いつか見た夢? ~黄金の指~



 ふらっとラーメン屋に寄ってみた。

 まぶしすぎるネオンと人の笑い声から、逃げたかったのかもしれない。










 天井の角に備えつけられたテレビにサバンナのドキュメンタリー映像が流れている。

 嶋あやめはずるずる麺をすすって、ちらと画面を見上げる。

 年老いて皮膚がだるだるになったライオンが、他の若い、俊敏で小さな肉食獣たちに喰われている。それまで生きていたものが、細いピンク色の肉になって引きちぎられていく。やけに落ち着いた解説の声が冷静に弱肉強食の摂理について語っている。

 ラーメン屋の店主は気にした風もなく、鼻歌まじりにスープをかき混ぜている。チャンネルを変えるでもなく、客たちがじいっとハイエナの晩餐を見物するままにしている。

 誰も文句は言わないが、かといって心地よいわけもない。ため息まじりの気だるい雰囲気が紫煙のように漂っていた。

 老ライオンが一声、ガオウ、と鳴いた。

 ああ、まだ生きていたんだ。

 早く楽になっちゃえばいいのに。

 ドン、とカウンターにシマは空になったどんぶりを置いた。

「ごちそうさま」

「あいよ」

 タコ頭の店主は豆電球の光を反射しながら、にかっと笑った。

 そしてそれだけで終わらせればいいのに、背を向けたシマの引き金を引いてしまった。

「姉さんも獲物が取れなくなる前に彼氏見つけなよう」

 ぴたり、と戸に手をかけたシマの動きが停止する。それに気づかず店長は上機嫌で調子よく喋り続ける。今日は売り上げがいいし看板したら昔の女と会う予定があるので鼻歌も出るというものだが、そんなものはシマには関係ないのは言うまでもない。

「毎晩ごひいきしてもらってるからあんまり言いたかないがね、女ならこの時間は旦那と子どものためにメシを作ってるのが普通ってもんでさ。俺も若い頃は女房に迷惑かけたが、そうはいっても女ってのは耐えて忍んで辛抱して幸せになっていくもんなん、」

 おもむろにシマの手がどんぶりに素早く伸びた。ひゅん、と風切音を鳴らせて、衆人環視の中、どんぶりを店主の頭に目にも止まらぬ速さで叩きつけた。

「あう」

「ごちそうさま、って言ったの」

 ぐらり、と店主がよろめき、どうっと倒れむ。

 シマは割れたどんぶりの欠片を、隣で餃子を食っていた高校生に押しつける。

「あとよろしく。じゃあねえ」

 そう言い残して、何事もなかったかのように颯爽と店から出て行ってしまった。

 あとには血だるまになった店主と、いまのはさすがに店主が悪いなあと目線を交し合う客たちだけが残された。

 春の芽吹きも近い、冬の暮れのことである。

 この街では、よくあることだ。




 繁華街に出ると、シマはスラックスのポケットに手を突っ込んだ。その格好はいつもと同じワインレッドのシャツに白スーツ。毎週クリーニングされている一張羅はシミひとつシワひとつない。

 嶋あやめと言えば、もう何年も前からこの街の顔役だ。その知名度はもはや生ける伝説ともいえる。

 不良の道に入ったばかりの少年少女はシマに必ず挨拶に来るし、地元の極道衆からは年賀状とお歳暮が欠かさず届く。

 いわく、切れる女、男顔負けの腕っ節、そして輝くような美貌の持ち主。

 もう何年も前から――シマはそう言われてきたのだ。

 伝説になってしまうほど。

 頬に触れる。

 肌が乾いているのは冬の空気のせいだろうか。指の腹がなでる、この小さな溝は、クリームでも塗っておけば治ってくれるアカギレだろうか。

 日々動かなくなっていく身体、枯れた声はどんどん低くしわがれていく。

 誰かに言っても、笑ってそんなことはないと言ってくれるだろう。いまだって、どんなに若くてもカエルかウシみたいな女とは比べものにならない美しさをシマは保っている。

 それでも、今年で三十八なのだ。

 子もなさず、身体を合わせた男は数多くいるが結婚はしていない。

 寿命の短い遊び人家業としては長老の域に入りつつさえある。もう、かつての強敵たちは息絶えたか、社会のなかに溶け込んで消息を聞かなくなったものも多い。

 思い出はたくさんある。だが、明日を思わせるものは何も残っていない。

 繁華街をシマはぶらぶらと目的もなく歩いていく。もう二十年近く住んでいるマンションの部屋に帰る気にもなれない。かといって、いまさらフリー雀荘で会社帰りのサラリーマンたちに混じって徹夜、という気分でもない。

 恥さらしもいいところじゃないか、四十路近くの女がひとり寂しくフリーに顔を出すなんて。

 やっぱり帰ろう。

 そう思ってからようやく、自分が歩いていた方向が自宅から真逆だったことに気づく。そんなに家に帰りたくないのか、家出少女でもあるまいに。

 思わずくすりと笑う、その横顔にはかつての可憐さの残滓が薫っている。

 そのときだった。ぷるるるる、とポケットの中で携帯電話が鳴ったのは。

 画面を見ると、マスターからだった。

「はい、もしもし」

『おう、シマ。俺だけど』

 マスターの声は若い頃から少しも変わらない。ちょっと高くて、でもいい声。

『いまちょっといいか?』

 そして、いつもマスターの電話は不吉を運んでくる。

 シマのひび割れた唇に、うっすらと笑みが広がった。

「いいよ。どうせ仕事でしょ? いまそっちにいくから」

『頼む』

 通話を終える。行き先を変える。

 さあ、不幸の配達を始めよう。




 水族館バー『魔少年』といえば雑誌でも紹介されたことがある有名なバーだ。

 中に入ると、夜明けを思わせる薄暗い照明とひげもじゃのマスターが客を出迎える。その向こうは一面の水槽になっており、バーの客たちは酒を楽しみながら大きいものや小さいもの、色とりどりの魚たちが泳ぐ姿を見物できる。

 落ち着いた雰囲気とあいまって、奥手な若者たちには好まれそうだが、不思議と寄りつかない。店には中年以上の甘いも酸いも知り尽くした紳士淑女の姿のみ。

 それは『魔少年』が高級バーであるほかに、闇カジノの顔も持っているからだ。

 うっかり賭場を開いている時分に足を踏み込んでしまうとあれよあれよという間にルーレットの回転とトランプのシャッフルに有り金を巻き上げられてしまうのだ。とても背伸びした大学生などが訪れていい場所ではない。

 ここは、闇の貴族の社交場なのだ。

 けれど、いまそこに相応しくないものがいる。三番テーブル、ボックス席に座った人影がそうだ。

 カウンターの向こうから、マスターは憎々しげにその人影を睨みつけている。

 無理もない、なにせそいつは高級カーペットを身体に巻きつけた以外はなにも着ていないのだ。ガウンのように巻かれたカーペットの端からは細いふとももが覗いている。もちろん靴なんて履いていない。汚れた手足がぺたぺたと店内の装飾に触れるたびにマスターの脳内血管が大いに膨らむ。

 年頃は十代前半。性別は、おそらく女。その判断材料は、髪が背中に届くほどの長さであることのみ。

 顔は中性的といえばいいのか、どうにも奇妙だった。

 少女と見ようとすれば凛々しい少年に見え、そうかと思えば可憐で儚い少女にも見え……印象が万華鏡のようにクルクルと変わっていく。精巧な騙し絵のよう。

 それはまるで人を堕落させるために生まれてきたような、欲情をそそる魔的な美しさをまとっていた。

 ずっと見ていると、仮にそいつが少女だろうと少年だろうと、後先考えずに襲いかかってしまいたくなる。なにもかもぶち壊してしまいたくなる儚さと脆さ……。

 マスターはグラスをキュッキュと磨きながら目を何度か瞬いた。

 いけない。また見惚れてしまっていた。一城の主が敵に心を奪われてどうするというのだ。

 少女が、彼の妻に似ているというのも、マスターが動揺している一因だったのかもしれない。妻と同じ豊かで流れるような長髪のせいだろうか、それとも……。

 店内は閑散としている。マスターが雇った古馴染みのディーラーたちが控えているだけで客の姿は一人もいない。奥にあるピアノで、少年がベートーベンの『月光』を弾いているのが物悲しい。

 つい三日前まで、この闇カジノは盛況だった。労働者からピンハネした金を湯水のように使う社長連中と、それをくすぐるようなついばみ方で喰っていくギャンブラーたち。

 高レートカジノでは見られないような平和で健全な雰囲気をかもし出していた『魔少年』の平和は、一人の浮浪者によって打ち壊された。

 きっと今晩も夢に見る、とマスターは思う。

 そう、あれはまさに悪夢のような遊戯だった。





 カーペットを巻きつけただけの少女を客たちは最初おもしろがってからかい、やいやいと小突き回した。それに飽きると、その一張羅を賭けて勝負しろと言い出すものが出てきた。

 いいぞいいぞと貴族たちは囃し立てた。いつの時代も貴族というのは退屈に苛まれている階層のことを指すのだ。

 少女は俯いたまま、頷いた。どんな顔をしていたのかマスターのいるカウンター内側からは見えなかった。

 まず、おもちゃ会社の社長がやられた。

 えッと思ったときには、社長の手元にはチップが一枚もなくなっていた。ついていないことに、払いに手持ちの金がわずかに不足してしまったものだから、腕時計とかぶっていたカツラを少女に徴収され、顔を真っ赤にして逃げ帰った。

 おそらくあの社長はもう二度とこのバーを止まり木には選ばないだろう。マスターは残念に思う。本当にいい客だったのだ。

 それが他の客たちに火をつけた。なにせその少女を倒せば、禿の社長が残していったチップがごっそり手に入ることになる。金は余っていても有限ではないことを知っている者は、社長のようになかなか簡単には負けない。

 男たちは秩序と運勢に支配された喧嘩を少女に売った。

 誰一人として無事では済まなかった。

 最後の客が扉から出て行き、寂しく呼び鈴が鳴ったときにはもう、少女はソファに寝転がって水槽の中をひらめく魚影を眺め始めていた。

 マスターはよっぽど追い出そうかと思ったが、帰った客の中には「あのガキを逃がすなよマスター。すぐに金をかき集めて反撃してやるッ!」と嘘か真か啖呵を切って出て行ったものもあるので、どうにも手が出しかねる。

 二日目、噂を聞きつけた名うてのギャンブラーたちがこの街のマンション雀荘や地下カジノから百鬼夜行のように這い出してきたが、これも瞬く間に壊滅。

 いま、少女のボックス席の下は、札束の海になっていた。

 小汚い浮浪者の身なりをした名無しの美少女は、生足を金の海に突っ込んではかき混ぜている。べつに楽しそうでもない。ただ紙がこすれる音が心地いい。その程度のことらしかった。

 少女は常に無表情だ。それがマスターには恐ろしい。

 勝負の際、時には少女が劣勢になることもあった。しかし、どれほど敵が煽ってこようと、侮蔑や罵倒を浴びせられても、少女の顔は時が止まったようにニコリともしなかった。まるで死体だった。何か恐ろしい悪霊が見えない糸を駆使して少女の遺体を操っているのではなかろうか――無神論者のマスターでさえそんな妄想に駆られてしまうほどに、

 少女は勝った。

 強かった。

 だから呼び出されたのだ、あの死神が。

 扉が開いた音はしなかった。備えつけのベルが鳴った音もしなかった。

 それでも嶋あやめは、いつの間にか壁にもたれかかって、水槽の青い光の中にいる少女を睨んで立っていたのだった。




 ハッと気づいたマスターが危うく磨いていたグラスを落としそうになる。それを見てシマはくすりと笑った。

「お待たせ」

「おお、シマ……! 悪かったなあ、突然呼び出して。でも噂は聞いてるだろ?」

 聞いていた。

 実を言うと、シマは名無しの少女が現れた次の晩、つまり昨晩だが、勝負師たちの百鬼夜行に誘われていたのだ。けれど、加わらなかった。なぜかは昨日の自分にしかわからない、と今日のシマは思う。

「あはは、青ざめてるよマスター。災難だったね」

「ああそうなんだ……って、マスターはやめろったら。俺とおまえの仲じゃないか」

 ひげもじゃのマスターの笑顔が、ちくりとシマの胸に刺さる。その心の底から邪気のない笑い方が、シマに考えなくてもいいことを思い出させる。

「ふんだ、あたしを振った馬鹿なんて、マスターで十分だよ」

「おいおい、何年前の話だよ? 大人気ないぞ、もう忘れてくれたっていいだろう」

 マスターはシマが冗談を言っていると思っている。だから、シマもそう思おうとしている。

 マスターには子どもがいない。子どもの頃に受けた局部への虐待行為が原因で精子を作れなくなったのだ。

 それはシマにとっては幸運だった。神に感謝さえした。

 だって、とシマは心の中だけで呟く。誰にも打ち明けたことのない本心を。

 この人とあの子の子どもが育っていくのを間近で見ていたら、自分はきっと、壊れていただろう。

 子どもと手を繋いで歩く二人の後ろ姿でも見かけていたら、なにをしでかしていたかわからない。

 本当によかったとシマは思う。

 大切な人を傷つけずに、ここまでくることができて……。

 シマは胸ポケットから煙草を取り出して口にくわえる。さっと無駄のない動きでマスターがライターをかざした。

「ん」

 シマは火をもらって、美味そうに煙を吐いた。指で挟んだ煙草の端を、前方へ向かってしゃくりあげる。

「で、あれがそうなの」

「ああ。見てくれは裏ポルのガキみたいな感じだが、なんでか負けない。俺の予想ではただのバカヅキなんだが……」

「大の男どもが二晩かかってボロ負けして、それがバカヅキ? マスター……やっぱりあんたはギャンブルやめて正解だったね。向いてないよ」

 にやにやと煽るシマにマスターは顔を赤くしてそっぽを向いた。

「うるせえ。だからこうやってテラ銭取りになったんだよ」

「奥さんはまだ反対してるんでしょ? 普通にどっか就職でもすればいいのに」

「できたらしてるっての……そうだ、あれ、準備できてるぞ」

 意味ありげな視線が二人の間を飛び交った。

 シマはひとつ頷くと、例の少女に近づいていった。

 シマが近寄っていくにつれて、少女の動きがぴたりと止まり、冷たい眼球が照準カーソルのようにシマを捉えた。

「ハーイ、未成年ちゃん。ずいぶん派手にやってくれたみたいじゃん?」

 少女は答えない。カーペットを強く体に巻きつけなおし、シマを見返す。

「悪いんだけどさあ、ここのひげもじゃがあんたに迷惑してるんだって。あたしも暇じゃないしさ、ここはお互いオトナになって話し合いたいと思うんだけど?」

「話し合い?」

 ぷっと少女が吹き出したので、シマはカチンときた。

 だが、そのうしろでは、いままで何をされても氷のように停止していた少女の表情が溶けたことにマスターが目玉を飛び出させて驚愕していた。

「そんなの意味ない」

「へえ、どうして?」

「わたしは誰も許さないし、誰もわたしを許さないから」

 少女は淡々と言った。

 シマは煙草をくわえたまま、うんうんと頷く。

「なあんだ、わかってるんじゃん。そうだよ。あんたはこの町を怒らせた。あたしが出てきたってのがその証拠。あたしはあんたの前に親切にもやってきた、死刑執行人ってわけ」

「罪状は?」

「自分の足元を見てみな」

 少女はざばあ、と紙幣の飛沫を足で起こした。そして、何かを冒涜するような顔つきをした。

 それは、必死に冬を越すためのエサを運んでいる蟻の目の前で、巣に水を流し込む時のような。

 繁殖期のオスのカエルの前にメスのカエルをチラつかせて、その肛門に火のついた爆竹を差し込んだときのような。

 悪意に満ちた恐ろしい顔だった。

「誰の足元にだって死骸は散らばっているっていうのに」

「罪は誰にもでもあるってわけね。気持ちはわからなくもないよ。でも残念……大切なのは有罪か無罪かじゃないの。それを裁くか、裁かないか。あたしはあんたを裁くよ。あたしのやり方でね」

「裁く?」

 少女はシマの言葉ひとつひとつがおかしくて仕方がないらしい。くすくすと笑い、目元を緩ませ、楽しげでさえあった。

 シマは少女の額と自分の額を合わせた。

「なにがおかしい?」

 少女は答えない。ただ、笑みはもう消えていた。

「お金を賭けた勝負なんてもううんざり。欲しいなら好きなだけ持っていけばいい」

 ほら、と少女はシマにむかって札束の水飛沫を浴びせかける。シマはその中の一枚を捕まえると、躊躇なくライターで火を灯した。

 そしてマスターに向かって燃える一万円札を放り投げ(マスターは慌てて火を踏み消した)、おもむろに少女のカーペットに覆われた胸元、まだ発育し始めたばかりの丘陵に手を突っ込んだ。

「っ……」

 シマの細い指が少女の胸をまさぐる。少女は無表情にシマを見返しているが、不快というよりは意図がわからずに困惑しているようだった。

 しばらく少女を人形のように弄んだシマは、入れたときと同じようにさっと手を引いた。

「うん、結構結構。なかなかのお手前で」

「は?」

「いいもん持ってんじゃん。最近はピンク産業もレベルが高くなってさ、女だって理由だけじゃブスはお引取り願うことも多いんだ。でもあんたなら大丈夫。売れっ子になれるよ。ただし歳が法律にひっかかってるから、まあ、闇通販ってことになるかなあ」

 シマの言いたいことを理解したのだろう、少女は呆れたとばかりに勢いよく背もたれにもたれかかった。

「なんだ、負けたら見世物になれってこと。そんなこと……」

「でも、処女なんでしょ?」

 少女はぴたりと黙り込んだ。

 シマはビシッと少女の額をデコピンする。

「ナメんなよオコサマ。あんたの初めて、最低最悪なやつを斡旋してやる」

「負けたら、ね」

「いつまでその虚勢が続くかな? 賭けてもいいよ、五分と持たない。あたしとの勝負ではね」

「あなたが負けたら、どうするの?」

 今度はシマが黙り込む番だった。燃えるようにギラついた眼が怒りを宿している。その眼が少女をじっくりとなめまわし、他意から出た発言ではないことを確信するにいたって、ようやく怒気が収まった。わずかだが。

「好きにしなよ。金を賭けてない以上、モノではないモノを失うことになるんだろうけど。腕とか足とか?」

「ううん。もっといいモノをもらう」

「は、なにそれ。楽しみにしててあげるよ」

「そうして」

 突然、ピアノの音が止んだ。

 シマと少女、そしてマスターがピアノの方を向くと、それまで『月光』を弾いていた美しい少年がこちらへやってくるところだった。にこにこした笑顔は、悲しみや切なさとは遠い場所からやってきたとばかりに輝いている。

「お話は承りました」

「鶴桐、あんたいたの」とシマは目を丸くしている。

 少女は事情が掴めていないらしく、シマと少年の顔を見比べている。

「ええ。マスターに呼ばれまして。この勝負、GGS-NETが仕切らせてもらいます」

 少女が小首を傾げる。

「GGS-NET?」

「おや、ご存知ありませんか、名もないお嬢さん。イカサマ防止や、賭けた金銭やモノの取立てを請け負う黒子でございます。お役立ちこそすれども、ご迷惑は一切かけませんのでご安心ください。もっともイカサマは私が気づかなければ防げませんが」

「へえ……」

「ジャッジも来たし、じゃあ隣の部屋にいこう。実はね、ここに来るまでになんのゲームをやるか決めてきたんだ」

 すたすたと歩いていくシマに一同はついていった。少女は名残惜しそうに水槽を見ていたが、それは杞憂に終わった。

 シマが案内した別室は、三方が水槽になった特別な観覧室だった。バーのあった店内のものよりも、大型の魚が泳ぎまわっている。

 シマは勝手知ったる他人の店、迷いのない足取りで中央に備えられた麻雀卓に寄りかかった。

「麻雀はできるよね?」

 水槽に見とれる少女の代わりに、マスターが勢い込んで答えた。

「できるなんてもんじゃない、あそこに散らばってた金はほとんどこの部屋で吸い上げられたもんなんだぜ!」

「なんであんたが得意気なのよ」

「べ、べつにそんなんじゃねえけど……気をつけろってことだよ!」

 一応、少女も店内にいるのだから客であるのだが、マスターはそんなことお構いなしにシマに肩入れしている。それがシマにはくすぐったい。

「ありがと。じゃ、ルール説明に入ろうかな。鶴桐もこれは見るの初めてだろうから、よく聞いといてね」




「この麻雀では――」

 麻雀卓からピンズとソーズの牌が抜き去られ、マンズのみ九種三十六枚が裏向きに散らばっていた。

 シマはそれを適当にジャラジャラとかき混ぜながら、三人に向かって喋っている。

「手牌はたったの一枚しか使わないの。まずプレイヤーは――麻雀でプレイヤーって言うとなんかヘンな気分だね――この裏向きの三十六枚の中から一枚をツモって、見ないで自分の前に伏せる。で、サイコロを振って決めた親から一枚ツモって、ツモ切りか、待ちの入れ替えをする。これを交互にアガるまでやる。それだけ。簡単でしょ? ちゃんと盲牌できれば勝てるもの」

 話を聞いているのかいないのか、少女は水槽に張りついている。シマがちょっと、と注意しようとすると、

「なんで普通に麻雀しないの」

「おまえがみんな丸裸にして叩き出したからだろうが!!」

 ピシャリとマスターの鋭い突っ込みが入った。

 少女は聞こえなかったとばかりに無視している。

「そういうわけ。それにね、あたしはこの道に入ってから長いけど、この単騎麻雀は運と技と心、すべてを使うの。盲牌なんていつもやっていることが、恐怖によってできなくなる。つまらないミスを繋げて、びっくりするような大敗に繋がっていく。面白いよ、人が壊れていく道筋は」

 シマは両手で顎を支えた。その視線の先で、少女は相変わらず水槽に夢中になっている。

「嫌ならいいよ。べつの種目でもいい。ただ、何をやっても勝つのはあたし。あたしの麻雀は、たとえ単騎だろうとフリテンだろうと、絶対に負けない。百回やって百回勝つ麻雀だから」

 そしてね、とシマは続ける。

「あんたもそう思ってるってわかるから、やろうって言ってるの。麻雀は、お互いそう信じてないとつまんないからね」

 水槽の中で、マンタがさよならするように少女にヒレを振っている。少女はそれに手で挨拶し返し、振り向いた。

 氷のような微笑を浮かべて、

「そう思うよ、わたしも」

 控えていた鶴桐がすいっと一歩踏み出した。

「合意と見てよろしいですね? それではこの勝負、公正なる天秤、そして愚者を罰する刃として勤めさせていただきます、わたくし鶴桐条一と申します。お二方のうちどちらかの方とは今宵限りのお付き合いと相成るでしょうが、どうかよしなに」

 二人が対面同士に卓に座った。

「それでは、マスター、この『魔少年』では大勝負の前に高級酒を飲み交わす決めがあったと存じ上げますが」

 お、とひげもじゃマスターはなくしたものを見つけたような顔をした。

「嬉しいねえ、覚えててくれてるとは。よし、ほら二人とも。俺が研究に研究を重ねて作った特製カクテルだ。飲め。……なんだクソガキその顔は、毒が入ってるか不安で飲めないってか? 鶴桐、おまえちょっと毒見してやれ」

「わかりました。では失礼……ううん、このフルーティな味わい、女性に勧める酒としてはこれ以上のものはないでしょう。たぶん」

「わかってくれるか! そうなんだよ、嫁さんを実験台にして俺はナマの意見を」

 誰も聞いちゃいない苦労話をおっ始めたマスターをよそに、鶴桐は少女の薄汚れた唇に杯を寄せる。

「飲んでごらんなさい。おいしいですよ」

 最初は抵抗していた少女も、諦めずに勧める鶴桐にとうとう観念して杯に口をつけた。

 しばらく口をもごもごさせて味を確かめているようだったが、一向に感想を口にしない。ぶすっとしている。

 鶴桐は不安になった。

「お口に合いませんでしたか?」

「ぬるい」

 ぷッと鶴桐は噴出した。

 不思議そうに見上げてくる少女に、なんでもないと手袋に包まれた手を振ってみせる。

 確信する。

 どうやら、今宵は退屈しないで済みそうだ。



 アガリ点は、アガった牌の数字がそのままポイントとなる。つまり一萬をツモった場合そのまま一点。九萬なら九点。赤五萬の含んだ五萬アガリは十五点。チョンボは十点払い。ロンアガリには三点のボーナスがつく。フリテンあり。

 チップ百枚持ちで、先に相手のチップを零にした方の勝ち。奪ったチップは、鶴桐に渡してゲームから除外される。これでアガリの応酬が永遠に続くということはなくなった。

 抜き身の麻雀というやつだ。

 ナインと麻雀を組み合わせたようなこのゲーム、牌のかき混ぜは鶴桐が行うので洗牌時に牌を覚えるなどはできない。

 サイコロを振る。

 少女が二四の六、シマが一一の二。

 少女の親だ。といっても、先にツモれるだけで親と子で点数に差はない。

 もっともこのゲーム先にツモれる方が圧倒的に優位である。なにせ三十四枚中、自分のアガリ牌は三枚も残っているし、王牌などないから最後までツモれる。先手必勝とはいわないが、アドバンテージは大きい。ちなみに親はアガると続く。

 少女は三十四枚に目を凝らす。牌は合成樹脂製でとても模様でガン牌できるようなシロモノではない。

 とはいえ、ついつい視線が牌の背中を焼ききるように射抜いてしまうのは麻雀打ちのサガ。それはこの少女とて例外ではない。が、わからないのだから深く考えてもやっぱり仕方ない。ひょいと一枚、ツモってみた。盲牌してみる。

「お嬢さん、先ほども申し上げましたが盲牌のなぞりは二回までですのでご留意を」

 鶴桐は丁寧にも注意を促してくれる。この麻雀、盲牌失敗によるチョンボやアガリそこないが醍醐味となってくるので、いつまでも盲牌することは禁止されている。罰則はチョンボと同じく十点払い。

 少女の待ちは一萬だった。マンズの中でももっとも簡単な牌だ。間違えようがない。

 シマもひょいっと牌をひいて、自分の前に伏せている。上から俯瞰すれば、相対する二人とその命運を握る牌は王、卓の真ん中で合戦のごとく散らばっている牌は兵士のように見えないこともない。

 乱戦だ。この麻雀は乱戦になる。

 まず少女からのツモ。カーペットをもぞもぞさせて、手を伸ばした少女の第一ツモ牌は五萬。赤かどうかは捨てるかアガるかしないとわからない。

 もし、いまシマの待ちが五萬だった場合、ここで打てば放銃となる。赤入りだとロンあがりと合わせて最高打点の十八点。実際の麻雀でいえば役満クラスといったところか。初っ端からそれは痛い。

「考えてる考えてる」

 後者の気楽さか、シマは両手を頭のうしろで組んでニヤニヤと少女の思案するさまを楽しんでいる。

「早く決めないと酔いが回っちゃうよ? あのカクテル、あとからじわじわ来るんだから。ま、あたしはお酒には酔わないからいいんだけどね」

 煽るような口調。第一ツモから思案するということは五萬か九萬とアガリやすいローランクの一から三萬までの入れ替えを考慮していることは看破されていそうだ。となるとこれから先、どちらの牌を切ってもシマは四六七あたりは躊躇なく叩き切って来るだろう……あるいは、そのあたりの牌で逆に待つか。相手の待ちでない牌は、同テンにされない限りは100%アガれる――なんて小ざかしいことは考えずに、少女は五萬を叩き切った。シマが面白そうにふうん、と目を細め、サイドテーブルの灰皿に煙草の灰を落とした。

「通るよ。やれやれ、ナメられてるなあ。まったく今晩の獲物は喰い応えのありそうな大物だよ、ホント」

 第一打の五萬は赤だった。

 大切なのは気持ちだ。赤だろうと九萬だろうと通ると思えば叩き切る。無様に大物牌と入れ替えて六萬や七萬ツモ切りで刺さるやつと思われれば、嶋あやめから百枚のチップは一生かかっても奪い取れないだろう。

 ――なんてことをカーペットに身をくるんだ少女が考えていたかどうか、それは誰にもわからない。

 白い肌とくっきり浮かんだ鎖骨を覗かせる少女は、彫刻のように優雅で、その心を美と才で隠している。

 勝負はまだ、始まったばかりだ。


 当然だがこの単騎麻雀に筋というものはない。両面待ちが存在しないからだ。よって得られる情報はお互いの河と、盲牌したときの相手の反応だけということになる。少女のうしろには鶴桐とマスターが控えているが、少女自身が待ち牌を目視しないため通しの心配はまったくない。

 これが後ろ盾のない少女にとって吉と出るか、それとも凶か。

 嶋あやめがくだらないイカサマをしてくるようなタイプだったらば、むしろ勝負は簡単だと言えたかもしれない。それをひっくり返せばいいだけだからだ。だが、真っ向から勝負をしかけてくるパワータイプだとすれば……勝負はどちらに転ぶかわからない。天の意志に委ねるほかない。

 もっとも天に嫌われるようであれば、最初からこの卓に座ることなどできはしていない。

 少女の連荘。

 シマのツモ番。

 現在までの河は四三八。シマの河は二三で現在ツモ牌を伏せて入れ替えを思案しているところだ。乾燥した頬をきゅっと引きつらせて、皮肉げな表情を作っている。

 少女の河は四萬がツモ切り、三萬が手出し、八萬がツモ切り。ここから得られる情報は、最初の待ちが三萬だったということ。一二三の少目は出アガリが期待できる牌だ。ところがそれを二打目に捨てている。さらには高目の八萬もツモ切り。

 待ちはなにか。

 シマは手元の二枚の牌をガラガラとかき混ぜている。目視ができないこの麻雀でそんなことをすればいつか爆死しかねない。しかしシマは躊躇わない。自分の指がかき混ぜている牌を間違えたりはしない。あえて無益なリスクを犯す。

 人間は機械ではない。ギャンブルでは、抱き合うような近さまでお互いの心を摺り寄せ、摩擦に耐え切れなくなった方が発火する。

 その末路はいまさら言うまでもないだろう。

 シマは少女を見据えている。

(手元にあるのは一萬と九萬……八萬拒否から、待ちが五萬か九萬であることはセオリー的には筋が通ってる。でも……)

 シマ、打一萬。

「ロン」

 少女は牌を音もなく開けた。

 一萬待ち。ロンボーナスで三点追加、チップ四枚の打撃。

 卓を四枚のチップが飛び、鶴桐がチップを籠に無造作に放り込む。

 二人の女は視線を逸らさない。

 シマがにやっと笑った。

「わかった」

 少女はカーペットを強く身体に巻きつける。女の鋭い視線から己の心を守ろうとしているように、鶴桐には見えた。

「なにが?」

「あんたはナルシストだ。そんな格好をしているのも、自分の悲劇性を際立たせたいから。そうでしょ? あんたが追い散らかした男どもはあんたのみすぼらしさに負けたのさ。浮浪者のガキに負けられない、そんな馬鹿な意地に踊らされて自滅しただけ」

 少女は俯いている。布を掴む小さな手にこもる力が、強まる。

「だったら?」

「あたしにその手は通じない。あたしの麻雀は百戦して百勝する。あんたは一萬を引いたときに素直に三萬を残せばよかったんだ。あたしは間違いなくツモ切った。待ちが九萬だったからね。絶対にそうした」

 その笑みは、なにもかも知り尽くした魔術師のもの。

 少女は目を合わせずに、魔性の仮面を避けるのみ。

「あたしから取りそこなった二枚のチップ、宣言するよ。それがあんたの敗因になる」

 鶴桐がスッと卓に近寄った。

「――洗牌させていただいても、構いませんか?」

「どーぞ」

「…………」

「では失礼……お二方、瞼を下ろして……」

 女たちが眠りに落ちたように瞼を下ろす。鶴桐がガラガラと牌をかき混ぜる。

 二人は目を開けた。

 罪の銀河を秘めた二対の眼が、運命の渦巻模様を見つめている。



 名無しの少女の攻勢が続いた。

 少女は黙々とシマのチップを掻っ攫っていく。とはいえ少女のチップが増えたわけではない。アガリチップは鶴桐のザルに入っていくのみ。

 シマも何度かツモアガリをしている。が、それでも出アガリ期待の小目を引きあがってしまったりして、なかなか効果的な一撃に繋がっていかない。

 典型的な半ヅキだ。初待ち(最初に引いた牌)が八萬や九萬であっても、一巡目にツモ切った四萬が当たってしまう。

 しかし、シマに恐れや不安の陰りは見えない。外野の鶴桐たちにわかるのは、歴戦の経験からゆえか、この女勝負師がチップ残量40枚を切っても平然としているということ。

 勝つ、ということを確信している顔だ。口元にうっすらと微笑みを浮かべ、少し細めた釣り気味の目は牌をいとおしそうに見つめている。

 その魔性に魅入られたのか。

「――ツモ」

 名無しの少女は、自分が卓に打ちつけた牌を見て、ハッと息を呑んだ。

 八萬。

 それを見て、シマが微笑む。

 赤い赤い弓のような弧を描いた口元――

「どうしたの?」

 少女は動かなかった。鶴桐が嫌味のない動きで、代わりに牌をあけた。

 七萬。

 それが意味するのは、

「――――」

 ふう、とシマが息をつく。

「酔いが回ってきちゃったのかな? だから言ったでしょ、さっきのカクテル、子どもが飲むには度が強いって。ま、あたしの肝臓は鋼でできてるから平気だけど?」

 少女は布にくるまれた膝に手を置いて、じいっと動かない。

 何かに耳を澄ましているように鶴桐には思えたが、音といえば水の流れる音くらい……。

「お嬢さん、申し上げにくいのですが、チョンボとなります。罰金としてチップ十枚をお渡しください。

「……うん」

 少女はのろのろとチップ箱からつまんだ十枚を、鶴桐に手渡そうとした。長い髪がさらさらと流れる。

 そのとき、シマが目ざとくひとつの事実に気づいた。

「――震えてるの、あんた?」

 それが引き金となった。

 少女の手から滑り落ちた十枚のチップが、床に落ちて派手に散らばった。

 無言の空間に、チップが虚しく転がる音が響き渡る。マスターが目を瞠り、鶴桐は表情を消す。

 少女は、自分の震える手のひらを無感動に見つめていた。

 自分に手があることを初めて発見した、そんな顔だった。

 はあ。

「ね、リタイヤする? いまなら服と安宿代ぐらいの金は残して叩き出してあげてもいいよ。あたしだって鬼じゃないし、それにくだらない勝負なんてしたくないし」

 視線の集中砲火を浴びても少女は動かない。鶴桐には、いまにも少女が錯乱し、奇声でもあげるのではないかと不安に思われた。

 それほどまでに、そのときの少女は触れれば壊れてしまいそうな雰囲気に包まれていた。

 痙攣する手の平を、少女は固く握り締めた。

 前を向く。顔をあげる。髪が流れて、その顔があらわになる。

「おもしろい」

 その瞳は、綺羅綺羅と輝いて。

 数多の金と命の燃え尽きる瞬間を見てきた鶴桐の背が、じっとりと汗で湿った。

「――ツモ」

 名無しの少女が言った。

 嶋あやめには見なくてもその牌が少女の待ちではないことがわかっていた。

 椅子にゆったりと腰かけて、少女が牌をあけるのを見守る。

 少女の引いた牌は二萬。しかし待ちは三萬だった。

「まあ、間違えやすいからね」

「お嬢さん……チョンボにつきチップ十枚を徴収させていただきます」

 鶴桐の優雅な手が白いチップをかっさらっていく。少女は見向きもしない。ただ、自分の手の平、というよりも伸ばした白魚の指先を見つめている。

「信じられないでしょうけどね、これが勝負の世界なの。いつもできてることができなくなる。百パーセントの力じゃなくていい、八十でもいい、そう思っても三十パーセントの力が出たら御の字の世界なの」

 灰色の煙を、シマは少女の顔に吹きつける。少女はわずかに顔をしかめた。そしてぼそぼそと何か言った。聞き取れない。シマは眉をひそめる。

「ねえ、聞こえないんだけど。言いたいことがあるならハッキリ言いなよ」

「…………。煙草、吸わないでほしい」

「ああ、ごめんね。でも鶴桐クン、ジャッジとしてあたしの喫煙を縛ることができる?」

 鶴桐は背広に覆われた肩をすくめた。

「できかねますね、ゲーム進行に影響が出ているとは言えませんから」

「だ、そうよ。ふふん、あんた吸ったことない? ちょっと吸ってみなよ」

 シマはくわえていた煙草を無理やり少女の唇に押しつけた。少女は最初抵抗したが、やがて自分の手で煙草の位置を直し、一思いに吸い込んだ。

 盛大にむせた。

「けほっ……」

「っ! ま、マスターお水を!」

 なぜか慌てふためく鶴桐に気おされて、ひげもじゃマスターがカウンターにすっ飛んでいった。壁に激突した反動を利用したような速さで戻ってきた彼からグラスを受け取ると、鶴桐は少女の口にグラスをあてがった。

「大丈夫ですか? これを飲んで落ち着いてください」

 顔を真っ赤にして、少女はこくこくと喉を鳴らして水を飲んでいく。シマは思わず、自分の首元に手をやった。

 たるみはじめた皮膚は、死骸のようなさわり心地がした。

「ねえ、鶴桐クン。さっきから若いコばっかりヒイキしてない?」

 空になったグラスをマスターに手渡していた鶴桐は目を丸くして、

「そんな、滅相もございません」

「本当かなあ。どうせあたしはおばさんですけど、あんたも自分の立場をわきまえてよね。あんたはジャッジ。公平な天秤なんでしょうが」

 鶴桐は表情を消して、一礼した。

「不快なご気分にさせてしまい、申し訳ございません。以後気をつけますゆえ、ご容赦を」

「わかればいいの。――ね、あんた」

 少女は涙目になって口元をカーペットで拭っていた。

「なに」

「わかるでしょ。もうやめときなって。あんたは子ども、あたしは大人。煙草も吸えない男も知らない勝負も未熟。ねえ、本当に弱いものいじめって嫌いなのよ」

「――こわいの?」

 ぴくっ、とシマの頬がひきつった。

「なんだって?」

「ほんとうは、わたしに負けるのが怖いんじゃないの――おばあちゃん?」

「ガキが――――」

 卓越しに胸倉を掴もうとしたシマを、大慌てで鶴桐が羽交い絞めにした。

「放せ、このガキ、バラバラにして水槽ン中にぶちまけてやる」

「暴力はおやめください! いけません、髪をひっぱっては、抜けてしまいます! ああ!」

 ことが落ち着いたときには、少女は胸元までずり落ちたカーペットを首まで引き上げなければならず、鶴桐は両手でシマの肩を押さえていなければならなかった。

 シマは荒い呼吸を整え、

「ネクストゲームに進もう。バカバカしい、とっとと終わらせてやる、こんなくだらない――勝負は」

 笑いを抑えるために、頬を噛んだ。



 さぞやいままでの嶋あやめは、少女の最初の劣勢に平然とした顔をしつつも内心では震えていて、都合よく不調になった敵にギブアップを乞うみじめな女――に見えたことだろう。

 そう思ってもらって結構だった。

 ちら、とシマは若いジャッジを見上げる。どうもこいつはまだ未熟だ。ガキに同情している節がある。そしてかつての栄華を散らしてしまった嶋あやめに失望している。

 とても嶋あやめが、イカサマを働いてるなどと考えもしていないだろう。

 愚かしい。

 真実が正方形や立方体だと思うのか? クラインの壷とメビウスの輪を溶かして混ぜた溶鉱炉の中にしか真理がないことが天秤にはわからないのだ。

 本当に――くだらない勝負。いや、勝負でさえない。

 鶴桐が牌を混ぜている。

 これから、名無しの少女がいかに己指先に意識を集中しようと無駄なこと。

 もうヤツがアガることは永遠にない。

 ここは闇カジノバー『魔少年』、そして嶋あやめはもう二十年もここの常連なのだ。

 その間、マスターは忠実なシマの相棒だった。

 それは、いまこのときも変わらない。

 けれどもこの単騎麻雀、通しなんてことはできない。ではガンパイ? そんなものは逆手に利用されてしまえばオシマイだし、ジャッジが気づきかねない。ステージが嶋サイドの用意である以上、道具に悪意が宿っていればその罪はシマとマスターに降りかかるのが必定。

 だから、サマを打つには、シマと敵にしか見破れない方法でなければいけない。

 最初に思いついたときは名案だと思ったものだ。

 運よく『魔少年』で大勝負の前に強い酒を呑むというローカルルールもあり、シマがこのゲームを持ち込んだ時に違和感を覚えたものは一人もいなかった。

 シマは手元の牌の背をそっとなでる。

 真実は、この牌にある。

 通常、麻雀牌の柄というのは彫り込まれているものだ。その彫りを指でなぞって把握するのが盲牌である。

 最初は、少女も正しく盲牌できていた。それが途中からできなくなった。

 なぜか?

「――飴食べていい?」

 サイドテーブル上の飴玉が山と乗った皿をシマは持ち上げて、鶴桐に問うた。

 いまは少女のツモ番。盲いた白い手がアガリ牌を求め、卓上を彷徨っている。無駄なのに。

「どうぞ、構いませんよ。ルールには、抵触していませんから」

 御堅い男、と呟いて、シマは飴を口の中に放り込んだ。

 そう、飴だ。

 まず、彫りと絵の異なる麻雀牌を用意する。たとえば、二萬の彩色がされた牌に三萬と彫るのだ。

 当然、盲牌すれば三萬だが、あけてみれば二萬ということになる。

 いきおい敵はチョンボを繰り返す。この単騎麻雀が、目視が禁止されている、チョンボを見越したルールゆえだ。

 しかし最初からチョンボしていては怪しまれる。なので、しばらくは普通の盲牌をさせてやらなければならない。

 けれど途中で使う麻雀牌をすりかえる、なんていう芸当はジャッジの監視下でできるわけがない。牌に傷がついているようだから交換しよう、といっても、ジャッジによっては新しい牌を用意してきてしまう。

 同じ牌を使わねばならなかった。

 マスターとシマはだいぶこの件で悩んだものだ。

 しかし、シマは辿り着いた。悪魔のゲームに最後のピースをはめ込んだ。

 飴である。

 溶かした飴を固めるときに、牌の絵を刻印しておく。

 偽装の彫りを刻んだ飴の薄いケースをマンズにはめる。

 盲牌や洗牌するたびに飴は人の体温で溶けていく。

 べたついているのは、シマが吸っている煙草のヤニのせいだと言い張ればいいし、急に相手方にチョンボが増えるが、それは酒と緊張のせいだとカマシをかければよい。ムード作りのために明度を抑えた照明もポイント。

 シマ自身は訓練して飴のケースがまだ溶けていないか、溶けて牌自体の彫りになっているのか、数ミリセカンドの時間で判別可能。

 飴の彫り(=彩色された絵)と実際の彫りの一覧はこちらである。


 飴彫 一 二 三 四 五 六 七 八 九

 牌彫 一 三 二 五 六 四 九 七 八


 どうしても一萬だけは、あまりにも簡単な彫りであるがゆえに言い訳がきかない。ゆえに偽装の彫りと本来の彫りを一致させざるを得なかった。

 だが、他の彫りならばミスにわかりやすい理由がある。盲牌が難しいというシンプルな理由が。酔っ払いがいくら「俺は確かに九萬を盲牌した!」と騒いでもジャッジの心を動かすには至らない。心証を悪くするだけ。

(――ふふ)

 これはシマのゲーム。

 かつて誰も突破したことがない絶対防壁。

 幾人もの勝負師をこの単騎麻雀で潰してきた。誰一人として生き残ったものはいない。

 今宵も、そうなる。

 嶋あやめの麻雀は百戦して百勝だ。

 が、




「――――ロン」




 シマの指先は、まだ一萬から完全には離れていなかった。

 名無しの少女は無表情のまま牌を開ける。一萬が顔を見せる。マスターが息を呑み、鶴桐の頬にかすかな笑みがよぎり、

 シマあやめは、ぐっと唇を歯で噛んだ。

 そう、一萬だけは本来の彫りのまま。ゆえに一萬でならアガれるのだ。

 いまのはロンアガリだったため四点。しかしツモれば普通は一点の最弱の待ちだ。

 その前に少女がチョンボでトぶのは間違いない。

 そう確信しているはずなのに、そのときシマの心臓が、きゅっと縮んだ。負けるわけがない、そう言い聞かせる。ずっとそうやって生きてきたのだ。いまさら、臆病風など吹かせてはいられない。

 そんな風が似合うようになってしまったら、自分は本当に終わってしまう。嶋あやめという幻想が消えてしまう。

 消えたくない。消えてたまるか。

 こんなところで――――



 嶋、残りチップ十六枚。

 少女、残りチップ九枚。



 シマはもう徹底的に自分の敗北する目を潰すことにした。これからは一萬を掴んだ場合、絶対に打たないことにしたのだ。

 積極的に九萬などのツモアガリを狙っていきたいところだったが、どうも一萬の打ち込みによるアガリで少し不安なラインまでチップが減ってしまった。

 しかしこれでもう大丈夫。あと少女が十六回一萬をツモあがってもシマは生き残る。

 その前に、あっさりこちらがアガるか、向こうが逆転を狙ってチョンボをするか。

 負けるはずがない。負けようがない。絶対に負けっこないのだ。

 これは、他の誰でもない、

 嶋あやめのゲームなのだから。



 少女の親。最初のツモ。

 このとき、シマは勝利を確信する。

 少女が打ったのは一萬。

 唯一のアガリ目がある、一萬。

 それを打ってしまえば待つのはチョンボかシマのアガリ。

 そしていまのシマの待ちは――

(ヒキが強いよ、ホントにあたしってやつは)

 九萬。

 ツモってもアガってもアガられても勝ち。

 勝利の味は、いくつになっても甘美なもの。

 飴玉なんかと比べてられない。

 美酒を固めて作ったみたいなこの味が、

 忘れられずに、生きてきたのだ。

 シマは万感の思いをこめて最初のツモ牌を引く。流局する可能性は残っているが、いままでの経験がシマに囁く。

 この局は流れない。そんなたゆたった中途半端な運気ではない。

 指が牌を教えてくれる。ぬるりとした、飴の溶けた本来の彫り。

 引いたのは八萬。

 なにも恐れることはない。むしろ、このあたりで待っていておかしくない。ただしそれは、八萬の彫りをした、九萬だろうが。

 ツモ切りだ。

 アガれるものならアガってみろ。

 おまえのそんな目つきなど、こちらを見透かすような目つきなど、

 そんなの、

 いまさら、

 どうでも、



「ロン」



 勝った――――

 シマの顔に笑みが浮かぶ。

 これで決まりだ。残り九点の少女はチョンボ十点で飛び。

 終了だ。

 これでこのガキの人生は完結した。せっかく手に入れたあぶく銭を根こそぎ奪われ、獣の才能を失い、つまらない売春婦として糞ォ垂らして生きていくのだ。燃えるような恋も知らずに生きていくのだ。

 どんな夢も叶うことなく。誰かのように、ひとりぼっちで。

 ざまあみろ。

 シマは目を瞑ってくつくつと笑った。おかしてたまらない。ツボに入った。これから先、こんなに腹の底から笑える日は来ないだろう。

 そんなシマに、鶴桐が声をかける。

「シマ様」

「ん? なあに。あ、その子はとっととオークションに流しちゃって。上玉だからね。容赦はしないよ、絞れるまで絞るから、あたし」

「いえ、そうではなく」

「は?」

 目を開けると、鶴桐がおそろしい顔を息が吹きかかるほど近くに寄せてきていた。

「八萬での放銃、チップ八枚のお支払いになります」

「なに、言って――」

 シマの目が、そろそろと卓上を滑っていく。視界がやけにぶれる。眼球の筋肉が、ちゃんと動いてくれない。

 馬鹿な。

 ありえない。

 そんなはずがあってたまるか。

 これは、

 これは、

 シマのゲームなのだ。

 絶対無敵の勝負師の生涯最高のペテンなのだ。

 破れるはずがない。破れてはならない。絶対無敵ではなくてはならない。天衣無縫の不可能命題でなくては、ならないのだ。

 この遊戯は、嶋あやめそのものなのだから。

 少女の人差し指と中指が、牌をつまんで空中に持ち上げている。

 シマの乾ききった喉から、掠れた声が零れた。

「――八、萬、」

 名無しの少女はにやっと笑った。

 それは無邪気で、素直で、そしてどこか底知れない、魔性の微笑。

「ぴーす」



 無邪気で、素直で、そしてどこか底知れない、

 反撃開始のVサイン。




 シマ残り八枚。

 少女残り九枚。

 どちらかが高目をツモればそれだけで蹴りがつく。どちらかが六点以上を出アガっても蹴りがつく。

 正念場だ。抜き身の刃のような局面だ。

 二人とも、滝のように汗を流している。当然だ。もう五局も流局が続いている。放銃を避けることによってツモアガリを逃してばかりいる。一進一退の攻防。

(まだ完全に飴が溶けていない牌が残ってたんだ……そうに決まってる。それだけのこと。これだけ局を重ねれば、いくらなんでも溶け残っている牌があるわけがない)

 シマはそう思おうとする。だが、その脳裏には恐ろしい想像がめぐって仕方ない。

 敵は、見抜いたのではないのか? 彩色と彫りの違いを。

 そして、その違いを頭の中で一覧にし、この状況に適応したのではないか?

 もしそうなら、ここからはガチンコ勝負になる。イカサマなしの真っ向勝負にもつれ込む。

 負けるかもしれない。

 ――いいじゃないか。

 シマは深く深く息を吐く。

 もう煙草なんて悠長に吸ってられない。灰皿では火をつけたばかりで放置された煙草が悲しげに紫煙をくゆらせている。

 嶋あやめは無敵の勝負師だ。百戦錬磨の怪物だ。ガチンコだろうと負けるはずがない。

 昔はずっとそうやって生きてきたではないか。勝負の世界で生きていこうと決めたあの日から。

 なにもかもぶち壊して、どんなやつも叩き潰してきた。

 背後にも、足元にも、屍の山、血の河が延々と続いている。

 それで満足だった。

 赤い血のにおいだけが、どうしようもない渇きを癒してくれた。

 あの頃に、戻ればいい。ただ、それだけのこと。

(マスター……)

 シマは助けを乞うような眼差しで、ひげもじゃのマスターを見やった。照明の当たらない暗がりにいるマスターが、心配そうな顔をして自分を見守っているのが、見えなくてもわかった。

(ほんのちょっとでいい)

(あたしに勇気をちょうだい)

(あんたとあたしを守り切る、勇気を)

 消えかけた心の蝋燭の火が勢いを取り戻す。身体に熱と力を溜めて、少女を睨む。

 散らばった三十六枚の中から、名無しの少女は一枚を引く。

 耳が痛くなるような沈黙の中、目を閉じて、盲牌するそのさまは牌の声を聴いているかのよう。

 シマは唇を噛んで愚かな幻を振り切った。手を伸ばして、己の牌を引く。

 親指で牌の顔をなでた。

 ぬるりとしていた。

 まず真っ先に頭に浮かんだのは白。予備牌の白が偶然、紛れ込んでしまったのではないかということ。しかし、そんな機会はなく、ジャッジがそんなミスをするわけもない。

 そんなことはシマには最初からわかっていた。

 わかっていても、手を挙げて言いたかった。

 白が混ざっていると。

 でも、それはできない。シマの脳は真実を瞬時に弾き出していたからだ。

 溶けた飴が不幸にも、彫りを埋めて固まってしまっている、そのことを。

 シマは震えそうになる手を必死に抑えて、牌を卓に置いた。

 待ちは、わからない。

 焦るな――シマは拳を握り締める。

 なにかどろっとしたものが牌にこびりついている。そう言えば牌を交換してもらえるだろう。なんの疑念も抱かれないかもしれない。だが、もししくじればすべてが終わる。リスクとメリットを考えろ。

 こんな暗牌、一巡目で捨ててしまえばいいだけじゃないか。

 食い込む爪の痛みで意識に鞭を打つ。足りなかった。もっと鋭い痛みが欲しい。けれどもきっとこの不安は脳を拳銃で撃ち抜いても覚めないだろう。

(こんなアンラッキーな牌がそういくつもあってたまるか。次のツモで入れ替えればいい。大丈夫、まだ負けたわけじゃない――)

 すうっと二の腕までさらして、白い手が卓に伸びる。

 名無しの少女の、第一ツモ。

(引きアガれるわけがない――)

 名無しの少女は、平手打ちするようにツモ切り。

 赤五萬。

 ドラだ――もっとも少女は赤であることを知らなかったわけだが。

 シマはほっとして牌海に手を伸ばす。これで勝負は仕切り直しだ。まだまだ自分の運は残っている。生存の道は開かれている。

 終わらせてやる。

 勝つのは自分だ。

 今度は盲牌できた。引いてきたのは九萬。高目だ。ツモでもアガリでも勝ち。ツイている。そう、ツイているのは自分の方だ。

(こんなやつに、負けてたまるか……!)

 忌まわしい飴牌を卓に捨てる。

 五萬。

 ――――五、萬?

 くらり、ときた。脳髄の奥の奥から冷気が迸って血の気が一気に冷めた。

 アガっていたのだ。

 第一巡目に。

 理屈はシマを肯定している。盲牌できなかった以上、九分の一の確率に賭けて勝負なんて馬鹿なことはできなかった。いまのように入れ替えの目もあったし、結果的に少女が赤を打っただけで通常の五萬ならバクチに勝っても一点残っていた。

 だからいいのだ。

 仕方ないのだ。

 そんな簡単に割り切れたら、博打はどれほど楽だろう。

 もうとても思えない、自分が再びアガれるなんて。

 負けた、と思った。思いたくなかった。死んでもそんなこと思いたくない。

 それでも、思ってしまった。

 シマの双眸の輪郭がじわ……とぼやけた。

 照明が暗くなければ涙ぐんでいるのがバレてしまっていたかもしれない、いや、ひょっとしたらみんなわかっているのかもしれない。どう考えても今の手出し五萬切りはおかしい。アガリ逃しは歴然。

 なぜか。

(マスター)

 とても顔を見ることはできなかった。けれど、マスターが固唾を飲んで自分を見てくれているのはわかった。

 視線に熱量があるとどうして誰も教えてくれなかったのだろう。こんなにも暖かみがあるというのに。こんなにも伝わってくる想いがあるというのに。

 ――――負けられない。

 嶋あやめは無敵の勝負師だ。百戦錬磨の怪物だ。

 その麻雀は百戦して百勝。ただ一度の敗北も知らない戦乙女。

 勝ってやる。

 アガってみせる、一度はアガリの形があったのだ、チャンスを逃してもまたチャンス、飽きるほどアガるなんて麻雀ではよくあること。増してやこの単騎麻雀、残りのアガリ牌はまだ山に眠っている。

 そう、引いてみせる。

 ここで、対面の少女が引きアガらなければ――!

「…………」

 少女はツモ切り。三萬。

 シマは神様になんて感謝はしない。

 いつだって、勝ちや負けは自分の指先から繋がっているもので、絶対の支配者なんてものはいやしない。

 それは幻想なのだ。蜃気楼なのだ。弱者が抱く醒めない夢なのだ。

 自分は強者だ。

 だから、だから、

(だから――――来いッ!)

 べっとりと汗と飴とヤニと魂で濡れた牌を引く。

 盲牌したその瞬間、幻の稲妻がシマの指先を貫いた。

 六萬。

 それは、一番、引きたくない牌だった。

 少女の河は赤五萬、三萬ときている。勝負を決めにかかってきているのは明らか。五萬を捨てたのは、こちらが赤の十点放銃を恐れて中盤以降オナテンにされる可能性が高いから。

 いま、シマを飛ばせる牌はフリテンを覗けば六、七、八、九萬。このうち出アガリのみでハコテンにできるのは六、七萬。

 六萬で出アガればさぞや気持ちがよいだろう。そういう待ちだ。

 かといって九萬を打つなどできるわけがない。この最終局面、少女がいままでの技巧待ちをかなぐり捨てて高目のツモ専に賭けていても不思議ではない。そもそも五萬を初手で捨てている以上、一から四の待ちはありえない。この局で蹴りがつく待ちを残すはずだし、一から四の放銃では少女は飛ばないから振り込みを恐れて手に残すわけがない。

 どちらも当たりのように思える。それでも、待ちは一種類だけなのだ。

 考えれば考えるほど泥沼にはまっていく。あるはずのない時計の針が進む音が聞こえる。

 ゼロになったらなにが起こるのだろう。

 考えたくない。

(――そうだ、考えなければいい)

 シマは牌をガラガラとかき混ぜた。それを見て少女が怪訝そうに眉をひそめる。

「あたしはもう三十年、勝負の世界で生きてきた。危ない橋も何度も渡ったし、死んでいったやつらを何人も見てきた」

「だから?」

「あたしは、こんなところで負けるような運命には乗ってない」

 目を瞑って摘んだ牌を高々と振り上げる。鶴桐の、マスターの、少女の視線が振りかぶられたシマの指先に集中する。牌はまだ見えない。



「――――勝負」



 打った。

 ダァン――と、いままで何度耳にしてきただろう、強打して牌と卓と打ち手の心が震えて痺れる烈しい音がして、指が離れて、牌がその絵を明らかにした。

 六萬。

(通ってしまえ――!)



 少女は、













「自分のことさえ信じられなくなったなら、いっそ死んでしまえばいいのに」












 時が止まった。

 誰も動けないその世界で、灰色の色彩の中で、

 名無しの少女だけが美しく色づいて、

 呟いた。

 あの死病を患った鷹のような、熱く燃え滾る瞳で、



 ロン、と。






 ○







 どさっとシマが背もたれに身体を預けると、マスターが慌てふためいて側に駆け寄った。シマ、シマ、と名を呼ぶがシマは薄い笑いを浮かべたまま、マスターを振り返ろうともしない。

「やられたよ」

 壊れた人形のように言う。

「このカラクリを見破ったのは、あんたが最初で、きっと最後だろうね」

「カラクリ?」と少女。

「その頭の中にある、できたてホヤホヤの彩色と彫りの表のことだよ」

 少女は黙っている。

 ふとシマはある不安に駆られた。が、すぐにそんな馬鹿なことあるわけないと思いなおした。

 なんて馬鹿なことを考えたのだろう。

 手元にある牌を触ってみる。べっとりと汚れていて、いますぐにも濡れ雑巾で拭いてしまいたい。

 シマは確かに最初に言った。

 ――――ちゃんと盲牌したら勝てるもの。

 ありえるわけがない。

 ありえるわけが――――

「――――決着、確かに見届けさせていただきました」

 鶴桐が一礼し、

「お二方とも、見事な勝負でございました。今宵のゲームの秤になれたことを光栄に思います。では――――」

 報酬の要求を、と鶴桐は少女を促した。少女はいまさら寒くなってきたのか、ぶるっと身を震わせると、

「このゲームは」とはじめた。

「シマ、あなたのゲームだったんでしょう。だったら、最後まであなたはルールを曲げるべきではなかった」

「……なに言ってんの? イカサマしたのが卑怯だって言いたいわけ? ハッ! あんたの末路が見えるわ、名無しの子。勝負の世界で、」

「イカサマをしている人間が、最後の最後に真っ向勝負で勝てるなんて本気で思っていたの?」

 零れかけたシマの言葉が、消えた。

 少女の声音は、蔑みなど欠片もなく、ただ寂しそうだった。

「もしあなたが自分で打牌を選んでいたら、結末は変わっていたかもしれないのに。あなたは真っ向勝負をしてはいけなかった。もしそれで勝てると本気で思っていたなら、最初からあなたのゲームではなく、ここにいる四人で麻雀でもすればよかったんだ」

 少女の演説が終わる。

 もうシマは何も言わなかった。

 ただ、俯いた顔から、ぽとぽとと涙が膝を濡らしていた。マスターがひげもじゃの顔をくしゃくしゃにして、震えるしかない無力な女の肩を抱く。

 鶴桐がちら、と名無しの少女を見やる。少女は頷いて、

「じゃあ、命に代えられないものをいただこう」

 びしり、と。

 混沌さえも掴み取るその黄金の指をまっすぐに伸ばして、



「あなたの服と――名前をもらおう」







 ○






 眠らない町の中に嶋あやめはいた。

 繁華街のネオンが暗闇を切り裂き、雑踏と車が孤独から逃げるように身を寄せ合っている。

 シマは物憂げに長い髪をたなびかせて歩いていく。

 男装の美少女に通り過ぎていく酔っ払いたちが鼻を伸ばすが、不思議と絡んでいく猛者はいない。何か第六感からでしか感知できない危うさが、その少女からは匂い立っているのだった。

 そんな少女に背後から声をかけるものがいた。繁華街から逸れて、室外機とゴミ箱が並ぶ路地裏を十分ほども歩いたところだった。

「お見事でした」

 シマは足を止め、振り返った。

 鶴桐条一は底の知れない笑顔を浮かべて、ゆっくりと拍手している。

「あの店の床に散らばっていた現金は我々の方で回収いたしました。ご要望があればいつでもお渡しできます」

「そう」

「お嬢さ――いえ、いまは嶋あやめ様でしたね。シマ様、あなたは実にお強い。あなたのような人はいままで見たことがない」

「そう」

 名無しの少女はそっけない。道具に振り撒く愛想はない、とでも言うかのように。

 鶴桐は両手を広げて、輝くような笑顔を振り撒いた。

「どうです、その才能をもっと十二分に発揮されては? あなたが踊るべき黄金の舞台は、私どもが絢爛たるものをご用意させていただきますゆえ」

 鶴桐は返事を待った。

 だが、シマは力なく首を振り、言った。

「無駄だと思う」

「――どうして?」

「いままで誰も、わたしを心の底から満足させてはくれなかったし」

 ふ、と鶴桐は笑った。

「いいえ、あなたは間違っておりますよ、シマさま」

「え?」

「なにが正解でなにが誤りかなんていうものは、死ぬときまでわかりません。だから、この世にはもう面白いものなんてもうなさそうだ、なんてのは、世間知らずのガキがよく言う戯言だと申し上げざるをえない」

「……言うね」

 長い髪をかきあげたシマは、愉快さを含んだ苦笑を浮かべる。

「ねえ」

「はい」

「ナイフ、持ってない?」

 鶴桐が懐から抜いたダガーナイフを手渡すと、シマはその刃に映る自分の瞳を見つめた。

 かと思うや、美しく長い絹のような髪を首のうしろあたりからバッサリと切断してしまった。鶴桐は徴収過多の献血をしたように蒼白になった。

「し、シマ様、いったいなにを? もしや、私の発言がお気に召しませんでしたか? ああ、ああ、綺麗な御髪でしたのに……」

「心機一転ってやつだよ。気にしなくていいから。はいナイフ」

 差し出されたナイフを受け取った鶴桐が散らばった髪から顔をあげると、

 もうそこに白い少女の姿はなかった。

 ただ路地裏に、どこから来るのかわからないほど反響してしまった革靴の足音だけがこだましていた。

 それでも鶴桐は聞こえたと思った。歳相応のあどけない笑いと、どこかくすぐったそうな、

 ――ありがとね。

 ふ、と鶴桐は笑う。

 どうやら彼女は、自分ごときに手を出せるような器の小さな人物ではなかったらしい。

 少女の髪が作る渦巻きから立ち上がり、どこへ続いているとも知れない闇へと囁く。

「いつかきっとあなたをワクワクさせてくれる、そんな殿方が現れますよ、シマさん」




 どうか、どうか、その刻まで。

 その苦しみを、その悲しみを、胸の奥に焼きつけたまま。

 いまは、おやすみ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

賭博異聞録シマウマ 顎男 @gakuo004

作家にギフトを贈る

カクヨムサポーターズパスポートに登録すると、作家にギフトを贈れるようになります。

ギフトを贈って最初のサポーターになりませんか?

ギフトを贈ると限定コンテンツを閲覧できます。作家の創作活動を支援しましょう。

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ