私の愛した空

棗颯介

私の愛した空

「私やっぱり、この島の青い空が好きだな」

「そうか、俺もここから眺める青空は好きだよ」


 いつだったか、“彼”はそう言ってくれた。本心はどうあれ、私が好きなものを彼も好きだと言ってくれることはどうしようもなく嬉しかった。

 小高い山の上に立つこの寂れた神社は小さい頃から私のお気に入りの場所だった。

 私が生まれ育った瀬戸内海に浮かぶこの島はとても小さい。だから、ここからなら島のすべてが見て取れた。

 豊かではなくとも毎日笑顔を絶やさず手を取り合って生活する島民たちの姿も、幼い頃から慣れ親しんだ町の家屋の屋根や学校も、どこまでも続く海だって、ここからなら水平線のさらに先まで見えそうだ。

 そして何より、ここはこの島で一番空が近い。古びて神様だってとっくに引越しをしていそうな社殿に座って眺める空は、どんな時も私を包み、見守り、癒してくれた。いつだって、ここから見上げる空は青かった。もちろん時には白い雲が空を覆うことだってあったし、雨が降ることだってあったけれど、でもやっぱり空はいつも青い。

 だって、私の隣にはいつも“彼”がいてくれたから。


 ▼▼▼


 私が初めてこの神社にやってきたのはただの偶然だった。

 島の小学校に入って最初の夏、私は夏休みの自由研究で昆虫の観察日記を書こうと思い、手頃な虫や蝶を探しにこの山に来ていた。山中で見つけた珍しい蝶を追っているうちに、気が付けばこの場所にたどり着いていた。親や友達から話だけは聞いたことがあった。この島にある一番高い山のてっぺんには誰も寄り付かなくなった古い古い神社があって、そこは神様にも見捨てられた場所だから決して近づいてはいけないと。島の男の子たちがこの神社には幽霊だとか化け物がいるなんて話していたのも聞いたことがある。

 だから私はすぐにその場を去ろうとした。

 そこに、“彼”がいなければ。


「う、うぅ……」


 崩れかけた神社の社殿で、苦しげな声を上げて横になっている男の人がいた。

 歳はたぶん、近所のお兄さんと同じくらいだから20歳は超えていそう。

 髪はこの島ではあまり見ない、限りなく茶色に近い黒。そしてその瞳は、まるで青空のように青く澄み渡っていた。


「だいじょうぶ?」


 思わず声をかけてしまう。学校で、困っている人がいたら助けてあげなさいなんて先生に教わったことを私は忠実に守ろうとしていたのだろうか。

 苦しげだった“彼”の表情に一瞬驚きの色が浮かぶ。


「君は、俺が見えるのか?」


 その声は、今まで島やテレビの向こうで聞いてきたどんな声よりも綺麗だった。


「うん、みえるよ」

「そうか、まだそんな人間がいたのか…」

「ねぇ、おにいさん、だいじょうぶ?おいしゃさんよぶ?」

「必要ない。人間の医者を呼んでも俺の姿は見えない」

「みえない?なにいってるの?みえてるよ?」

「それは君が特別だからだ」


 特別。何が特別なのかこの時は分からなかった。

 “彼”はそれだけ言うと、ゆっくりと寝返りを打って私に背を向けた。


「とにかく、俺は大丈夫だから一人にしてくれ」


 とてもではないが大丈夫には見えなかった。

 目立った傷があるわけでも、血が流れていたわけでもない。だが、その声と表情は明らかに苦悶に満ちていた。

 私は“彼”に対してどうすればいいのか分からず、結局そのまま神社の境内を去った。

 蝶を探しに。


 それから2時間が経った頃だろうか。私は追っていた蝶をようやく捕まえると、それを虫かごに大事にしまってもう一度神社を訪れた。

 “彼”は変わらず、そこにいた。恐る恐る近づくと、彼は苦しみ疲れでもしたのか今は眠ってしまっているようだった。

 さっきは神社の鳥居から見るだけだから気付かなかったが、近くで見ると本当に“彼”は不思議な存在だった。

 見た目はちょっと髪色と瞳の色が島の人と違うだけで、おおよそ人と呼べる外見をしている。服装はやや馴染みがないものだがそれでも別段おかしくはない。ただ、決定的に何かが違うことが幼心に理解できた。

 きっとこの人は、人じゃない。

 そう心で察知してはいたのに、私はどうしてか“彼”のことが放っておけなかった。


「おにいさんおにいさん」

「…う、ん……なんだ、また君か。一人にしてくれと言っただろう」


 “彼”はやはり鬱陶しそうな視線を私に向ける。眠ったことで少しは落ち着いたのかもしれないが、その表情は先刻見た時から変わらず眉間に皺が寄っていた。


「はい、これ」

「…なんだこれは?」


 私は肩から下げていた虫かごを“彼”に差し出す。

 籠の中の蝶は観念したかのように微動だにせず、ただ美しい羽をわずかに揺らしていた。


「きれいなはねでしょ?あげる」

「…こんなものを俺に渡してどうするつもりだ?」

「げんきになってほしいから」

「は?」

「いたいの、どこかにとんでいった?」

「……」


 “彼”は口をつぐみ、バツの悪そうな顔を見せる。

 視線を私が寄越した虫かごに向けると、彼は何も言わずに虫かごの蓋を開けた。

 当然、窓が開けば蝶は外へと羽ばたいていく。


「あっ!」


 一瞬の出来事で、私は持っていた虫取り網で蝶を捕まえることも駆け出すこともできず、ただその美しい羽が青空へ飛び立っていくのを眺めていることしかできなかった。


「どうしてこんなことするかな」


 悲しみや驚きというよりも、怒りの方が強かった。山中を駆け回ってやっと捕まえたのに。


「痛いのは、これで飛んで行ったよ」

「え?」

「もう大丈夫だ。ありがとう」


 意味が分からなかった。けれど、彼が初めて見せたその微笑みで、私はすべての疑問だとか理不尽がどうでもいいものに思えた。


「俺は、天司だ」

「てんし?はねもわっかもないよ?」

「君たち人間が信仰している天使とは違うよ。天の使いではなく、天を司るものだ」

「むずかしくてわからないよー」

「まぁ、子供の君にはまだ理解できないか」

「むー、わたしこどもじゃないもん!」

「子供はみんなそう言うんだよ」

「おにいさんのいじわるー!」


 最初の頃は、彼が言っていることがよく理解できなかった。

 天司と天使の違いって何?天を司る?あなたは何なの?

 この頃はいろんなことが分からなかった。

 だから、それから私は毎日のように神社に足を運んだ。

 会いに行く度、“彼”は少しずつ、自分のことを話してくれた。


「俺は、傷ついた羽を癒しにこの島に来たんだ」

「傷ついた羽?羽なんかないよ?」

「仕舞い隠しているだけだよ」

「どうして羽を怪我しちゃったの?」

「この空を守るため」

「空を守る?」

「君たち人間が言うところの、例えば台風、雷、竜巻、そういう天の災いを未然に防ぐのが俺の役目だ」

「そんなことができるの?」

「正確には“できた”、だな。ずっと天災から空を守るために戦って、俺の羽はいつの間にかひどく傷ついてしまった。飛び立つことすらできないほどに」

「いつからそんなことをしているの?」

「君が生まれる、ずっと昔から」


 普通ならそう簡単に信じられる話ではないだろう。

 もし私がもう少し歳をとっていれば、つまらない作り話だと聞く耳を持たなかったかもしれない。だから私はあの時子供で本当に良かったと思う。彼のことを信じることができて、本当に良かった。


「じゃあ、空が青いのはあなたのおかげなんだね」

「空の色まではさすがの俺も管轄外だが、どうした急に?」

「私の名前」

「名前?」

あおっていうの」

「蒼?」

「私が生まれた日がすごく良いお天気で、病院の窓から見える空がすごく綺麗な青色だったんだって。だから蒼」

「そうか。良い名前だな」

「私が“蒼”でいられるのは、あなたが青い空を守っていてくれたからなんだね」

「意図していたわけではないが、そうなるな」

「ありがとう」

「どうして礼を言うんだ?」

「私を蒼にしてくれて。青い空を守ってくれて」

「…どういたしまして」

「ねぇ、あなたの名前は?」

「名前なんてない」

「どうして?」

「天司なんてそんなものだ。誰かと一緒にいることも、こうして誰かと会話することだって本来ならない」

「ふーん、じゃあ、私が名前をつけてあげようか?」

「どうでもいいが、聞くだけ聞こう」

「んーとね……天司郎てんしろう?」

「すごく適当につけたような名前だな」


 彼はそう言ったが、私がつけたその名前を呼んでも、彼は一度も嫌な顔を見せたりはしなかった。


 どうしてか、彼はいつでもあの場所にいた。結局彼が神社の境内から出ているところを見たのはあの一度きりだ。

 何処から来たかも分からない、自分を天司と名乗る素性の知れない大人の男の人のところに通うなんて、今思えばよくやったものだ。でも、仮にあの時彼に出会ったのが私でなかったとしても、きっとその人もそうしただろう。彼は不思議な魅力に満ちていた。人間離れした端正な顔立ちも、空のように青く澄んだ瞳も、いつまでも耳に残り続ける声も、すべてが美しい。


 私は一目見た時から、彼のことが好きだった。


 毎日学校が終わると、私は家に帰らずまっすぐ神社へと向かう。幸いこの狭い島では島民皆が顔見知りだから、寄り道して帰ることを咎めたり心配する人はほとんどいない。危険なことなんてまず起こらないからだ。


「やぁ、蒼」

「こんにちは、天司郎。今日も疲れたよー」

「今日は、学校とやらはどうだったんだ?」

「いつも通りだよ、今日は体育の授業でさ———」


 毎日天司郎の元に通い、その日あったとりとめのない話をした。

 彼はいつも微笑みながら私の話を聞いてくれたし、時々彼から島の外で見てきた珍しい話を聞かせてくれることもあった。ただただ、彼と一緒にいることが楽しくて、暖かくて、切なかった。

 休日には朝から晩までずっと二人で神社で過ごした。

 二人で社殿から眺めたあの青い空を、私は今もずっと覚えている。いつも美しい島の青い空は、二人で見ればもっと綺麗だった。


「私やっぱり、この島の青い空が好きだな」

「そうか、俺もここから眺める青空は好きだよ」


 そう言いながら、時々天司郎が青空を羽ばたく名前も知らない鳥を見て、どこか悲しげな目をしていることを私は知っていた。知っていて、気付かないふりをしていた。言ってしまうと、彼が遠くに行ってしまうような気がしたからだ。


 数えきれない季節が流れ、気付けば私は高校3年生になっていた。


「やぁ、蒼。今日も暑いな」

「ほんとにね。今年の夏もセミが五月蠅くて嫌になっちゃう」


 高校生になってからも、私はいつも天司郎の元に足を運んでいた。

 最初に出会った頃のような幼さは顔から少しずつ消え失せ、身長も体つきも天司郎と並んでも違和感がないくらい大人に近づいている。天司郎だけは、会った頃と何も変わらなかった。顔立ちも服装も、髪の長さすら1ミリも伸びていない。天司というのは本当に人間とは違うんだということはとっくの昔に知っていたけど。


「確か今日は三者面談だったな。蒼はこの先の進路はどうするんだ?」

「んー。やっぱり私はこの島が好きだから、島の役に立つ仕事がしたいかな」


 半分本心で、半分嘘だった。

 自然豊かで慣れ親しんだ人が多いこの島を深く愛しているのは本当だ。だけど、それだけじゃなくて、私は———。


「天司郎はさ」

「ん?」

「……ううん、なんでもない」


 ———ずっとこの島にいてくれる?


 そう聞いてしまいそうになった。

 天司郎は天司で、傷ついた羽が癒えればきっとまた空に帰ってしまう。

 天司である天司郎と、人間の私。ずっと一緒にいられないのは分かっているけれど。

 でも———。


「今日も、空が青いな」

「うん、そうだね」


 夏の日差しはいつも暑くて眩しいけれど、青空の中でも夏の青空が私は一番好きだ。

 私たちが出会った日も、こんな青空だった。


「“アオ”が好きだ」

「え?」


 蒼が好き?私が好き?

 一瞬、世界のすべてが静止したように思えた。


「“アオ”を見ていると、自分が今までこの空を守ってきて本当に良かったと思う」

「え、と………」


 うまく言葉が出てこない。天司郎が言っている言葉を頭がきちんと理解してくれなかった。


「だから、俺はこれからもこの青い空を守りたいと思う」

「そ、そっか」


 結局その日はその後何を話したのか、あまり覚えていない。気付けば私は家のベッドで顔を埋め、天司郎が言っていたことを繰り返し繰り返し頭で反芻していた。


 ———“アオ”が好きだ。


 まるで世界のすべてが私の味方をしてくれているかのように感じた。

 ただただ嬉しくて、幸せで、心がざわついて少しも落ち着いてくれない。


 けれど、世界が私に味方してくれたのはあの時だけだった。


 私と彼が同じ青空を見たのは、あの日が最後になった。


 翌日から、島の天候は少しずつ荒れていった。

 テレビのニュースではしきりに危険を伝える言葉が飛び交っている。

 過去最大級の記録的な大型台風が接近していた。

 もし日本に直撃すれば過去最大の被害が出ることは間違いないと、名前も聞いたことがない専門家たちがしきりにテレビで話している。

 そしてその進路は、とてつもなくまっすぐにこの島を目指していた。

 当然のように学校は休校。大人達も仕事にはいかず、家の修繕や水害の備えに忙しなく動いていた。

 結論から言えば、その備えはあまり効果があるとはいえなかった。

 この島にやってきたのは風雨だけではなく、うねりを上げる高波が一緒だったからだ。


 今日とうとう島の島内放送で島民全員の避難勧告が告げられた。避難先は、私もよく知る島で一番高い山の山頂。

 あの神社がある場所だった。


「とんでもないことになっちゃったね」

「仕方ないよ、お天気は人がどうこうできるものではないからねぇ」


 今年で90歳になるおばあちゃんを背負いながら、他の島の人たちと一緒に私は山を登っていた。雨はいまだに強く打ちつけるように降っていて、風は身を切るように私のそばを通り過ぎていく。もはや傘など役には立たず、皆一様に雨具を着用していた。高波が迫っていることでやむなく山を登っているが、もしこれで土砂崩れなど起きようものなら本当に逃げ場はなくなる。


「蒼、この先にある神社を知ってるかい?」

「え、うん」


 知っているも何も、ほぼ毎日通っている場所だ。


「あそこはずっと昔に神様に捨てられた場所なんだけどねぇ、神様はこの島が嫌であの神社を離れたわけじゃないんだよ」

「え?」

「あの神社のことを知っている人はもうこの島にもほとんどいないけれど、昔この島には翼を持った神様がいたんだ。神様が羽の力でこの島にやってくる天からの災いを鎮めてくれたおかげで、この島は自然豊かで平和な島でいられたんだよ」


 翼を持った神様。

 神様が羽を生やしているなんて、珍しくもない話だ。

 でも、私はその神様に心当たりがありすぎるほどあった。


「けれど、この島を守るために神様はなかなかあの神社に帰ることもできなくてねぇ。時代が変わるにつれて、この島の人たちも空が青いことを当たり前に感じるようになって、いつの間にか神様は誰からもその存在も歴史も忘れ去られてしまったんだよ」


 天司郎。

 その神様というのは天司郎だ。


「もう誰からも忘れられてしまった神様でも、祈れば願いは届くのかねぇ…」


 おばあちゃんが切なげに漏らした言葉に、私は返す言葉が見つからなかった。


 神社には既に多くの島民が到着していた。だが、元々崩れかかった社殿しかないこの山頂には人が避難できるような建物はない。幸い木々が倒れたり風で物が飛ばされたりはしていないが、このままここにいても状況は悪くなる一方だろう。

 おばあちゃんを顔見知りの人に預け、私は必死で天司郎を探す。

 天司郎なら、もしかしたらなんとかできるかもしれない。

 人混みをかき分け、気付けば神社の裏手の方に回り込んでいた。

 社殿と空に広がる暗雲の影に隠れるかのように、見知った背中がそこにあった。


「天司郎!」

「蒼か」


 振り返った天司郎の顔は、いつもと何ら変わらない。雨に濡れ風に揺れる髪も、雨水が伝う頬も、すべてが美しい。ただ、瞳だけがいつものような澄んだ蒼ではなく、今の空を表すような暗い色に染まっていた。


「天司郎、あの……」

「分かっている。本当は、こうなる前に決意するべきだったんだ」

「決意?」

「本当は君も気付いていたんだろう?俺の羽は、もうとっくに癒えていた。それなのに、俺は再び空に帰ることができずにいたんだ。空を守りたいなどと口では言いながら、自分の役割を放棄して、ただ安穏とここに留まった。それがこの災いを招いてしまったんだ」

「……」

「君と別れることを、もっと早く決意するべきだったんだ」


 自嘲するように語る天司郎の顔には、かつてないほどの深い絶望の色が見て取れた。


「すまない。俺は、君に甘えていた」

「……」

「俺はずっと孤独だった。それを気にしたことなんて一度もなかったし、ただこの空を守ることだけが自分の存在意義だと思っていた。」

「……」

「だけど、君と出会って、俺は初めて誰かに求められる喜びを知った。俺の役割に感謝してくれたのは君だけだった。俺と一緒にいてくれたのは君だけだったんだ」

「……」

「俺は、もう空にかえ———」


 その言葉の続きを聞くよりも前に、私の唇が彼の唇に触れていた。

 世界のすべてが止まる。過去も現在も未来もすべてがここにある。これを永遠というのだろうと、今は思う。

 あの瞬間は、私にとっては永遠だった。

 唇から感じる彼のぬくもりは、この暗く冷たい空の下であっても暖かかった。抱きしめる彼の胸に鼓動は感じなかったけれど、代わりに私の胸の鼓動が彼にも伝わっていることが分かった。

 ゆっくりと、唇を彼から離す。

 本当は彼にずっと触れていたかった。もっとぬくもりを感じていたかった。

 これからもずっと、二人であの青い空を見ていたかった。


「蒼……」

「また、ここに帰ってきてくれるでしょ?」

「……」

「私はずーっとここで待ってるから。だから、だからさ」


 熱いものが私の目から溢れかえる。


「また、二人であの青い空を見ようよ」


 天司郎はわずかに目を見開き、そしてかつてない穏やかな笑顔を見せた。


「あぁ、俺たちが愛したあの青い空は、俺が必ず守る」


 天司郎がゆっくりと後ずさる。

 刹那、その背中から白い羽が飛び出した。私の背丈ほどもありそうな、白くて大きな美しい羽。きっと青空で羽ばたけば白い翼が青によく映えるだろうと思った。

 天司郎は翼の調子を確かめるかのようにその場で一対の羽を揺らす。その度に花弁のような小さな白い羽根が宙を舞った。


「天司郎」


 ちゃんと、笑顔で見送らないと。天司郎が頑張れるように。

 だから私は、涙を堪えてとびっきりの笑顔を見せた。


「またね」


 天司郎もまた、大きな笑顔を浮かべる。


「あぁ、また」


 次の瞬間、天司郎は私の前から姿を消し、後には飛び立った後の白い羽根が風に揺れていた。


 ▲▲▲


 あの後、島に接近していた台風はまるで霞のように消え失せた。台風が消えるとともに海もまたその落ち着きを取り戻し、高波がこの島を襲うことはついぞなかった。

 テレビのニュースでは原因不明の自然現象にレポーターや気象学者、果てはオカルトめいた人々までが様々な議論を繰り広げていたが、結局原因は誰にも分からなかった。


 ただ、この島で一つだけ変わったことがあった。


 あの日、この神社で宙を舞う奇妙な白い羽根を見たという島民が後を絶たなかった。不思議なことに白い羽根は神社はおろか島のどこにも見つからず、その証拠はどこにもなかったけれど。

 それ以降、少しだけこの神社を訪れる島民が増えた。私のおばあちゃんのように、まだこの島にもこの神社の言い伝えを知っている人が残っていて、そういった人々がこの神社の神様が島の災いを祓ってくれたのだとでも言ったのだろう。今でも時々、崩れかけたこの社殿にはお供え物をする人がいる。一時期社殿を建て直そうという話も大人たちの中では持ち上がったらしいが、管理する人もいなければ再建する経済的余裕もなく、結局その話は立ち消えた。

 何より、神様があそこにいないことにこそ意味がある。


 高校を卒業した私はこの島で職に就いた。

 職と言っても子供の頃からやってきたような農作業の手伝いの延長に近い。

 それでも、幼い頃から慣れ親しんだ島民の人たちと一緒に汗を流す今の生活は居心地がよかった。


 今でも私は暇さえあればこの神社に通っている。

 あの台風の日から今日まで、島には一度として大きな天災はやってきていない。

 今もこの青い空のどこかで、天司郎は頑張ってくれているんだ。

 社殿に腰かけて見る島の景色と、夏の日差しを受けてどこまでも広がる海。そして、美しく大きな青い空。

 遠いあの日、彼と一緒に見たこの空は、彼が守ってくれたこの空は、今日も青い。

 とても、愛おしい。


「私やっぱり、この島の青い空が好きだな」

「そうか、俺もここから眺める青空は好きだよ」


 懐かしい声。

 ずっと耳に残って離れてくれなかった声。

 いつまでも聞いていたいと思った声。


 私の隣には、いつの間にか小さな白い羽根が舞い、その中に隠れるかのように一人の青年が座っていた。

 遠目に広がる青い空に、その白い羽根はよく映える。

 舞い散る羽根がどこかへ消えると、そこにあったのは懐かしく愛おしい顔。

 その瞳は、この空のように青く美しい。


 ———あぁ、やっぱり私。


 自分の顔が自然と笑顔になっていることが分かった。

 その目に涙を滲ませていることも。


 ———やっぱりこの空が好きだなぁ。


 今日も、空は青い。

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私の愛した空 棗颯介 @rainaon

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