮れた子供みたいな、十七歳の男の子だった。

ああ、そうか。

私は何となく、本当に何となくだけれどわかってしまった。彼がこんなに苦しそうに吐く言葉は、もうそのたった一つの感情を隠せてはいなかったから。


「ねえ、それって好きなひと?」


 いやに自分の声がよく響くのがわかった。するりと滑り出した言葉を、隠すつもりはなかったけれど。

冗談のように笑って尋ねることも、出来なかった。気が付いたら転がり落ちていた言葉で問うた意味は、私自身よくわからない。

ただ、真宮君を揺れ動かすものから掬い出してあげたくて。私の勘が違っていなければ、痛い程の熱情を見なかった振りなんて、知らなかった振りなんて、出来なくて。

一度目は知らない振りをしたはずなのに。もう、そんなこと出来るはずもなくて。

強いて言えば、それは優しくない、ただのエゴなのかもしれなかった。

はくはくと金魚のように動く唇。次の言葉が出ない喉奥が悔しい。私は何一つ言葉を搾り出せない。


 ぬるい風が一陣通り過ぎて行った。私の頬にかかった髪と、真宮君の柔らかな茶色がふわりと揺れた。

ふ、と真宮君が力なく笑う。すうっと息を深く吸う音がした。

毒気を抜いたように、空気がどっと緩んで。たちまち夏休みの午後に似合いの形になって、横たわる。真宮君は、熱をたっぷり孕んだ木組みのベンチに腰を下ろした。

それから観念したように、少し笑う。


「好きだったひと、だよ」


 懐かしむみたいな彼の瞳は、もうさっきの真っ赤に見えた色でも、硝子玉のような色でもなかった。その代わりに、大事な宝物が意図せず見つかってしまったみたいな困った顔で、うんと伸びをする。

「ね、是枝さんっておせっかいって言われない?」

刺のある言葉とは真逆に、冗談交じりの音をふんだんに乗せて、真宮君は自分の隣の席をとんとんと叩く。

「はは、よく言われる」

真宮君の隣へ、誘われるままに腰を下ろす。

太腿から伝わってくる太陽の熱はうっかりすると火傷しそうに熱かった。けれど、私はもうさっきまでの色が凪いでしまった真宮君の瞳をもう少し見ていたくて紺色の形を整える。


これは好奇心、なのだろうか。


 相変わらず私の頭上以外に降る日差しだとか、湿気を含んだ生温い風とか、鳴り続けている蝉の声だとか。そんなものどうでもよくなってしまうような。

それぐらいの引力が、今の真宮君にはあった。

「……好きだった人が持ってた傘が似てた。 是枝さんの傘と」

諦めたみたいにふふと笑ったまま、真宮君は遠くを見る。はたはたと風に揺らめく柔らかそうな髪はお構いなしだ。


「こんなの、駅前のショッピングモールで買ったやつだよ。 みんな同じようなもの、持ってるよ」


でも是枝さんのものが、同じように見えたから。ふっと息を吐きながら、真宮君はああそうだと思い出したように口を開く。


「実はその人に少し似ていたんだ、是枝さん自身も」


「……うん」

「髪の結び方とか、よく笑うところとか、声が大きいところとか。 ずっと似ているなって思ってた。 話したことはほとんど無かったけど」

気持ち悪がってくれてもいいよ。そう付け加えて彼はくすりと笑う。

 確かによく知らないクラスメイトからこうもよく観察されているというのは、あまりいい気分ではなかった。でも気持ち悪いとか、嫌だとか、思うことも出来なかった。

何故なんだろうか。

私は脳味噌をぐるぐると回転させて考える。


それは真宮君の見た目が少しばかりかっこいいから、だろうか。

そんな彼から特別視されているから、だろうか。

それとも自分だけが彼の知らないところを知っているという優越感から、だろうか。


違う、と思った。

多分、どれも違っていた。

私が不快に思わないのは、多分。こんなに心臓が痛いほど苦しくなってしまうのは、多分。


「思わないよ。 だってそれだけ真宮君はその人のことが好きだったんでしょう?」


多分真宮君は、私が顔も知らないその人のことを。

誰よりも特別に、大切に思っているから。それが私に伝わってきてしまったから。


 真宮君が口をぽかんと開けて、私の方をじっと見た。

それから吹き出して、けらけらと腹を抱える。


「是枝さんって変わってるよ!」


それだけ言うと、また彼は笑いの渦に飲まれていく。

「えっと、私もしかしなくとも馬鹿にされてる……?」


 私の言葉に返事もせず、彼は暫く笑い続けた。誰もいない中庭に少年の心底楽しそうな笑い声がこだまする。

「真宮君笑い過ぎではないですか……?」

知っていたけど、返答はなかった。……知っていたけど。

「ねえ、是枝さん」

ひとしきり笑い終えた彼は、私の名前を呼ぶ。

「なんですか、笑いの止まらない真宮君」

皮肉たっぷりにわざと言ってやると、ごめんごめんと言いながら彼は静かに言葉を紡ぐ。

「是枝さんとその人、やっぱり全然似てないことが今日わかった」

「どういうこと」

また笑われるのだろうと思いながらも問うてみる。

「是枝さんと、俺の好きだった人は似てないよ。 だって是枝さんはこんなに強くて、真っ直ぐで、それからすごく温かい。 是枝さんは是枝さんだなって今思った」

真宮君の柔い声がゆっくりと心に落ちた。ゆっくりゆっくり。私の心臓よりもっと深くに。

「なんかすごく、曖昧じゃない?」

その言葉が気恥ずかしくて、慌てて茶化してみたけれど。真宮君は取り合いもせずに、言葉を続ける。

「是枝さんは是枝さんだ。 是枝さんにしか成り得ないものがあると思う。 まあ俺が言うのもおかしな話だけど」

悪戯っぽく私を覗き込む彼の表情、様になっているのが少し小憎たらしい。しかし、織り成される言葉には、一つの嘘も感じなかった。


「私も誰かの特別になれるかな」


ぽつりと出た言葉は私の本心だった。

私さえ気付かなかった、私の。


「恋とかそういうのじゃなくて。 将来何になりたいとか、どんなことをしたいとか。 そういうのもまだよくわからないけど。 誰かにとっての特別に、私なれるかな」

自分で口にしながら、それもまた随分曖昧な言葉だと思った。

どこに就職したいとか、どこの大学に行きたいとかそんなものとはかけ離れすぎていたけれど。今はそれでいいと思っていたい。

うん、と小さな返事が響く。


「是枝さんなら、なれるよ」


きっとね。そう言った真宮君はふわりと目尻を下げてくすりと笑う。今までの中で、とびきり優しい笑みだった。

「とは言っても、まだ何の具体性もないんだけどね。 あーあ、とりあえず今度の面談までに何か決めなくちゃ」

 大人が納得するような、定義を。理由を。残念ながらふわふわした言葉で誤魔化されてくれるほど、現実は甘くないから。

照れ隠しに笑って見せる。実際に何か進んだようで、具体的な将来像なんて浮かんではいない。だからなんにも進んでなんかいない。これは事実で。

でも、心は、心だけは確かに進んだ気がした。少しだけ、ほんの半歩ぐらい前に。それはきっと、この不思議で、危うくて、よく笑うクラスメイトのおかげなのだろう。


「ありがとうね、真宮君。 今日君に会えてよかった」


 熱の馴染んでしまったプリーツスカートをゆっくりと引き剥がす。いつの間にか蝉の声は止んでいて、空には濃い橙が伸び始めていた。

「そろそろ私は帰るけど…… 真宮君は?」

ぱたんと日傘をたたむ。もうこの時間には必要のないものだった。

「俺は水やりがあと少し残ってるから」

花壇を振り返ってゆるりと笑む。

「そっか」

「うん」

「じゃあね、また新学期に」

「そうだね、また新学期に」

 ベンチに置いたリュックを肩にかける。ずっしりと重い水筒やお弁当箱、ふわりと香る柑橘系の香りがいっぺんに、現実を連れてやって来た気がした。まだ熱を帯びたコンクリートを一歩一歩蹴る。私は今までの時間が本当のものなのかそうじゃないのか少しだけ、分からなくなる。



「是枝さん!」


その時、後ろで私の名前を呼ぶ声がした。

もう随分と耳に馴染んでしまった声だ。


「是枝さんは誰かの特別になりたいって言ったけど! 少なくとも俺にとって、今日、是枝さんは特別な人になったよ! これから先も、ずっと!」


 思いがけない言葉だった。慣れない大きな声を叫ぶ真宮君の言葉は、驚くほど力強くて。

私を嬉しくさせるには十分過ぎた。ぶわぶわと身体中の血液に熱が昇る。

私は大きく息を吸い込んだ。ありったけの気持ちが、伝われ。伝われ!


「私! 今日のこと、絶対絶対忘れないと思う! 真宮君にもらったもの、ずっとずっと忘れないと思う!」


 ぎゅっとワイシャツを握った掌に力を込める。荒い息が自分のものだともわからないままに、ただ肩で息をする。じわじわと落ちる橙のせいで、もう真宮君の表情は見えなかったけれど。

それでいい気がした。

きっと真宮君は多分あのとびきり柔い表情をしているに違いないと思ったから。



 多分次に彼に会う日、もう細切れの霧のような透明な膜を目にすることはないだろう。その理由なんて私たちが知ってればいいし、例え真宮君が忘れてしまったとしてもいいと思う。

今日私は間違いなく大事なものを見つけた。私が探していたものを見つけてもらうことが出来た。

それだけが確かで、永遠なのだ。


 私は今度こそ、自転車置き場へ歩を進める。夏の終わりがもうすぐこそまで近づいて来ていた。



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