テルクシノエーは泡と消ゆ

 人魚姫テルクシノエーの休止を宣言した後、わたしは再び保健室に入り浸っていた。一週間ほどが経った後、突然八七橋やなはしくんが保健室に来た。八七橋やなはしくんは話したいことがあるから放課後に空き教室へ来てほしいと言った。わたしは彼に何を言われるのかと不安になったけれど、彼のことを無視する気にもなれず、言われた通り空き教室へ向かった。

 教室に入ると、八七橋やなはしくんが真ん中あたりの席に座っている。真っ黒で、綺麗な大きな、少し潤んだ瞳が、わたしを見つめている。ああ、やっぱり、なんて綺麗なんだろう。


 「あっ…あの…それで…話って…?」


そう言いながら八七橋やなはしくんの近くの席へ座ると、彼は少し緊張した面持ちで話を始めた。


「うん…あのね…。神志名かしなさん、最近、ぼくのこと避けてないかな。もしそうなら…どうしてか、教えてほしいんだ。」


ドキっとした。やっぱり、その話題になってしまうのかと感じる。


「それはっ…その…人魚姫テルクシノエーも、もう…休止しちゃったし…。」


「それは確かに残念だったけどね…ぼくは君に嫌われたのかと思ってる。ぼくが何か君を傷つけてしまったのなら、はっきりと言ってほしいんだ…。」


八七橋やなはしくんは悲しい顔をする。悲しい顔も綺麗だ。


「そっそんなことはないけど…。そ、そ、その…本当は、本当は…八七橋やなはしくんは人魚姫テルクシノエーがわたしだって気付いているんでしょ…?だから…幻滅したのかなって…。ほ、ほ…本当の、わたし、根暗幽霊だし…。それで、最近…ずっと人魚姫テルクシノエーの話もしなくなって、人魚姫テルクシノエー八七橋やなはしくんのことが好きだって言ったときも…喜んで貰えなかったのかなって…そしたらわたし、全てが申し訳なくて…その…つまり、わたしなんかが人魚姫テルクシノエーで、ごめんねってなって…、ひっく…ぐす…。」


話している内に、なんだか情けなくて涙が出てきた。涙の膜で、八七橋やなはしくんの姿がぼやける。水槽の中から彼を見ているみたい。彼は綺麗な瞳を大きくして、驚いたような表情を浮かべている。


「ちょっと!…ちょっと待った!いま、サラッとすごい事言わなかった?人魚姫テルクシノエーが誰だって!?」


八七橋やなはしくんは急に大きな声を上げて、わたしを問いただす。


「え?ええ…八七橋やなはしくんも知ってて、あの時アクリルガラスの向こう側で”神志名かしなさん”って呼んだんでしょ…?」


「あっ…見られてた…いや、あれはその…とにかく、ぼくは知らなかったよそんなこと!」


彼は急に顔を赤らめながら、大きく手を振って大袈裟に驚いて見せる。


「知らなかった?」


「そう!知らなかった!」


「じ、じゃあ、どうして人魚姫テルクシノエーの話をしなくなっちゃったの…?」


「それはね、それは…それはね…」


そう言いかけて、彼の顔が耳まで真っ赤になっていく。涙目になって、大きな黒い瞳がより一層可愛らしく見えた。ふうっと一息ついて、彼が口を開く。


「つまり、ぼくは神志名かしなさんのことが、好きになっちゃったんだ。人魚姫テルクシノエーより…。人魚姫テルクシノエーを見ていると、君のことをつい思い浮かべてしまってその…だから名前をね…。」


一瞬、何を言われたのかわからなくて、頭が真っ白になった。


「あっ…えっ…で、でも…?わたし…かわいくないし…え?ええ??」


「初めて見た時から、かわいいと思ってた。みんなは気が付いていなかったけど…こうすると、かわいいのが、よく分かるよ。ほら」


彼が両手でわたしの長い前髪を優しく避ける。とにかく顔が熱い。熱い。熱い。彼の手が温かい。彼の良い匂いがする。泣きそうな気がする。


「あ、あ、あの、あの…嬉しいのですが…あの…恥ずかしいので…」


今起こっていることがどういうことなのか、わたしには全く理解が追い付かなくて、思わず敬語で話してしまう。八七橋やなはしくんは両手をわたしの顔に添えたまま話を続ける。彼の綺麗な顔がこんなにも近くにある。まともに見れない。首元からも良い匂いがする。どうしよう。心臓が張り裂けてしまいそう。


「あ、ああ…ごめん。はじめは、ね、ぼくは、人魚姫テルクシノエーの話が出来て、ただ嬉しかったんだ。神志名かしなさんのことは初めから、気にはなっていたんだけど…。それより、他の子や友達は、あまり僕の話は真剣に聞いていなかったからね…だから、神志名かしなさんが一生懸命に聞いてくれた時、ぼくはそれが本当に嬉しかったんだ。それで、ずっと話を続けていくうちに、ぼくは君のことがどんどん好きになったんだ。こんなに楽しく話せる子は今まで居なかった。君だけが真剣にぼくの好きな人魚姫テルクシノエーの話を聞いてくれて、調べてくれて。ぼくは楽しかったよ。しかもまさか、君が人魚姫テルクシノエー本人だったなんて!」


「幻滅しない…?」


「まさか!するもんか!奇跡みたいだなあ…。」


…これ、夢だったりしないわよね…?今この時の、わたしの胸のどきどきの中にある不安が、わたしに人魚姫の一節を思い起こさせる。


「…ぼくを助けたひとは修道院から出て来ないだろうし、どうしても結婚しなければならないなら、彼女にうり二つの君と結婚するよ…王子様はそう言いました…。」


それを聞いた八七橋やなはしくんは少し考えたような表情をしてから、口を開いた。


「それは…人魚姫の一節だよね?でも、ぼくはそんなこと言わないよ。ぼくは人魚姫テルクシノエーも好きだったけど、ぼくが一番好きなのは、神志名かしなさん、君自身だから。」


 八七橋やなはしくんは顔を真っ赤にして、声を震わせながら…懸命にわたしに語り掛けてくれた。わたしも頬が熱くて、きっと真っ赤になっていると思う。心臓が張り裂けそうなほど鼓動を打って、飛び出してしまいそうで、わたしはやっぱり人魚姫のように口を噤んでいることしかできなかった。

 なにも言わないわたしを、彼は黙って抱きしめてくれた。何も言わなくてもいいんだよ、と。わたしの中の人魚姫テルクシノエーがいま、泡となって消えて行き、ここに残されたのは、神志名かしな宇佐美うさみという一人の人間だけだった。


「でっ…でも…八七橋やなはしくん…わたし…暗いし…話すの下手だし…地味だし…自慢にならないし…幽霊だし…それに、それに…」


神志名かしなさん…いや、宇佐美うさみ…さん。」


八七橋やなはしくんが煩く喚き続けるわたしの顎を持ち上げる。彼の綺麗な瞳と一瞬目が合って、彼の唇がわたしの唇を塞ぐ。わたしがたった今から、永遠に彼のものであることの証として。たくさんの疑問全てが泡となって消え、彼が確実にわたしを愛してくれているのだという感覚が、身体中を満たしてくれる。人魚姫テルクシノエーがついに、人の世の魂を得て、神志名かしな宇佐美うさみとして生まれ変わった瞬間だった。


宇佐美うさみさん。もし、君が望むなら、ぼくはまた、君が自由に泳ぎ回る姿が見たいな…。」


わたしは少し戸惑ったけれど、彼はわたしの全てを愛してくれていて、彼にとっては人魚姫テルクシノエーもまた間違いなくわたしの一部なのだ。わたしには断る理由は無かった。


***


 再び人魚姫テルクシノエーが水の中を舞う。ごぼっごぼぼっと空気がこの場所を通り抜ける音が頭の中に響いてくる。水面に乱反射した青い光が規則正しくゆらゆらと揺れ動いて、わたしの尾ひれを照らす。七色の鱗は今まで以上に艶やかに輝き、長い漆黒の髪が水の流れに靡ている。八七橋やなはしくんの好きな菫色の瞳がアクリルガラス風の壁に反射して見える。わたしと、八七橋やなはしくんの好きなもの全てが詰まった人魚姫テルクシノエー。偽りのわたしではなく、わたしの一部。もう一度この二進数で作られた世界の水槽へ戻ってこれたことが、純粋に嬉しく感じた。

 ふわふわと尾ひれが舞うのを手で払いのけて、身を翻してみせる。ターコイズブルーのこの部屋の中でゆらゆらと踊り続けるわたしに合わせて、アクリルガラスの向こうに見える人だかりが、ゆらゆらと揺れているのが見える。その中に、八七橋やなはしくんの姿を探す。漆黒の髪に漆黒の瞳。すぐに彼を見つけて近づいて行く。ガラス越しにキスしたフリをすると、観客が少しざわついた気がした。


***


 ヘッドギアを外すと椅子に腰かけた八七橋やなはしくんが微笑んでいた。


「…やっぱり、こっちの君も素敵だな。」


彼が少し頬を赤らめると、わたしの頬も少し火照る。椅子から立ち上がってベッドに腰かけてくれた彼とわたしの指が重なり、また何度目かのくちづけを交わした。

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