右腕の誓い

棗颯介

右腕の誓い

 完璧な人生だった。

 生まれた時から自分は幸福だった。

 善良な両親の元に生まれ、愛情を持って育てられた。

 幼少期から友人に困ったことはない。

 おそらく人並み以上に端正な顔立ちは自然と異性を惹きつける。

 勉学・スポーツはある程度教われば教えた側よりも優れた結果を残せた。

 神に選ばれた子供。神童。周りの大人達は口を揃えてそう言った。


 右腕を失うまでは。

 すべてを預けられると信じた友を失うまでは。


 あの夏。学友達と夏休みを利用して訪れたリゾートビーチ。

 若気の至りからつい沖に出すぎたことが悲劇を招いた。

 まるで自分たちを拒むかのように岸は遠くなり、海の波ははっきりとした悪意を持ってその勢いを増していく。ついに空にすら見放され、自分達は完全に世界から拒絶された。

 雨と荒波で視界が満たされていく中、自分の名を呼ぶ友の声を確かに聞いた。

 無我夢中で手を伸ばした。

 何を掴んだのか、掴むことができたのか、もう思い出せない。

 次に目を覚ました時には、伸ばした手は既に自分のものではなくなっていた。

 あの右腕は何処へ行ったのだろう。友と手を繋いだままあの世へ行ってしまったのだろうか。


 右腕と友を失ったとき、自分の”完璧な人生”もそこで終わった。


「う、うぅ……」


 極めて不快な気分で目が覚めた。

 昨日も飲みすぎてしまったのか、ひどく頭が重い。

 なんとかベッドから上半身を起こし、部屋の中を見やる。

 悲劇的な様相を呈している。

 床には大量の空き缶や食べ物の容器が散乱し、床のどこを踏めばいいか分からないほどだ。

 机の上には大学入学以降ろくに開いていない教科書や参考書の山が積み重なり、一番上の本の表紙には小さなクモがせっせと歩いている。

 自分がいるベッドには脱ぎ捨てた服や下着が散乱し、皮肉にも眠る自分の身体を温めてくれていた。

 左腕でうまく身体を支えながらゆっくりとベッドから立ち上がる。ベッドに脱ぎ捨てられている適当な服に目をつけ、左腕だけで器用にシャツに首を通し、ややバランスを崩しそうになりながらもジーンズを履き替えた。

 右腕がない生活にもすっかり慣れた。

 今の自分が果たして”生活”しているかと言われると甚だ疑問だが。


 右腕を無くしてからの自分は堕ちるばかりだった。

 これまでと同じ日常生活が送れなくなることももちろんだったが、友の死が何よりも自分を追い詰めた。

 生きることが辛かった。

 生き残ってしまったことが辛かった。

 救えなかった。

 救うことができなかった。

 自分のせいで。

 俺のせいで。

 あいつは———。


「どうして助けてくれなかったんだ」


 不意に耳に届く、懐かしい声。

 頭を上げると、そこには憎々しげにこちらを見下ろす懐かしい顔があった。


「どうしてお前だけが助かったんだ」


 ———やめろ。


「お前も死ねばよかったんだ」


 ———やめてくれ。


「俺達、友達だろ?」


 ———やめてくれ!!


 逃げるように暗い部屋を飛び出した。

 外に人気はない。今は何時だろう。夜空に浮かぶ月の傾きからするに、午前二時頃といったところか。夜空を見るだけで時間が分かってしまうほどに、夜の生活にすっかり慣れきってしまっていた。

 右腕を失いまともな生活はもちろん勉強すら満足にできなくなったが、それまで高校時代に積み上げた実績のおかげで大学には受験せずに入学することができた。入学後、地元から逃げ出すように今のアパートに引っ越した。そう、逃げ出したかっただけだ。自分にまとわりつく友の亡霊から。夜な夜な自分を苛む過去の罪から。

 夜中に目を覚ますと、いつもこうして宛てもなく夜の街を徘徊している。

 何処に行くわけでも、会いたい人がいるわけでもない。

 会いたかった人は、もうとっくにこの世にいないのだから。

 腕を通っていない服の右袖を夜風が揺らす。時々すれ違う通行人は自分の右腕を見てわずかに表情を歪め、すぐに視線を逸らして足早に通り過ぎる。そんな他人の好奇の目にもすっかり慣れきっていた。


 ふと、小さな神社が見えてきた。

 人気のない、時代からも人々からも忘れ去られたかのようなこじんまりとした境内はどこか寂しさを感じさせる。恐ろしいほどに。

 そういえば、腕を失ってから神社に行ったことは一度もなかった。

 神に手を合わせて祈ることなど、今の自分にはもうできないから。

 それなのに神社の鳥居をくぐる自分は神様になんと言われるのだろう。この神社に奉られた神は、神に祈ることすらできない人間にも寛大なのだろうか。


「こんな時間に客とは珍しい」


 夜の神社で不意にかけられた声に、自分が何も思わなかったことが不思議だった。

 その声の主は神社の手水舎の小さな屋根の上に腰かけ、まるで世界のすべてを笑うような瞳でこちらを見据えている。若い男だった。歳は自分と同じくらいだろうか。月明かりに照らされたその顔は美しいを通り越して芸術的にすら見える。値踏みするかのような視線が少しだけ不快だったが、その目は風に揺れる自分の右腕を見ているわけではないようだった。


「どちら様ですか」


 人に声をかけたのは随分と久しぶりだ。


「近所の自販機で売っている綾鷹を買いにきた、善良な一般市民」


「その割には手ぶらのようですが」


「もう飲み干してしまったからね。でも喉の渇きがまだおさまらない。次は何を飲めばいいと思う?」


「手水舎の水でも飲んだらどうでしょう」


「神様がいらっしゃる神社の境内で随分と罰当たりなことを言うんだね」


「神様がいらっしゃる神社の手水舎の屋根でくつろいでいる貴方も随分な罰当たりだと思いますが」


「いいんだよ。神様は寛大だからね」


 変な人だ。

 そして胡散臭い。

 これ以上話をしていると不快感が募るだけだ。

 そう思い、面倒にならないうちに足早に神社を出ようと踵を返した時。


「おや。神様に誓いは立てないのかい?」


「誓い?」


「神社に来たということは、神様に誓いを立てに来たんじゃないのかい?」


「どうしてそうなるんですか?」


「最近の若い人たちはいろいろ誤解しているようだけれど、神社は神様に願いを聞いてもらう場所じゃなくて、神様に誓いを立てるための場所なんだよ。わざわざお賽銭を払ってね」


 誓い。神に誓うことなど何もない。

 期待などしてはいなかったが、願いを聞いてくれるわけでもない神様ならなおさら用はない。


「あいにく神様に願いたいことも誓いたいことも僕にはありません」


「その右腕をどうにかしたいとは思わないの?」


 やはりという思いが心を駆け巡る。初見で自分の右腕を見ない人と出会うのは久しぶりだったが、結局この人も自分の欠けた部分を見ていたのか。当たり前だろうという諦めと、どこか期待を裏切られたような憤りがない交ぜになった感情が自分に襲い掛かる。


「いくら神様でも失ったものを返してくれたりはしないでしょう。それにこの右腕は自分への罰です」


「罰?」


「……親友を救えなかった罰ですよ」


 それだけ言って境内を去ろうと歩を進める。


「その友達と右腕を返してあげることはできないけど、誓ってくれるのなら、その罰とやらを雪いであげることはできるよ」


「は?」


 突如かけられた言葉に半ば怒りを滲ませながら胡散臭い青年を睨みつけた。

 青年は相変わらず柔和な微笑みを湛えながら自分を見つめる。


「お賽銭は、もう貰っているからね」


「何を言っているんですか」


「君の右腕」


 そう言いながら青年はどこからか取り出した綾鷹のペットボトルのキャップを外し、残り少なくなったお茶を一気に飲み干した。

 夜の闇に紛れて気付かなかったが、その右腕にはどこか違和感があった。

 目立った傷があるわけではない、ごく普通の腕だが、月明かりに照らされた青年の白い肌とは不釣り合いなほど腕が日に焼けている。


 まるで、右腕だけが彼のものではないかのように。


「あなたは、何なんですか?」


「さっきも言ったでしょ。近所の自販機に綾鷹を買いに来た善良な一般市民だよ」


 笑いながらそう言う青年の正体に、自分はなんとなく気付いていた。

 にわかには信じがたいが、”そういう存在”は本当にこの世にあったのか。


「僕は、何を誓えばいいんですか」


「君の誓いは君が決めればいい」


「———分からないんです」


「分からない?」


「———もう、どうしたらいいのか分からないんです!!」


 それまでどこかに仕舞いこんでいたものが、すべて吐き出された。


「俺のせいであいつは死んで、あいつを救えなくて、右腕が無くなって、全部が変わった……。いろんな人から可哀そうな目で見られて、死んだあいつから毎晩毎晩責められて、自分が生きる意味も理由も資格もないって、ずっと……っ!」


 涙が止まらなかった。多くの人を惹きつけてきた完璧な自分の顔がどうしようもない悲しみと怒りで歪んでいることが分かった。

 自分は完璧なんかじゃない。

 友達一人助けることのできない、どうしようもなく無力な子供だ。

 完璧な人間なんてこの世のどこにもいない。


 神を前にして、自分はそう痛感する。


 境内で崩れ落ちる自分に、青年がゆっくりと歩み寄ってくる気配を感じる。

 いっそこのまま自分を地獄に送ってくれないだろうか。

 青年は静かに、自分もよく知っている右手を差し出した。


「なら君が誓うべきことは、生きることだ」


「え……?」


「生きることが、君に与えられた罰だよ。君が生きる意味と理由はそれだ。君には生きることで罰を受ける資格がある。罪を犯した人にできることなんて、それくらいしかないんだよ」


 視線を右腕から移すと、青年は今までの自分の人生で見たことがないような屈託のない笑顔を浮かべた。


「簡単だろう?」


 自分は、右腕と引き換えに命を繋いだ。

 失った右腕は、自分に与えられた罰。

 生きるという、罰。

 生かされたその意味を噛みしめる。


 差し出された懐かしいその腕を、残された左手でしっかりと掴む。

 あの時伸ばした右腕が掴んだものは、自分自身だったのかもしれない。

 そのまま優しく手を引かれて神社の賽銭箱の前に運ばれた。

 青年に促され、本坪(ほんつぼ)と呼ばれる大きな鈴を鳴らす。

 自分の左手に、青年が右手を合わせる。


 この日自分は、生きることを誓った。罪と共に。


「さて、生きることを誓ったところで、とりあえず自販機でお茶でも買ってきてくれるかな?」


 隣に立つ青年は優しくからかうような目でそう言った。

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右腕の誓い 棗颯介 @rainaon

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