最終話 醒めない夢

 結局、元の生活に戻ってしまった。

 学校と家の往復を繰り返す退屈で平凡な日々。

 それを愛す人もいるのかもしれないがオレはごめんだ、と天馬は憎々しげな表情で黒板を睨みつけていた。国語の時間だった。

 教師が夏目漱石の『こころ』の登場人物の心情を小難しい言葉で説明している。


(ふざけんな、てめェなんかになにがわかる。わかったような口を利くなよ――)


 以前聞いた話だったが、国語のテストで問題文として載せられた小説の作者にそのテストを受けさせると満点を取れないそうだ。

 つまり問題が間違っているのである。正解というものは、テストを成立させるために作られたこじ付けなのだ。

 極端に言ってしまえば作者に近い心情を持っていたとしても点数は低くなる。

 こんなバカなことがあるか、と天馬は板書をやめてノートのど真ん中に落書きを始めた。

 前の座席に座っているクラスメイトの女子の輪郭を描きながら、ふと思った。


(こいつの名前、なんだっけ)


 どうでもいいようなことだったが、原因不明の黒い気持ちが胸の奥から沸き起こってきた。

 それはやはり、透明人間だった頃に感じたものに似ていた。


(なんかもう、ホントに嫌になってきちまった)


 シマに会いたい。痛烈にそう思った。

 あの死病を患った鷹のような、熱く燃え滾る瞳をずっと見ていたい。

 そうすれば自分も、その余熱を享受できるのではないか。

 少なくともこんなところで、生焼けのまま朽ち果てることはないだろう。


「転校生が来るってよ」


 そんな気持ちを常に持っていたものだから、その噂話を寝たフリしながら盗み聞きした時、天馬の心は嫌が応にも震えたった。

 机に突っ伏したまま、ついに来たかとまで思って、いや、と思い直した。


(そんな都合のいいことがあるか。漫画や小説じゃないんだぜ)


 そうやって表面上は冷静ぶってみても、いざホームルームで教師が「さぁ、どうぞ」と扉の向こう側にいる者を召喚する時を迎えると、身を硬くしないわけにはいかなかった。

 ガラガラとたてつきの悪い扉を開けて、一人の少女が入ってきた。

 落ち着いた足取りで黒板の前に進み出る。

 おお――とクラスがどよめいた。あまりにも現実離れした綺麗な美少女の登場に男子連中がひそひそと下世話な会話を交わし合ったけれど、天馬の耳には少しも入らなかった。

 呼吸をするのも忘れて放心してしまっていたのだ。


「じゃ、自己紹介して」


 教師に命じられ、少女が頭を下げると滑らかな髪が滝のように流れた。




「加賀見……空奈です。よろしくお願いします」


 天馬の肘が机からずり落ちた。




 カガミが来訪してから一週間が経過した。

 けれど驚くべきことに天馬とカガミはその間、一言の会話も交わさなかった。

 別段、天馬とカガミの間に不具合が生じたわけではない。

 むしろ天馬は彼女と話をしようと常に機会を窺っていた。

 彼女に聞きたいことはゴマンとあったからだ。

 なぜ転校してきたのか、仕事はどうしたのか。

 シマの行方を知っているのか。

 しかし天馬は相変わらずクラスで浮いており、カガミは反対にその美しい容姿と落ち着いた物腰からすっかりクラスの人気者になっていた。

 転校生というものは初めの内はチヤホヤされるが、人物によってはそのまますぐ飽きられてハブられるケースも割とあるのだが、彼女の場合は最初にできた人の円がなくなることはなかった。

 女子はまくし立てるように彼女のプロフィールを知りたがったし、男子は女子のガードに遮られてなかなか接触できなかったが、落とした消しゴムを拾ってあげたり掃除当番を代わってあげたりと、あれやこれやで接近しようと必死だった。

 その賑やかな輪の中から天馬がハブられていたことは言うまでもないだろう。

 彼はさしずめその周囲をうろつく衛星のごとき存在だった。


「かがみん、かがみん!」


 そう呼ばれて小首を傾げる彼女を見ると誰もが愉快そうだった。

 どういうわけか、この世界にはすぐに他人と打ち解けられる人間とそうでない者がいる。

 自分が後者に生まれてしまったのは間違いないな、と天馬は苦笑した。


「ねえ、今日ケーキ食べにいこうよ! 割引券が明後日までなんだぁ」


 友人に手を引かれてカガミの長い黒髪がふぁさっ――と跳ねた。

 そんな時の彼女はとても何人の男に囲まれても退けを取らない闇組織の人間には見えない。

 寝たフリをしながら薄目を開けて、今日も誰かに連れて行かれるカガミの後ろ姿を見送った。



 友達のいない学生にとって大変なのは休み時間の使い方である。

 ぼけっと机に座っていたって視線が痛いだけだし、かといってやることもないので、結局はトイレにいったり廊下をウロウロしたり、寝たフリをしたりして時が過ぎるのを待つ。

 なにもしていないように見えるだろうが、これが結構辛い。周囲の楽しそうな笑い声がみじめな自分のことを笑っているように聞こえて精神がやられる。

 だから授業が始まると皮肉なことにホッとしてしまうのだ。

 そんな按配で四時間目をやり過ごして昼休みを迎えると、天馬は教室から出た。

 今までは教室で済ませていたのだが、今日はなんとなく外で食べる気になった。

 誰も廊下をてくてく歩いていく天馬に注意を払わないけれど、邪魔することももう無いのだった。



 天馬の通う高校は戦後からあるだけあって長い歴史を持っている。

 有名な小説家や俳優を輩出していたりもすれば、当然だが人死にも出ている。

 昔、屋上で遊んでいてボールがフェンスの外側に出てしまい、それを取ろうとした男子生徒が転落して死亡した。

 だからなのかわからないが、この学校では屋上を忌み嫌う風習があった。

 それには超常的なオカルトを恐れているというよりも、それを気にせずたむろする不良たちを避ける意味合いが大きかったのだろうけれど。

 そういうわけで雨宮たちが消えた今、屋上はあまり人がいない静かで落ち着いたスポットとなっている。

 鍵の壊れた扉を開けると、絵の具をこぼしたような群青色の空が広がっていた。太陽の臭いのするかすかな風に髪がそよいだ。

 そうしてフェンスに体を預けて売店で買った焼き蕎麦パンの封を切ろうとした時、視界の端で何かがはためいた。それはスカートのように見えた。

 天馬は睨みつけるように階段へと繋がる正方形の建物の上を見上げた。

 しばらくそのまま見ていたが、やおら立ち上がるとパイプを伝ってその上によじ登った。


「よお――相変わらず高いところが好きなんだな」

「落ち着くんです」


 カガミは無愛想に頷いた。




「学校はどうだ。うまくやってるか」

「それなりに」

「勉強わかるか? ダメだったら教えてやるよ、英語ならできるから」


 カガミはよく動く天馬の口にやや閉口気味で、そっけなくこう言った。


「なんだか、まるでお父さんみたいな口ぶりですね」

「ハハハ! そうだな。まァ楽しそうでよかったよ」と天馬は心からそう思った。

「オレみたいになっても良いことないだろ」


 カガミはちょこんと揃えた膝の上に乗せた弁当箱をいじる箸を止めた。


「あなたは、なにか悪いことをしたんですか」

「え?」

「誰もクラスであなたに話しかけようとしないから」

「ああ……いや、特に何か悪いことしたわけじゃねえよ。たぶん」

「じゃあ、なぜ?」

「嫌われモンなんだよ。人の言うこと聞かねェからなァ」そこで天馬は少し間を取ってから続けた。

「おまえ、今日はどうしたんだよ。いつもは女子とメシ食ってたろ」

「一人になりたい時もあります」

「でも気まずくなったろ」

「一人で食べるって言ったら、変な顔されました。……これっていけないことですか?」

「いいや、ちっとも。ただどういうわけか、歓迎されねェんだよな。不便だよ、いろいろと」

「その代わり、寂しい時は側にいてもらえます」

「そうだな、その通りだ。いいことだよ」

「あなたは寂しい時、どうしているんですか」

「どうもしねェ。一人でいるだけだ」

「……きっとあの人もそうなんでしょうね」


 言葉に表さなくても、それが誰のことを指しているのか簡単に伝わった。


「あいつの行方、知ってるか」

「いえ、残念ながら。最近はGGSを介してのギャンブルもしていないようです」

「そっか……ホントに綺麗に消えちまいやがったんだな」

「ええ」

「おまえさァ」


 次に話す機会があるかわからない。

 今の内に聞きたいことを消化してしまおう。


「どうしてここに転校してきたんだ」

「……あの夜」


 カガミは星型の雲を見上げながら語り始めた。


「私はあの人と勝負をしたんです」

「勝負……?」

「休憩の時に、彼女は私に作戦のすべてを教えてから、こう言いました。

『天馬は諦めるかなあ』……と。

 私は……諦める方に賭けました」

「それでいいんだよ」と天馬は笑った。

「誰でもそう思うさ。オレを信じてやれるのはオレだけだからな」

「彼女も、あなたを信じていました。だからすべてをあなたに託したんだと思います」

「違うな」

「え――?」

「あいつは自分を信じていたんだ。

 とどのつまり、相手を信じるってことは、そいつを信じる自分を信じるってことだ。

 綺麗事なんかじゃねェよ」

「そう……でしょうか」

「そうさ……」


 天馬はごろんと横になった。

 遮るものなどない、どこまでも続く青空が広がっている。


「それで負けて、おまえ何を払ったんだ」

「身体です」

「え!」


 がばっと跳ね起きた天馬をカガミはいつものアスファルトみたいに冷たい目で見下ろした。


「……この学校に転校しろって言われたんです。

 でも私にはわからない。どうして彼女がそんなことを命じたのか……」

「ハハハ……!」

「……?」

「わかりきってるじゃないか、え、そうだろ。

 お前、毎日すげぇ楽しそうだぜ」


 カガミは弁当箱からから揚げを持ち上げるとパクンと食べ、口をもごもごさせた。


「……あなたは憶測で人の気持ちを言うからキライです」

「だって、どう見たってそうなんだから仕方ない。

 普通の生活が、楽しいだろ。平和だろ」


 カガミは目を合わせずに頷いた。ごくん、と喉元が動いた。


「ずっと……」

「うん」

「ずっとこんな風に学校に通ってみたかったんです。

 でも私は普通じゃないから。

 夢を見ちゃいけないから……」

「普通じゃないから、好きなことしちゃいけねェなんて、そんなバカなことがあるかよ」

「私は……私は……」


 カガミは胸元のスカーフを白く小さな手で握り締めた。

 ぎゅっと力をこめて、離さぬように。


「一度で……いいから……こんな……風に……制服をき、着てみたいって……」

「なりてぇものがあったらなればいいし、着てみたいもんは奪ってでも着りゃあいいんだ。

 ――よかったなぁ、カガミ」


 カガミの涙は綺麗だった。

 この世にあるどんなものよりも、ずっと。






 シマ。


 これが見たかったのか?






 昼休みが終わるチャイムが鳴っても天馬は引っくり返ったままだった。

 隣ではカガミが同じように空を仰いでいる。


「最近さ、オレ思うんだよ」

「なにを……?」


 カガミは少し眠そうだった。いい天気だから無理もない。

 天馬は子守唄を歌うように静かに語った。


「この世の中には沢山の人間がいるよな……。

 楽しく生きようとするやつや、痺れていたいと思うやつ。

 生きることがわからないやつ。沢山だ。

 そいつら一人ひとり、幸せの形ってのは違うもんだろ。

 オレたちはオレたちだけの幸せを求めていけばいいんだ。

 誰が偉いとか凄いとか、どうでもいいことだ。

 そうだろ?」

「でも」

「ん?」

「幸せはずっと続かないでしょう?」


 カガミの不安そうな声音を聞いて、天馬は目をスッと細めた。

 その口元には今まで誰にも見せたことのないような微笑みを浮かべていた。


「いいんだよ、それで。

 ほんの一瞬を追い求めてオレたちは、足掻いて、闘って、苦しんでるんだろ。

 オレは闘い続ける。

 誰にも理解されなくたっていい。夢だと笑われたっていい。

 それが生きるってことだと思うから……」






 闘いは終わらない。


 この今にも崩れ落ちてしまいそうな心を信じて生きてやる。


 この命、この意志、この信念が滅ぶまで。






 醒めない夢を抱いていこう。





















【賭博異聞録シマウマ 完】

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