愛、会い、哀

棗颯介

第1話 彼の愛

 遠い日のあの夏。

 生まれて初めて、人を愛するということを知った。


 深川哀ふかがわあい。初めて好きになった女性。


 一応、幼馴染だ。

 一応と言ったのは、幼少期に彼女と過ごした時期はほんの一ヵ月ほどで、それから約10年間高校に入るまで彼女と再会することはなかったからだ。


 ▼▼▼


 俺達が5歳だった頃の夏、家が近所だったよしみで夏休み中に彼女が俺の家に泊まり込んでいた。その時詳しい話は聞いていなかったが、事情があって哀の両親は海外に行っていたらしい。

 最初に会った時の哀はあまり笑わない、言葉を発することすらほとんどない女の子だった。親同士の付き合いがあったとはいえ、他所の家族のところに突然預けられたのだから心細くなっても無理はないことだったろう。俺の両親もそれを気にして、「哀ちゃんと仲良くしてあげるんだよ」なんて無責任なことを言って夏休みで暇な俺に彼女のことを押し付けていた。

 同い年とはいえ、女の子との接し方なんて当時の自分はさっぱり分からなかった。

 まるで言葉が通じない外国人とどうにか意思疎通を図るかのように、俺は哀の好きなこと、興味があることを少しずつ聞き出していくことにする。


「おままごとは?」


 哀は首を振る。


「そとでおにごっことか?」


 哀は首を振る。


「いっしょにおかしたべる?」


 哀は首を振る。


 最初の3日間はこんな問答を毎日続けるうちにいつの間にか一日が終わっていた。

 4日目、もう彼女のやりたいことを聞いていては埒が明かないと判断した俺は、思い切って彼女を連れて外に出た。行き先も、何をするとも言わずに。いつもの自分がやっていることに彼女にもしてもらおうと思っただけの、ただの思考停止だった。

 一応、この時期には親から僅かばかりのお小遣いも貰えるようになっていた俺は、とりあえず彼女を連れて近所のコンビニに来た。理由は単純。暑かったから。普段自分が親にせがんでよく買ってもらっているものを彼女に御馳走した。今になって思うと人生で誰かに何かを奢ってあげたのはあれが初めてだった。


「はい、スイカバー」


 スイカバー。夏にしか売られないこの氷菓が、昔からの自分のお気に入りだった。

 哀は渡されたスイカバーを物珍しそうにいろんな角度から眺める。まるでそれが食べ物だということが分からないかのように。店先の古びたベンチの上で、二人で並んで座ってスイカバーを齧る。


「どう?おいしい?おれはこれだいすきなんだ」

「……おいしい?」


 なぜか質問を質問で返された。


「おいしいっていうのは、うーん、なにかをたべてしあわせだなっておもうこと、かな~?」

「しあわせって、なに?」

「しあわせっていうのは、う~ん……」


 子供の頃の俺には、まだ”美味しい”や”幸せ”という言葉の意味を人に説明できるような知恵はなかった。

 どうにか彼女の問いに答えようとひたすらベンチで頭を捻っていると、不意に冷たい感覚が全身を走る。


「あっ」


 気付いた時にはもう遅かった。

 考え事に夢中になるあまり、夏の日差しで照らされたスイカバーは滑り落ちるかのように木の棒から離れ、短パンを履いていた俺の太ももに不時着していた。


「つめたっ!」


 冷たさに思わず立ち上がると、当然滑り落ちた氷菓はアスファルトに自由落下する。


「あぁ、やっちゃった……」

「——ふふっ」


 そんな俺の姿を見て、隣に座っていた哀がクスクスと笑っていることに気付いた。

 哀が笑っているところを見たのはそれが初めてだった。

 彼女の笑顔をようやく見れたことが嬉しかったのか、それともかっこ悪いところを見せた気恥ずかしさからか、俺も顔が綻んでしまう。

 ともかくあの日、少しだけ俺と哀の距離は縮まった。


 それから少しずつ、俺と哀は言葉を交わすことが増えていった。

 哀は、おそらくだが発育が遅い子供のようだった。会話ができないわけではないが、当時の自分が日常的に口にしているようなありきたりな言葉の意味を、哀は知らないことが多かった。

「嬉しい」「悲しい」「怒る」「幸せ」「つらい」。

 そんな人の感情を表す言葉は特にそうだった。


 一番最初に見た彼女の笑顔が忘れられなかった。

 また、彼女に笑ってもらいたいと思った。

 だから、俺は哀にいろんな話をしてあげて、いろんなところへ遊びに行った。

 哀は普段の俺が当たり前に思っていること、見ているものを不思議そうに質問し、時々笑う。その笑顔を見るたびに、俺はもっと彼女を笑わせたいと思う。哀を連れて山に虫取りに行ったり、親に頼み込んで一緒に海に行ったり、花火をしたり、いろんな夏を過ごした。


 そして、夏に終わりがやってくる。

 その年の8月31日。哀は両親に連れられ、アメリカに引っ越した。

 元々哀の両親が家を空けていたのは海外に引っ越す準備のためだったということは後になって聞いた。

 別れの日、俺は両親に連れていかれる哀の背中に叫んだ。


「すきだよ!あい!」


 哀は振り返ると、いつも通りの不思議そうな顔で返す。


「すきって、なに?」


「好き」という言葉の意味をこの夏彼女に教えなかったことを、俺はその後10年間悔やみ続けることになる。


 ▲▲▲


 高校に入って彼女と再会したとき、彼女はもう俺が知っているあの頃の哀ではなかった。

 

 彼女は、あの頃とはまるで別人のように多くのことを知っていた。


 学校の授業は何を聞かれても必ず正解を答えたし、人に何かを説明するときは下手な教師よりもずっと説明が専門的で逆に分かりづらいくらいだ。とにかくいろんなことを彼女は知っていた。円周率を空で延々言うことから歴代の日本の総理大臣、世界の株価の状況にマニアしか分からないようなコアな話まで。

 唯一変わらないのは適度に伸ばした艶やかな黒髪と、少し子供の面影が残る無表情な顔だけだ。

 そして高校で再会してから、俺は大好きだった彼女の笑顔を一度も見ていない。


「よっ、哀」


 昼休み。教室で無言で教科書とノートを机に仕舞う彼女に声をかける。


「どうしましたか祥吾しょうご君」


 いつも通りの、あの頃と変わらない無表情な目で哀はこちらを見る。邪険にされているわけではないが特別歓迎しているわけでもない、幼馴染の俺のことを本当になんとも思っていないという顔だ。


 ———一応、小さかった頃とはいえ告白してる相手なんだけどな。


 何でも知っている今の哀なら、あの時の俺の言葉の意味だってとっくに知っているはずだ。

 それとも小さかった頃のほんの1ヵ月だけの思い出だから、もう彼女の中からはとっくに忘れ去られているのだろうか。


「一緒にお昼食べないか?部室で」

「いいですよ」


 即座に肯定を返す哀の言葉はやはり無機質で、その表情は機械のように揺れることはない。

 どうすれば、彼女はあの頃のように笑ってくれるのだろう。


「さっきの数学の授業どうだった?」

「特には」

「最近興味があることは?」

「特には」

「今日学校終わってからの予定は?」

「特には」


 今日もいつも通り、俺が一方的に話しかけるばかりで会話が成立しないランチだ。

 そんな傍から見れば虚無のようなこの時間が、俺は嫌いじゃなかった。哀と出会ったばかりのあの頃を思い出すから。それに、好きな女の子と一緒に食べる食事はいつどこででも楽しいものだろう。さすがに犬の餌とかは食べたりはできないが。


「哀さ、夏休みはどうするんだ?」

「特には」

「今年の俺達の夏休みってお盆の一週間だけだろ?受験生の夏休みってなんでこんなに短いんだろうな~」

「仕方ありません」

「哀は進路とかどうするんだ?」

「いくつかの大学に候補を絞ってはいます」

「進学するんだ」

「はい」

「俺はどうすっかなぁ」


 一応進学校に通っているが、自分の将来がまるで見えない。

 自分の将来よりも気になるものが目の前にいたからだ。

 黙々と自分の弁当を口に運ぶ哀をぼーっと眺めていると、視線に気づいた哀がふと顔を上げる。


「どうかしましたか?」

「いや、そのお弁当美味しいのかなぁと思って」

「美味しいですよ」

「そっか、美味しいか」

「それが何か?」

「いや、ならいいんだ」


 今の哀は、「美味しい」という言葉の意味を既に知っている。そのことが感慨深かった。

 哀とこの高校で再会してから、幼少期のあの夏のことは一度も触れていない。

 久しぶりだね。元気だった?

 その程度の言葉を交わしただけ。

 俺が彼女に声をかけるよりも前に、異様なほど完璧で何でも知っている彼女の噂は俺の耳にも届いていた。何も知らなかった思い出の中の哀と、何でも知っている目の前の哀。あまりにも違いすぎて、不思議と彼女に当時のことを尋ねてはいけないような気がした。言ってしまえば、彼女の決定的な何かを自分が壊してしまうような、そんな言いようのない漠然とした恐れがあった。


「なぁ、哀」

「なんですか?」

「夏休みさ、二人でどこか遊びに行かないか?」


 もしかしたら、哀と過ごせる夏は今年が最後になるかもしれない。

 優秀な哀のことだ。きっと卒業後は自分なんかじゃ到底行けないような”高み”に上っていくんだろう。

 その前にせめて、あの夏と同じような楽しい思い出を作っておきたかった。


 彼女にもう一度俺の想いを伝えないと、きっと俺はこの先どこにも行けない。


「……いいですよ」


 いつもは何でも即答する哀が、少しだけ思案した後にそう答えた。

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