人魚姫は身を投げる

 それからわたしは毎日教室に行った。隣の席の八七橋やなはしくんがいつもわたしに話しかけてくれて、わたしはいつも”Θελξινόηテルクシノエーの水槽”の話をした。彼は人魚姫テルクシノエーのことをあれこれと考察していて、わたしはそれを聞くたびに嬉しくなった。わたしはつい、わたししか知りようのない、人魚姫テルクシノエーの秘密を彼に少しずつ話してしまっていた。それはいけないことだとは思ったけれど、わたしは彼の喜ぶ顔が見たかった。だって、美しくて綺麗で、素敵なんだもの。それで今日もわたしは秘密を洩らしてしまう。


八七橋やなはしくん。人魚姫テルクシノエーはね、17歳よ。」


「え?どうしてそう言い切れるんだい?」


「それはね…わたしが調べたところによると、人魚姫テルクシノエーの誕生日は3月30日なのよ。ちなみにわたしは2月9日。もう誕生日を迎えたから、17歳。」


「ふぅん…あ。でも、どうして17回目の誕生日だってわかったんだい?」


「えっあっあっ…あの…それはね…そう!まだ人魚姫テルクシノエーが活動し始めの頃に掲示板に彼女の自己紹介が書いてあったのよ!」


「へぇ!それは知らなかったなあ!さすが神志名かしなさん、詳しいんだね!」


大体の日が終始こんな具合だった。この調子では人魚姫テルクシノエーがわたしだとバレるのも時間の問題だったけれど、わたしと八七橋やなはしくんを繋いでいるのもまた、人魚姫テルクシノエーの秘密だけだった。

 それから1カ月ほどが過ぎると、八七橋やなはしくんは急になんだかよそよそしくなって、人魚姫テルクシノエーのことをあまり話さなくなった。人魚姫わたしの配信は相変わらず見に来てくれているし、人魚姫テルクシノエーが手を振ったりすると喜ぶのだけれど、なんとなく、の話題を避けているような気がした。わたし…人魚姫テルクシノエーは、寂しくて、なんとか八七橋やなはしくんの気を引こうと必死になった。


「ねえ、八七橋やなはしくん。人魚姫テルクシノエーはあなたのことが好きなのよ」


「えっどうしてだい?」


「えっと…そうね…あの…わたしが思うに…だけど、は、八七橋やなはしくんのことを水槽の中からよく見ている…気がするから」


「あ…ああ…。そ、そうなんだ…そうか…。そう…でもぼくはもう…ううん、ありがとう、そう言ってくれて。神志名かしなさんに言われるとなんだか本当のような気がしてくるよ」


わたしは、八七橋やなはしくんのことが好きだった。綺麗な八七橋やなはしくん。優しくて、人魚姫テルクシノエーが好きな八七橋やなはしくんを喜ばせたかった。根暗幽霊地味子のわたしにはに彼を喜ばせてもらうのが精いっぱいの献身だった。けれど、彼はなぜか…なんだかあまり嬉しくはなさそうだった。わたしは薄々悪い予感がしているような気がして、胸の中がざわざわした。


***


 今日も、天を仰ぐと、きらきらと水面が輝いている。ごぼっごぼぼっと空気がこの場所を通り抜ける音が頭の中に響く。身を翻して、ターコイズブルーのこの部屋の中でゆらゆらと泳ぎ続ける。アクリルガラスの向こうに八七橋やなはしくんが見える。わたしは精一杯、彼のために泳ぎ続ける。出来る限り美しく、自由に。この青の世界の中を。

 ふと八七橋やなはしくんを視線を送ると、彼が人魚姫テルクシノエーに何かを伝えようと、唇を動かしているように見えた。あれは、人魚姫テルクシノエーへ愛の告白だろうか。わたしは彼の言葉が欲しくて彼に近づいて行く。彼が発するそれが人魚姫テルクシノエーへの…本当のわたしに向けられたものではない偽りの愛であれ、嬉しいものは嬉しいのだ。わたしはまるでくちづけを交わすかのように…それはわたしの独りよがりだけれど…彼の顔の目の前にまで、顔を近づける。

 視界一杯に彼の薄くて綺麗な桜色の唇が見える。近づいた人魚姫テルクシノエーの姿に彼が頬を赤らめる。なんて…なんて綺麗で可愛らしいんだろう。わたしはアクリルガラスに手を添える。なぜだか彼は一瞬悲しい顔をしたように見えた。再び彼の唇が動き出し、わたしは懸命に彼の言葉を読もうとする。


「 か し な さ ん 」


心臓が跳ねて、思わず後ろに飛び退いた。ごぼぼっと水音が脳へ響き、背中に水の冷たさを感じた気がした。彼は、確かに”神志名かしなさん”と言った。わたしの名前を呼んだ…と思った。頭が混乱してどうしたらいいか分からなかった。動かないわたしを見て歪んだ人だかりがザワついている気がしてゾッとした。わたしは出来る限り平静を装って泳ぎ回りながら水槽の奥へ逃げ込み、そのままログアウトする。


***


 ヘッドギアを外してしばらくしてもまだ、鼓動がわたしの胸と耳を激しく叩いていた。気のせいだ、気のせいだ、と何度も思おうとしたけれど、音の聞こえぬガラスの向こうで、確かに彼の唇は人魚姫テルクシノエーに向かって”神志名かしなさん”と呼んだ。つまりは、わたしの正体はバレたに違いなかった。そう考えると、彼がなんとなく、進んで人魚姫テルクシノエーの話をしなくなったのも、合点がいった。彼はもう気付いていたんだ。優しい彼は直接わたしには言わなかっただけで。ああ、なんて情けない…恥ずかしい…ぐらぐらと頭が揺れるような感覚に見舞われる。自分の好きな人魚姫が、実は地味で根暗の幽霊女だった、なんて知ったら、彼は幻滅しているに違いない。ああ、もう、どうしよう。あんなにいろんな恥ずかしいをしてしまった。もう取り返しもつかない。

 大好きな八七橋やなはしくんに正体がバレたわたしは、”Θελξινόηテルクシノエーの水槽”を閉鎖した。お知らせ掲示板には、無期限の休止と書き込んでおいた。サイトの閉鎖が終了した後、大粒の涙を流した。わたしはわたしの自尊心を満たすために、人魚姫テルクシノエーを彼女たらしめていた秘密を漏らした報いを受けたのだった。八七橋くんが、もはやわたしの人魚姫テルクシノエーに幻滅してしまったのなら、この水槽へ潜る理由は無かった。

 人魚姫は、王子の真の愛を得られないことを知ると、自ら身を投げて死を選んだ…。わたし…人魚姫テルクシノエーもまた、泡となって消えるしかないのだと思った。わたしは、神志名かしな宇佐美うさみというわたしを…彼女テルクシノエー縛るこの肉体が恨めしかった。

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