電脳空間で人魚姫になるのが趣味の少女が、ふとした出来事をきっかけに苦手な現実と向き合っていくお話。
人魚姫をモチーフにした恋物語です。舞台設定はほぼ現実の現代日本に近いのですが、VR技術が結構進化しているっぽい感じの世界。そういう意味ではちょっとSF的な要素もあるようなないような、この絶妙な舞台設定がなかなか興味深いです。
イヴェンチュアと呼ばれる巨大な電脳空間。おそらく技術的にはもう何年か先の未来、でもこういう電脳世界が日常の一部として存在している感覚そのものは、もはや未来とは呼べない程度には身近になっている、という現実。きっと一昔前であればファンタジーにおける〝あちら〟と〝こちら〟のような、現実と空想を分かつ境界として機能していたであろうものが、でも実質的に両方とも〝こちら〟であること。光景が幻想的である割にはそこまで異世界感がなく、せいぜい顔や名前を隠す程度の非現実性しか持っていない別世界。
実際、誰もが望んだ姿になれるはずの電脳空間は、でも主人公にとってはただの癒しのための場所、実際誰かと触れ合うどころか声ひとつ出せない、文字通りの水槽でしかありません。彼女の現実での生活は決して順風満帆とは言えず、例えば保健室登校だったり人と話すのが苦手だったりするのですが、でもそんな彼女は電脳空間だからこそ輝ける——みたいなことは全然なく(せいぜい見物人を集める程度で能動的な活躍はない)、つまりそういう意味でもこの電脳空間、なにひとつ〝あちら側〟の役割を果たしてはいません。このギャップというかフェイントというか、人魚姫の水槽が『ただの都合の良い世界』にならないところがとても好きです。
VRは異世界どころか実質ただのきっかけでしかなく、でも人魚姫というモチーフ自体にはしっかり意味があるというか、彼女自身の表象であるかのようにずっとお話の真ん中にいる、というこの使われ方。
もうひとつの世界を逃げ場にしない、せいぜい一休み程度の安全地帯。うまくいかない現実から目を背けるため非現実ではなく、あるいはそういう側面があるとしてもそれは彼女自身がしっかり自覚していて、つまり決して甘えにはならない。主人公はどこまでも現実を生きる人間で、だからその上で見せてくれる彼女の活躍、というか具体的な行動がとても好き。
あっちではなくこっちで見せてくれた頑張り。人魚姫の姿ならなんでもできる、というのではなく、彼女自身が積極的に動いていくこと。お話の筋そのものは非常にストレートな恋愛もので、出会いからいろんな揺れ動きを丁寧に追っていく物語なのですが、でもその過程で動いているのは常に現実の彼女。そしてやがて辿り着く結末の、その優しい暖かさが嬉しい作品でした。