イッヌ-幸せの運び手-

るつぺる

迷い犬

 校庭に犬が迷い込んでいた。窓側の席の誰かがそれを見つけて「あ、犬」と言うとみんなは授業そっちのけで窓際に張り付いた。犬はとにかく校庭を走り回って自由だった。そのくせ僕らは授業時間に縛られた心の囚人だ。「座りなさい、しずかに」先生に注意されて席に一旦戻った僕たちだけれど意識は完全に犬に持ってかれてた。タカシなんて教室の真ん中の席だからどうやったって座ったまま外にいる犬を見ることなんてできないのに背筋と首だけを精一杯伸ばして犬を見ようとしていた。それも千年続ければタカシはキリンになれるだろうと僕は思った。

 クラスの中でただ一人、犬に興味など持っていないという感じの子がいた。ティコ太郎だ。ティコ太郎はマンティコアなのでおっさんと獅子舞を合成アプリで混ぜたみたいな顔をしていて身体はライオンだからもう歩く合成って感じの子だ。ティコ太郎はあだ名で、実際ティコ太郎がオス、じゃなくて男の子か女の子なのかもみんなよく分かっていない。前にタカシがティコ太郎のちんちんの所在を明らかにしようとティコ太郎の股間に手を伸ばそうとしたことがあったけど、たぶん怒ったティコ太郎はそのままタカシの右肩あたりまで咥えてぶんぶん振り回すもんだからタカシは肩をもってかれそうになる事件が起きた。仲直りの儀式としてティコ太郎の尻尾とタカシのもってかれかけたよだれまみれの右手で、あれを握手と言っていいのかはわからないけれど握手みたいなことをして一件落着になった。ただこれをキッカケにティコ太郎のセクシャリティについてはタブーという認識がクラス内に浸透した。

 ティコ太郎だけは授業が始まってから犬が発生するまで、またその後もずっとおとなしく席についていたのは僕も犬を気にしつつ横目で注意を払っていたので確認済みだ。ティコ太郎は大人しい子だった。荒ぶったのは僕の知る限りでタカシが股間に触れようとした時だけ。ティコ太郎は誰よりも早く登校して教室の扉の前で待っている。自分で開けられないからだ。手足がそのように発達していないのだ。だからクラスの誰かが来て開けてあげる。とてもハートフルなことだ。そんな真面目なティコ太郎だから犬ごときでは心をかき乱されないのだろう。本当に大人しいのだ。ティコ太郎がテストの時にペンを握っているのも見たことない。手足がそのように発達していないのだ。しかしそれはいくらなんでも大人しすぎるだろうと僕は思うのだがティコ太郎のテスト用紙は毎回〇点で返却される。ティコ太郎が前に見せてくれた通知表は体育だけぶっちぎった成績で、一部の栄養素に特化した野菜の品質表示みたいだった。

「あ、犬が学校の中に入った」

 誰かが懲りずに犬の実況を始めてまたみんな窓辺に張り付いた。校内に入り込んだから犬の姿なんてもう外にはないのに。僕はその時もティコ太郎が座ったまま前方を見つめてよだれを垂らしているのを見逃さなかった。

プルプルプル……

プルプルプル……

 教室内の緊急連絡用に備えたインターフォンがなった。担任の小杉先生が「え、犬がこっちに向かってるんですか」と動揺したのも束の間、犬は僕たちの教室に入り込んできた。犬捕縛係の教頭先生も後から来た。そこからはもうパニックだ。女子たちの悲鳴と興奮。縦横無尽に暴れ回る犬。取り押さえようと必死な教頭先生。マンティコアという完全に異質な存在に馴染んだ特殊学級でこの様だ。ただやっぱりというべきかティコ太郎だけはまるで不動だった。ティコ太郎が何を考えているかはわからない。なぜならティコ太郎は人語を介さないからだ。それでも僕はティコ太郎が今どういう心境なのか薄々感づき始めていた。もしかしてティコ太郎こそがこの現代社会における迷い犬なのではないのか。どうしてティコ太郎は僕らのような人間社会に属して触れもしないペーパーテスト文化を享受しているのか。それは享受ではなく、あくまで招かれざる客のもとに起きているただの現象ではないのか。だとすれば何故抵抗しないのだティコ太郎よ。本来ならば其方は神話という我々には遠く、まるで手の届かぬような聖域を駆ける徒ではなかったのか。我々の言語や文化に応えようとしないのが答えなのではないか。あの時タカシに見せた獰猛な野性の眼力こそが其方の生きる道ではないのか。ならば何故斯様な文明で学徒で振る舞おうなどとする。否、否々、否! 其方は迷い込んだのであろう。そして今も迷っている。流れ行く時の中で我らのような稚児と相見えるうちに其方の中のマンティコアという概念を揺らがせてしまったやもしれぬな。ゆえに其方はマンティコアでありながらマンティコアとなりきれず我らを襲うことも滅すこともせず自己と向き合い苦しんだに違いない。だがもういいはずだ。あの犬を見よ。犬の中の犬ぞ。犬しかしてないであろう。犬ingぞ。それなのだ。ティコ太郎。其方は十分に苦しんだ。苦しんで苦しんで苦しみ抜いた。タカシとそのサソリの毒針が如き尻尾で握手したあの日の夜、其方が枕を濡らしたこと、今ならば手に取るようにわかる。ティコ太郎、其方から言えぬというならば代わって申す。

「この子を解き放て! この子はマンティコアだぞ」

「ちょっと吉田! あんた急に何言ってんのよ。変なこと言ってないで犬つかまえてよ!」

 相変わらず犬が教室内を走り回っていた。案外すばしこい奴だ。我に帰った僕はティコ太郎がまだそのままなのを確認すると先に犬の方を片付けようと追いかけた。ところが教頭先生でどうにもならない犬を僕がどうにかできるはずなどなかった。犬はあろうことかドーベルマンなのだ。勇気とかそういう問題ではなく誰も怪我していないのが奇跡だった。そこにいない飼い主を恨んでも仕方ないが教育をなめるなと僕は思った。やがてドーベルは攻守逆転とでもいうかのように姿勢をこちらに構えた。まずい、そう思った。緊張が走る。犬が唸る。教頭なにやってんの!? 犬は駆け出した。向かう先は、ティコ太郎だ。ティコ太郎は気づいていない。ずっと黒板を見つめている。誰かが叫んだ。

「危ない! ティコ太郎!」

 ティコ太郎のすぐそばで跳ね上がった犬はそのままティコ太郎の頭部に食らいついた。トゥモローネバーダイ。意味は知らないけれどどこかで聞き覚えたこの言葉が浮かんだ。犬がヘアピンみたいになったままティコ太郎は席から立った。四足を堂々と踏みしめて教室の外へ出た。僕らはティコ太郎がヘアピン犬と一緒に校庭に出たのを教室内から確認した。固唾を飲んで行く末を見守る。ティコ太郎が大きく首をぶん回すと犬は放物線を描きながら吹き飛んで地面に落ちた。誰かが「痛ァ」と言った。それでも犬は体勢を立て直しティコ太郎に向かって行った。逆に可愛そうになってくる。勝てるわけがない。ティコ太郎はマンティコアだぞ。大体なんだマンティコアって。犬が飛びつくとティコ太郎は仰向けになって犬を受け止めた。また誰かが口を開いた。

「じゃれてる?」

「仲良いっぽくない?」

 確かに戯れあっているように見えた。ティコ太郎と出会って半年を過ぎるけれどあんな姿を見たことはない。ティコ太郎と犬はそのまま校門を出て行ってしまった。僕らはそれを見送ることしか出来ない。ティコ太郎はきっとマンティコアを思い出したのだ。迷いから解き放たれて教室を出たのだ。

「ちょっと吉田。あんた何、泣いてんの」

「泣いてない」

「泣いてんじゃん」

「泣いてないってんだろが!」

 ティコ太郎が仰向けで犬を受け止めた時、僕は見逃さなかった。これは巻き戻しできないけれど確かに僕は目に焼き付けた。ティコ太郎の股間に生えたちょっぴり控えめなティンコ太郎を。おめでとうティコ太郎、ありがとうティコ太郎。


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