第1章8節


 僕は今、747のエコノミー・クラスの座席で太平洋を渡っている。機内での睡眠の後に摂る、美味いとも不味いとも言えない飛行機然としたデルタ航空の機内食は、僕への非日常の演出としては完璧だったが、機内は退屈で、僕は機内ラジオを洋楽ばかり流れる「七〇〜八〇年代音楽」に合わせ、退屈さを紛らわさせていた。

 一〇時間超の退屈な飛行が終わりかけていることを曇った窓から見える大陸が教えてくれたが、それは乾ききった緑に覆われていて、日本の森のような瑞々しさなどどこにも無かった。機内ラジオに割り込んで入る指示に従いシートベルトをつけベルトをきつく締めると、フラップが最大まで下がり、機体は小刻みに横揺れを始める。それが僕にはまるでこの巨大な飛行機がスキャットマン・ジョンの曲に合わせて、軽快にダンス・ステップを踏んでいるように感じられた。僕の落ち込んだ気分にはどうも合わなかった。

 キャビン・アテンダントが着陸の挨拶を終え、点けっぱなしの機内ラジオはクイーンの Under Pressure を選んだ。数年ぶりに聴いた曲だった。孤独なベースで始まるこの曲は僕までをも憂鬱な気分にさせ、彼女との日々、そして彼女が僕から遠くへ行ってしまった日のことを思い起こさせた。







 あれから三年が経った。三年という期間は、見放された人間が現実を思い知るには十分な時間だ。


 僕達の関係は、少なくとも僕から見れば、とても良好だった。クリスマス・イヴにはノルウェイの森読書会なんてものを二人で開いて夜通しで読み通したし、御来光を見に深夜から家を出て高尾山まで行った。彼女が受験で忙しくなってからも、彼女は僕と付き合い続けてくれたし、勿論勉強第一だったが僕達は少なくとも一週間に一度、火曜日には一緒に会っていた。彼女の両親は平日に仕事に出ていたので、彼女の家にお邪魔して勉強会なんてものを開き、夕食を一緒に食べて帰ることが多くあった。僕は一週間に一度のそれが楽しみで仕方がなかった。まるで僕まで受験生になった気分で勉強したから成績は上がったし、いつも彼女の方から家に誘ってくれた。そして彼女は無事、第一志望の大学の法学部に進学することになった。彼女も僕も受験の成功を喜んだが、彼女は僕に、卒業式のその日まで、志望する大学を教えてくれなかった。




 僕は彼女達の学年の卒業式が終わった時、彼女に、九州の大学へ進むことを告げられた。そして、僕には九州に来ないで欲しいと言った。僕は動揺して、彼女に九州へ行く理由を聞いてしまった。理由を聞いてしまったことを僕は今でも激しく後悔している。彼女は全て分かっていたかのようにうん、と頷き、すこし黙ってから、


「私は君から離れたい。だから九州の大学を選んだんだ。悪い意味じゃないよ。私達のことはあくまで一つの経験だったんだ。言ったよね、一年半の間だけ付き合う、って。これからは二人で別々の道を歩む事になるけど、私達のことは心の中に永遠に残るよ」


と、そう言って、彼女は僕から離れていった。







 僕は翌年、九州の大学へは行かなかった。そのかわり、東京のそれなりに名の知れた大学の文学部に入り、英文学を学ぶことにした。僕は川崎の実家から赤羽のアパートに移って一人で暮らし、オープンキャンパスで知り合った同じ高校の後輩と一年半付き合って、別れた。そして在学中の二年間の間にアルバイトで貯めた金で、大学を休学するのと共にアメリカへ留学することにした。後輩と付き合った理由はよく覚えていない。だが、別れた理由ははっきりと覚えている。僕が飛鳥を忘れられなかったからだ。彼女が一年半という長い時間の中でそれに気付いて、別れを切り出した。僕はそれに、ただ頷いた。それだけだった。


 僕は大学に入ってからも、飛鳥が最後に僕に言った言葉のことを考え続けた。彼女の言葉の通り、僕は彼女に囚われ続けていた。それはいつでも陰鬱で、僕の足を引っ張り続けた。彼女は、僕が後輩の女の子に対して持った感情の様に、僕を誰かに重ね合わせていたのかもしれない。誰かは分からないが、僕はこの三年間で、そういう結論を出した。僕の心の中に彼女のことが永遠に残り続けるならば、彼女の心の中にもその誰かのことは永遠に残り続けているのかもしれない。

 僕は、ここまで考えを進めると、まるで熱湯の中の気泡のように唐突に彼女への怒りの感情を持った。僕は彼女に騙されていたんだ、彼女が悪いんだ、と一通り怒ったあとで、その感情がただの八つ当たりであると分かって、今度は自分を責めた。それも収まると、僕には何の感情も残らかなかった。僕は混乱していた。




 僕は今、何の感情もないままアメリカに来た。




 菊の紋章の権威は強く、理由を告げると、入国審査はあっさりと終わった。ヒスパニック系でガタイの良い入国審査官が、その見た目からは結びつかない微笑みをしてサムズアップをすると、僕もサムズアップをした。それから僕はベルトコンベアから荷物を拾い、ロビーへ向かった。僕が滞在する大学の日本人サークルから、迎えが来ているからだった。彼らを見つけられるか少し心配だったが、日本人が、二人ともジーンズを履き、紫地に"W"と黄色で描かれた、センスがあるとはとても言えないパーカーを着ているのを見て、僕はすぐに彼らだと分かった。僕がはじめまして、と声をかけると、高身長で精悍な若い男子大学生が"Welcome to Seattle!"と、笑顔で答えて、僕に大きな手で握手してくれた。もう一人の、長い髪を高く纏めた、同い年くらいの女子大生が微笑んで、ようこそ、と彼の挨拶を翻訳してくれた。一年間の留学生活が、始まりを告げた。






一章 完

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