【短編版】徒花

アナマチア

徒花


 私には義弟がいる。


 彼と初めて会ったのは、私が十歳、彼が八歳の時だった。


 私の家──ウィルベリー伯爵家には、跡継ぎがいなかった。


 私が生まれて十年。その間、両親は子に恵まれなかった。


 この国では、女性の爵位継承は認められていない。

 

 ……ウィルベリー伯爵家には、継承権を持つ親族がいなかった。


 どうしたものか、と父が夜遅くまで頭を抱える姿を、私は扉の隙間から覗くことしか出来なかった。


 しかし、その日は突然に訪れた。父が亡くなった親友の息子を養子に迎え入れたのだ。


 まだ八歳になったばかりだという男の子は、不安そうに「セドリック」と名乗った。


 黄金に輝く金髪と、蒼穹を彷彿とさせる碧眼の美しい男の子。


 セドリックは、私の自慢の義弟になった。




 最初の頃のセドリックは、拾われた猫のように警戒して、なかなか心を開いてくれなかった。


 けれど私は、セドリックに根気強く喋りかけた。天使のような彼と、どうしても仲良くなりたかったから。


 そうしている内に少しずつ、セドリックは私に懐いてくれるようになった。


 そしてある日、もじもじとしながら「シルティ姉さま」と名前を呼んでくれたのだ。


 あの時のセドリックの可愛さといったら!


 ふっくらとした頬を桜色に染めて恥じらう姿は、彼の容姿も相まって、まさに天使のようだった。


 私はまるで、背中に羽が生えたような心地になったわ。


 そして喜びを分け合うように、セドリックと手を繋いで跳ねるように踊ったの。


 嬉しくって何度もくるくると回転したものだから、セドリックは目を回してしまった。


 その後は、お母様に叱られてしまったけれど……。


 私は有頂天だったから、ちっとも怖くなかったわ!




 セドリックが私の義弟になってから二年の月日が経った。


 十二歳になった私には、一つ年上の婚約者ができた。


 婚約者は、我が家の領地に隣接する、エルヴィル伯爵家の嫡子エドガー様。


 領地が隣同士ということもあって、幼少期からちょくちょく会う間柄だったから、私は少しホッとしたのを覚えている。


 恋とか愛とか。私にはまだ、それがどういう感情なのか、よく分からなかったけれど。


 全然知らない人と結婚するよりも、幼馴染のエドガー様と結婚する方が幸せになれそうだな、と思った。




 婚約が決まってから、私とエドガー様は逢瀬を重ねるようになった。


 今から思えば、その頃からだったわ。


 ──私に対するセドリックの態度が変わってしまったのは。



 「シルティ姉さま!」と満面の笑顔で駆け寄ってきていたセドリックは、貼り付けたような笑顔を浮かべるようになった。


 そして彼は、私を「姉さま」と呼ぶことはなくなった。その代わり、「シルティ」と呼ぶようになった。


 私はセドリックが変わってしまったことが悲しくて、とても寂しかった。


 もう「シルティ姉さま」と呼んでくれないの?


 あの可愛らしい笑顔を見ることは出来ないの?


 私は何度も理由を尋ねたけれど、セドリックは貼り付けた笑顔で、はぐらかすだけだった。




 セドリックと、心の距離が広がっていくのを止められないまま、月日は過ぎていった。


 そして、私が十七歳、セドリックが十五歳の時。


 私は見てしまった。


 セドリックとエドガー様が、口付けを交わしている所を。


 婚約してから恒例になっていた、エドガー様との逢瀬。


 今回は、我が家でお茶をしようということになったの。


 私は訪ねて来られたエドガー様を応接間にお通ししようとしたわ。すると――


「僕が案内するよ。シルティ姉さま」


 そう背後から声をかけられて、私は驚いて振り返った。私の視線の先には、穏やかに笑うセドリックの姿があった。


 少年から青年へと足を踏み入れたセドリックの笑顔は、幼い頃のそれとは大分違ってしまっていた。


 でも、そんなことはどうでもいい。


 数年振りに見た彼の笑顔と、「シルティ姉さま」と呼ぶ優しい声に、私は歓喜に震えたわ!


 ――うれしい! 今日は素晴らしい日だわ!


 私はお茶の用意をお願いしてくると言い残して、エドガー様の案内はセドリックに任せることにした。


 だけど厨房へ向かう途中、私はぴたりと足を止めた。


 エドガー様はいつもコーヒーを好んでお飲みになっていたことを思い出したから。


 私のお気に入りの紅茶を飲んでいただきたい。でも、私の好みを押し付けるより、コーヒーの方がいいかもしれない。


 うんうんと悩みながら、結局、本人に直接聞きにいこうと踵を返した。そして――


 私は扉の僅かな隙間から、口付ける二人の姿を茫然として眺めた。


 二人が交わすそれは、私が知る口付けとは違う。


 お互いに舌を絡ませ合い、ぴちゃぴちゃと淫靡な音を室内に響かせていた。


 目の前の光景を見ているようで、見ていないような。


 磨りガラス越しに覗き見ている気分でいいると、セドリックの甘い喘ぎ声が鼓膜を震わせ、現実に引き戻された。


「ん、あ……っ」


「ああ……。愛しい私のリック。このまま君の体中を舐め尽くしたいよ」


「ン、ン、んあっ……駄目だよエド。……彼女が戻って来てしまう」


「チッ。あと一時間ほど戻って来なければいいのに」


「そんなことを言ったら駄目だよ。彼女は一応、エドの"婚約者"なんだから……」


 セドリックの言葉に眉根を寄せたエドガー様は、「忌々しい」と髪を乱暴にかきあげた。


 セドリックは、エドガー様の乱れた髪を直してあげながら、妖艶に笑った。


「それに、たったの一時間じゃあ足りないでしょう……? ねぇ、エド。もういっかい、気持ちいいキス……して?」


 甘く強請ったセドリックの唇に、エドガー様は噛み付くように口付けた。


 私は震える足をなんとか動かして、音を立てないようにその場から離れた。


 そして、何も知らないフリをして応接間にお茶を運んだ。――二人は、普段の様子に戻っていた。


「遅いよ、シルティ姉さま」


「何かあったのかい? 愛しい君を待っていた時間はとても長く感じたよ……」


 何事もなかったように振る舞う二人。


 聞き心地の良い言葉を紡ぐ二人の唇。


 ――うそつき。


 嘘つき。嘘つき。嘘つき。嘘つき。うそつき……!


 私は、嫌悪感で叫び出しそうになる衝動を抑えて、いつも通りに振る舞った。


 ……その後のことは、よく覚えていない。


 あれからも、エドガー様との逢瀬は続いた。


 しかし私は、体調不良を理由にして、エドガー様と会うのを拒んだ。


 けれど、私に会えなくてもエドガー様は邸に来る。

 

 ……私に会いにではない。


 セドリックと睦み合う為だ。




 日に日に憔悴していく私を、両親は酷く心配した。


 私は両親に、号泣しながらエドガー様との婚約解消を懇願した。


 理由も言わず、ただ泣き続ける私の姿に両親は狼狽えていた。そして、両家で話し合った結果。――婚約は解消された。


 すると不思議なことに、エドガー様の訪問はピタリと無くなった。


 私は家の中でセドリックと鉢合わせる度にブルブルと体を震わせた。


 しかしセドリックは、そんな私を一瞥するだけで、黙って横を通り過ぎていく。


 私はというと、体調が回復してから、何度か婚約をした。そして結局、婚約者たちは総じてセドリックに夢中になった。


 見たくもないのに、何故か情事を目撃してしまう。


 私は、婚約と解消を繰り返すうちに、床に臥せるようになった。


 私は、辛い現実から逃れる為に、一日中眠りについた。


 眠れない時は、処方された睡眠薬を乱用した。


 ……夢の中は幸せだった。


 夢の中の私とセドリックは、出会った時の十歳と八歳の姿のまま。


 二人で笑い合った。


 庭を転げまわって遊んだ。


 服を汚して帰る度に、お母様に怒られた。


 泣き虫の私を、セドリックはいつも慰めてくれた。


 セドリック。

 セドリック。

 私の自慢の義弟。


「シルティ姉さま」


 私の名を、優しく呼ぶ声に目を覚ました。そこには天使が立っていた。


 窓から差し込む月光を浴びて、金色の髪が白銀に輝いていた。そして陽光の下で見るのとは違う、宵闇色に染まった瞳が静かに向けられていた。


「ああ……可愛いセドリック。私の愛しい天使……」


 私は、目尻から涙がこぼれ落ちるのを感じながら、セドリックに両手を伸ばした。


 セドリックは穏やかに微笑んで、私を優しく抱き締めてくれた。


 私は嬉しくて、幸せで、何度もセドリックの名前を呼んだ。


「セドリック。セドリック。私の愛しい天使。ああ、セドリック……! 愛しているわ」


「僕もだよ。シルティ」


 愛おしそうに私の名を紡いだ唇が、ゆっくりと降りてきて私の唇を塞いだ。


 柔らかくて熱い唇は、私の唇を愛撫するようにちゅっちゅっと何度も啄んだ。


 セドリックは、自分の唇や歯を使って、私の唇がじんじんするまでその感触を愉しんだ。


 キスが気持ち良くて頭がぼうっとしてきた。


 私は、体内の熱を吐きだそうとして口を薄く開いた。すると、その僅かな隙間から、セドリックの肉厚で熱い舌が侵入してきた。


 舌で、歯茎や歯列を確かめるように舐められ、口蓋の敏感な部分を舌先で擽られる。


 私は、くぐもった喘ぎ声を出しながら、快感を追い求めて自らの舌を差し出した。


 セドリックの舌は、私の舌を絡め取ると、その形や感触を丁寧に味わった。


 器用に動く舌先で、舌の根元を突かれ、私は思わず舌を引っ込めた。すると、セドリックの舌は、私の舌を追いかけてじゅるりと絡めとった。


 腰に走った電流に、私の体から力が抜ける。そのすきを逃さず、セドリックは私の舌をじゅっと吸い上げて、舌先を前歯で軽く噛んだ。


 私は下腹部がずくりと重くなるのを感じて、ふるふると体を震わせた。


 セドリックはぴちゃぴちゃと淫靡な音を立て、思う存分私の唇を堪能した。


 私は股の奥がヒクつくのを感じて、もじもじと膝を擦り合わせた。


 その様子に気づいたセドリックの、熱を孕んだ碧眼に射抜かれて、子宮がきゅんとなった。


 口付けだけで、私の膣口は収縮と弛緩を繰り返し、むず痒いそこに刺激を与えられるのを期待していた。


 私は快感の熱に浮かされた。その一方で、頭の隅は冷え切っていた。


 私は、自分の姿を冷静に俯瞰しているような奇妙な感覚を覚えた。


「シルティ。僕のシルティ……。この日をずっと。ずっと待ち望んでいた」


 私の体を舐め回すような、熱っぽい視線が全身に注がれるのを感じた。


 私は何も口にせず、ただ静かに微笑んだ。


 ……そうして私とセドリックは、初めて愛し合った。





 私は、あちこち痛む体をゆっくりと起こして、隣で眠る義弟の顔を見た。


 セドリックの顔は、暗闇の中でも美しく輝いて見えた。


「……私の愛しい天使」


 そっと手を伸ばして、柔らかな金髪を一房手に取った。絹糸のようなそれは、私の手からサラサラとこぼれ落ちた。


「……多分、私は気づいていたわ。貴方の気持ちに……」


 けれど、私は、セオドアの恋情に気づかないフリをした。


 幼い頃の美しい思い出を、大事に大事に胸に抱いて、現実から目を背けていた。


 私は臆病者だった。


 これは、目を背け続けた私への罰だ。


「……貴方は何も悪くないわ」


 幸せそうに眠るセドリックの顔を、脳裏に焼き付けるようにじっと見つめた。


 セドリックは私を愛していた。


 多分、私を「シルティ姉さま」と呼んだその時から。そして、私の結婚を阻止する為に、婚約者たちを籠絡したのだ。


 彼は、どれほど自分の心と体を犠牲にしたのだろう。


 愛してもいない男に体を捧げる苦痛は、どれだけ彼を傷つけたのだろう。


 全て、私を愛したせいだ。


 私の目尻から、ツゥと涙がこぼれ落ちた。


「ごめんね。私を愛したせいで。ごめんね……」


 私は口元を手で塞いで、嗚咽を漏らした。そして、セドリックの頬にそっと口付けた。


 セドリック。

 セドリック。

 私の自慢の義弟。

 私の愛しい天使。


「愛してる」


 でもこの愛は、貴方と同じではなかった。


 最初から最後まで愚かだった自分に罰を与えよう。 


 私は、静かに窓を開けてセドリックを見遣った。


「愛しているわ、セドリック。だから、」


 貴方を私から解放してあげる。


「幸せになって。私の愛しいセドリック」


 私は満天の星を目に映した。そして静かに微笑み、清々しい気持ちで身を投げた。


 ……真っ赤に染まった目蓋の裏。そこに浮かぶのは、黄金に輝く金髪と、蒼穹を彷彿とさせる碧眼の美しい男の子。


「わた……の、い……し、い、て――」


 赤から黒に転じた世界。


 佇む私の視線の先には、ふっくらとした頬を桜色に染めて恥じらう天使が立っていた。


『シルティ姉さま、大好き!』


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