空に走る SS

文月(ふづき)詩織

ばんか

 目を覚ましてしばらくの間、ぼんやりと天上を見上げていた。もう早起きしなくていい。それなのに、どうしてもこの時間に目覚めてしまう。


 微睡まどろむうちに、だんだんと気温が上がってゆく。肌がじわじわと汗ばんで来た。掛け布団を跳ねのけて起き上がると、脱ぎ散らかした制服を拾い集めて袖を通す。腹周りが少しきつくなった気がした。そのくせ足は細くなっている。


 パンとサラダだけの朝食を胃に収めて玄関に向かう。真新しい革靴に足を通して、家を出た。


「行ってきます」


 応じる母の声に含まれた心配そうな気配に気づかないふりをしてドアを潜った。熱い空気の塊が体を包む。


 ゆっくりと歩いて学校に向かう。コンクリートとアスファルトに覆われた街のどこかで、セミが鳴いていた。


 この道を走って学校に通った日々が、今は遠い。あの頃の自分は一体何を考えていたのだろう。毎日が無闇に楽しくて、そんな日々が永遠に続くと信じていた。


 ずっと信じていられたら良かったのに。


 校庭では陸上部が朝練に励んでいた。顔を伏せ、足早に通り過ぎる。靴箱を空けると、上履きと一緒に履き古された運動靴がしまい込まれていた。見ないようにして靴を履き替えた。


 一人欠けた学校は、変わらぬ日常を刻んでいる。右から左へ抜ける授業。空々しい青春ごっこ。その一部になり切って一日をやり過ごした。


 最後の授業が終わるなり、部活や帰り道への期待でざわめく教室を急いで抜けて、一人、ロッカーへ向かう。陸上部が練習を始める前に学校を出てしまいたかった。


 靴を替えようとすると、ランニングシューズと目が合った。私は衝動的にランニングシューズを掴んで、無理矢理鞄に押し込んだ。汚れた靴が歪み、砂がぱらぱらと鞄に落ちる。


 くしゃりという音がした。私ははたと手を止める。ランニングシューズの中に、茶封筒が入っていた。差出人の名を見て、息を呑む。


 つかさからの手紙だった。



*****



 私は詞を親友だと思っていた。


 物静かだが明るく、努力を苦とせず、忍耐を重んじ、弱音を吐かない。詞はそんな人間だった。

 私と同じ陸上部に所属し、実力伯仲、切磋琢磨する間柄。互いが相手のことを本人以上に理解していると思っていた。


 部活で汗を流し、二人並んで家に帰った。登校時は待ち合わせて通学路を走り抜け、朝練の後にはふざけ合った。ただそれだけの、思えば単調な日々を過ごしてきた。楽しかった。青春を、していた。


 その終焉は唐突に、しかも気付かれることなく訪れた。

 詞が体の痛みに悩まされるようになったのだ。


 初めに相談を受けたのは私だった。


「大袈裟だなあ! もうすぐ大会だからね、ナーバスになるのも解るけど!」

「え? そんなに? どうしたんだろ。傷めたのかな? 湿布いる? 大会、もうすぐだよ」

「まだ痛いの? 長引くねぇ。……お医者さん行ったら? 早く治さないと大会に出られなくなるよ」

「まだ治らない? うん、大丈夫大丈夫! 若いから。それより、大会が……」


 今にして思えば、私は軽薄だった。明るい笑顔の裏側で詞がどれほどの痛みに耐えていたのか、知ろうともしなかった。そしてもう、知ることはできない。


 詞は死んでしまったのだから。


 何が間違っていたのだろう。

 日々の練習で傷めたものと思い込んで医師に相談するのが遅れたことか?

 同様に考えた医師が、調べようとしなかったことか?

 若いからと気楽に構えていたことか?


 いずれにせよ、痛みの正体が分かった時には手遅れだった。骨に巣食ったがんは、宿主が若いが故に活発に増殖を繰り返し、治療不可能な状態にまで成長していた。


 詞は部活をやめた。学校にも来なくなった。


 呆れたことに、私は何も知らなかった。学校は生徒の個人情報を教えてくれなかったし、詞は何も言わなかった。私は何度も見舞いに行って、部活の近況を話した。自分を含む何名かが地方大会を勝ち進み、全国への切符を掴んだことを報告し、詞には来年があるからと励ました。


 来年なんてなかったのに。

 なんて無神経で無責任なことを言ったのだろう。


 私がようやくそれに気が付いたのは、詞が帰らぬ人となった後だった。


 私が撒き散らした無邪気な夢は、輝く未来は、どれほど詞を傷付けただろう。


 涙は目から零れなかった。代わりに心に流れ込んで、過去も未来も沈めてしまった。許容量を超えた涙はぐずぐずと悲しみを膨張させて、今にも破裂寸前だ。


 弾けてしまえば楽になるだろう。


 足元から立ち昇る熱気が体をあぶる。灼熱の空気が肺をとろかせる。夏も終わるというのに、この暑さは何だろう。

 セミの声がしなかった。静まり返った熱の中、立ち昇る蜃気楼で世界が歪む。

 

 私は手紙引っ張り出した。きっちりと糊付けされた無味乾燥な茶封筒に、感情のない文字で「葵へ」と記されている。丁寧に封筒を破って中の紙を取り出し、詞の怒りと恨みを探して、レポート用紙の罫線に沿って書かれた几帳面な文字を追う。


―――――

「葵へ。


 あなたがこの手紙を読んでいる時、私は虹の橋の向こう側で鬼に鞭打たれながらサイの瓦を積んでいることでしょう。変な形の瓦なのでとても揺れます。しかも鬼は意図的にこれを崩すのです。両親より先に死んだとかいう不条理な罪状でこんな意味不明な刑罰を課せられるとは、酷い話です。

 鬼は非情な輩ですが、職務外ではそれなりに気の利くところもあり、あなたにこの手紙を届けることを了承してくれました。

 目的も意味もなく、鬼の訪れと共に崩れると解っているサイ瓦をただコツコツと積み上げる……。毎日毎日積み上げては崩され、また積み上げる。何のためにこんなことをしているのか。とてもつまらないし、苦痛です。

 でも考えてみればこれは、生きていた頃も同じだったのかもしれません。


 私は何のために走ってきたのでしょう。さしたる目的もなく、何かの役に立てようと思うわけでもなく、より速く走るためだけに走ってきました。青春を振り絞って。

 馬鹿なことです。正気の沙汰と思えない。けれど、後悔はありません。楽しかったし、続けたかった。


 葵が全国の舞台にはばたいたこと、私は心から嬉しく思っています。私の届かぬ場所に行くあなたへの負の感情がなかったと言えば嘘になりますが、賽の河原に石を……じゃなくて、サイの瓦を積むような馬鹿馬鹿しいことに共に全力を挙げたあなたがそこに行くことこそ、私の積み上げた何かが崩れた先に残ったものだと思っています。


 あなたはきっと、ひどく後悔しているでしょう。でもね、仕方がないじゃありませんか。知らなかったのだから。私が知らせなかったのです。あなたに知られてしまって、あなたと過ごせる最後の時を損なうのが怖かったのです。あなたが私の死後にさぞ後悔するだろうと分かっていて、それでも明かすことが出来なかったのです。私は自分が楽な道を選んだのであって、あなたを苦しめる道を選んだのではないのです。どうかお察しください。そして出来れば許してください。


 私はあなた以上にあなたのことを知っているつもりです。あなたは自己に批判的で、しかもとても繊細な人です。そして私のことを深く理解しているから、きっと見抜いているでしょう。私があなたに抱いた負の感情を。

 私には届かない世界、来ない未来。あなたが病室に持ち込むそれはとても輝いていて、眩しくて、辛かった。でも私はあなたにそれを見せて欲しいと思っていました。目を焼かれてでも見つめ続けたいものでした。


 これからもずっと見たかった。せめてもの慰めとして、私の墓前にはあなたの優勝トロフィーを飾ってください。


 その時を楽しみに待っています。


 詞より」

―――――


 しばたいた眼球が熱い。水分が蒸発する。私は丁寧に手紙を畳んだ。


 傷付いて、苦しんで、私を怨んで死んでいった詞は想像の産物でしかなかった。その詞が本来の詞を覆い隠してしまっていた。


 普段とても静かなのに、口を開けば面白い奴だった。

 おどけなければ自分を出せない奴だった。

 国語と英語と数学と理科と社会と芸術系科目が苦手だった。

 弁当には決まってたこさんウィンナーが入っていた。


 日常の欠片が次々と蘇る。あの時はああだった、この時はこうだった。詞はもしかするとこんな奴だったのかも。でもこういうところもあったのかも……。


 家に辿り着くなり、私は買ったばかりの革靴を脱ぎ散らかし、制服からランニングウェアに着替え、履き古したランニングシューズに足を入れる。


「行ってきます!」


 ただいまを言う前から行ってきますを言う我が子に何を思ったか、母の返事は温かかった。


 走るのは久しぶりだ。体はすっかりなまっている。空気は熱く、重く、ぬったりと手足に絡みつく。熱したゼリーの中を泳いでいるかのようだった。


 馬鹿なことをしている。この気候で走りに出るなんて、自殺行為にも等しい。

 けれど今私は、馬鹿なことをやりたい。


 ばらばらに動き回っていた手足が次第に連携し、効率的なフォームを作る。全身が走るという意思の下に統一される。灼熱のアスファルトを古びたランニングシューズが強く蹴る。


 噴き出す汗は乾かない。顔に貼り付く髪を手で払う。流れた汗がひどく沁みて、目が潤む。


 汗に濡れた髪に何かが当たった。ぽつり、ぽつり。アスファルトに黒が射す。ひとつ、ふたつ、みっつ……。思う間に、晴れた空からバケツを引っくり返したような水が降って来た。

 私は足を止めなかった。汗も涙も雨と一体になって体を伝い、服と靴を濡らしてゆく。こびりついていた何かが洗い流されて行く……。私は天に向けて大きな声で笑った。


 雨は嘘のように激しく振って、冗談のようにすぐ止んだ。落ちた雨水は肌に貼り付いた服から滴り、一歩踏み出すごとに靴から染み出して生温かく足をくすぐった。むわりと広がる夏の終わりの空気の中で、アスファルトが匂い立つ。


 セミの声が戻って来た。私は足を止め、呼吸を整える。吸い込む空気が熱い。吐き出す空気はさらに熱い。濡れた顔から、いつまでもいつまでも水が滴り落ちる。


 私は顔を拭う。


 明日はいつも通りの時間に目を覚まして、すぐに登校しよう。朝練に参加する。遅れを取り戻して、詞の墓前に優勝トロフィーを供えなければならないから。


 ふと見上げた先に、大きな虹がかかっていた。虹の向こう側に微笑みを投げて、靴をじゃぶじゃぶ鳴らして家路を急ぐ。


 最後の雫がぱたりと落ちた。



了 ~空を走る Stack Stone ~

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