第2話 彼女の”アイ”

 結論から言おう。俺は振られた。


 短い夏休みを活用して、俺はあの夏の再現をした。

 二人で山に行き、海に行き、花火をした。

 その間、哀は一度も笑わなかった。普段高校で見慣れている無機質無表情無感動のまま、哀はただ俺がかける言葉に淡々と返事を返し、俺が誘う場所に何も言わずに来てくれる。高校生にもなって山で虫取りをするのも、二人で海で泳ぐのも、夜の浜辺で小さな線香花火を静かに見つめることも、俺は楽しかった。

 哀と一緒なら、どんなことだって楽しかったんだ。


 夏休みの最期の日、帰り道で彼女と別れる時。

 夏の夕日が優しい色で世界を包む時間。まるで世界が自分の背中を押してくれているように感じた。夕日を背に自分を見つめる彼女がただただ美しくて、眩しくて、彼女が世界の中心にいるようにすら見える。

 その世界の中心で物言わぬ人形のように佇む彼女の瞳には、何が映っていたのだろう。


「哀、好きだ」


 遠い日の夏に伝えたはずの言葉。

 あの時彼女の心に届かなかった言葉。

 今ならきっと伝わると信じた言葉。

 そんな俺の期待はあっさりと世界に裏切られた。


「はい、そうですか」


 哀は表情一つ変えずに家路についた。

 気が付けば世界は優しさに満ちた色を失い、哀のようにひどく無感情で冷たい夜が自分を覆っていた。まるで慰めのように。


 ▼▼▼


 祥吾君に好きだと言われた。


 ———哀、好きだ。


 あの時祥吾君に言われた言葉が何度も自分の頭の中を駆けずり回る。

 自分の意志で何かを忘れることを許してくれない自分の頭は、あの言葉をどこに仕舞うのだろうか。


 きっと私は周りからは完璧だと思われている。

 何でも知っていて、決して間違えることはないと。

 大きな間違いだ。

 私は完璧なんかじゃない。


 みんなが見ている私は、私じゃないのだ。


 私は小さな頃、発育の悪い子供だった。

 ただ発育が悪いだけなら時間が経てば解決したのだろう。だが私の場合はその事象に長く難しい病名が付属していた。

 両親はそんな私を連れて、国内はおろか世界中の有名な病院や大学の門を叩いた。

 そしてようやく見つけた治療法。

 それは、私自身の知性を諦めることだった。


 AI人工知能


 私の頭の中では今もとても小さな金属製の板が、不良品の脳髄の代わりにせっせと働いている。

 両親は私がこの先の人生で不自由のないようにと、特に上等なものを自分の頭に埋め込んでくれたらしい。

 その大手術を終えてから、私の生活はすべてが塗りつぶされた。

 膨大な知識。

 本当に微細で小さなチップは、私が眼球で目にしたもの、耳で聞いたこと、舌で味わったもの、鼻で捉えた香り、指先が触れた感触の情報をすべて吸収し、蓄積してしまう。例えるなら、元々備わっているメモリが壊れているパソコンに外付けのUSBメモリを常に接続しているようなものだ。

 海外で過ごしている数年間、私はテストも兼ねて本当に様々な知識を仕込まれた。


 その代償を知っている者は医者や親も含めて誰もいない。


 膨大な知識を身に着けたことで、私は知らないことがほぼ無くなった。

 アインシュタインの相対性理論だろうがこの星が生まれてから現在までの歴史だろうが、すべて詳細に語ることができる。

 すべてを知っていると、何も感じなくなる。

 山に行こうが海に行こうが花火をしようが。

 この世のあらゆることを理屈で説明できてしまうからだ。


 何も感じないということは、心が死んでいるということだ。


 知性は人間という動物のみが与えられたとされているが、本当に人間を人間たらしめているのは知性ではなく心なのだと、私は理解した。その理解自体、私の頭が理解したわけではないのだろう。

 私は、私でない何かが自分の中にいることを、いつの頃からか自覚し始めていた。今のこの思考も、もしかしたら私のものではなく、その何かが考えていることなのかもしれない。

 自分で自分が分からない。

 自分の考えなのかも分からないまま、私の頭は伝達された情報に対して完璧な返答を自動的に返却する。

 生きていくという上では、これまで一度も苦労したことがない。きっとこれからも。


 だから、祥吾君に好きだと言われても、私は何も思わなかった。

 祥吾君は私のことが好き。

 それだけのこと。

 男性は特定の女性に対して好意を抱く。思春期の多感な時期は特に顕著。人間の文明がこの星に誕生した時から、いつの時代でも、どんな国でも、どこにでもあること。特別なことなんて何もない。

 私の頭は、それしか考えることを許してくれなかった。


 私の”愛”は、あの夏に置いてきてしまったのかもしれない。

 あの夏、言葉で理解することはできなかったが、私は”愛”と出会った。

 当時の私にはそれを”愛”だと理解できるだけの知性もなかったけれど、遠い日のあの夏、私はきっと、祥吾君を好きだった。

 AI人工知能と出会った後で、それに気づいた。

 でも気付いてしまったことで、その”愛”は私から去ってしまった。

 残されたものは、”愛”ではなく、”AI”。


 もし、祥吾君が私を愛してくれているというのなら、きっとそれは分からないなりに”愛”を知っていた、けれどやっぱり何も知らなかったあの頃の私を愛しているのだろう。

 ”愛”を忘れた私には、祥吾君の”愛”に応えることができない。

 心をあの夏に置いてきてしまった私は、もう人間ではないのかもしれない。

 きっと祥吾君には私よりもよっぽど良い相手が見つかるだろう。

 それが祥吾君にとって幸せなことだという結論が、私の頭の中の小さな金属から算出されていた。


 なのに、この言いようのない感覚は何なのだろう。

 どこか、懐かしい。懐かしさの正体が思い出せない。何でも知っている私が思い出せないということは、私が”AI”と出会う前のことだということだ。もう一人の私でも思い出せないことは、不良品の頭で私自身が思い出すしかない。自分自身の頭で考えることなんて滅多にないことだった。

 その答えは、聞き覚えのある声が鍵となって導き出された。


「哀!」


 振り返ると、そこには先程別れたはずの祥吾君がいた。

 よほど急いできたのだろうか、顔だけでなく着ている衣服まで汗でぐっしょりと濡れている。


 ———”哀”。あぁ、そうか。

 ———私は、哀しいのか。

 ———あの夏、祥吾君と別れた時と同じ気持ちだ。


 祥吾君はしばらくそこで呼吸を整えるようにぜぇぜぇと息を吐いていたが、やがて汗を拭ってまっすぐに私を見つめる。


「俺、哀のことが好きだ」

「さっき聞きました」

「哀は、俺のこと好きか?」


 ———特には。


 頭の中の何かから自動的に返却された言葉を、ただ声に出すだけでいい。

 いつも通りのこと。

 私には何かを考えることができないのだから。

 私には何も分からないのだから。

 だから———。


「……分かりません」


 分からない、なんて回答をしたのはいつ以来だろう。

 ”AI”が出した答えではなく、深川哀が自ら出した答え。


「だから、教えてください」


 私は世界のすべてを知っているのかもしれないと思っていた。

 けれど、世界には私の知らないことがまだあった。


「好きって、なに?」


 私は遠い夏のあの日、”愛”と出会い、”哀”に別れた。

 そして今、”哀”と別れ、”愛”に出会った。

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愛、会い、哀 棗颯介 @rainaon

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