エピローグ
「そういえば、知ってる? ゆり亡くなったって」
久々に斎藤の家にお邪魔して手料理をごちそうになったあと、食後のコーヒーを飲んでいるときに、莉央ちゃんが言った。
「ゆり?」
「吉井ゆり、覚えてない? 峯岸、昔付き合って――」
「あ、莉央それは」
斎藤が慌てたように止めに入る。
「いや、いいよ大丈夫」
「え、ごめん、ゆりの話題ってタブーだった?」
莉央ちゃんは夫と僕の顔を交互に見る。
「峯っちのプライベートな話だし、莉央も前は吉井とたまに会ってたから言わなかったんだけど……」
そう言いながら斎藤がこちらに目配せする。別に知られて困ることでもない、僕は小さくうなずいた。
「付き合ってたっていうか、峯っちが押し切られてしょうがなくだったんだよ。吉井が告白したファミレスで号泣したらしくて、その場をなだめるのにそうするしかなくて。で、まあ付き合ってるときも峯っちの嫌がること結構してきたって……だから正直俺、あんまり吉井にいいイメージなくてさ」
莉央の友達だから、とは思ったんだけど――と斎藤はなぜかしょげたように肩を落とした。
「あーそうだったんだ……ごめんね峯岸、嫌な話して」
「いや、ほんと大丈夫。別にそこまでひどいことされたわけでもないし。すっかり忘れてたよ、今名前聞くまで」
それは本当だった。名前を聞いた今でも、顔はぼんやりとしか思い出せない。十代から二十代前半にかけては、吉井のようなタイプの女性にゴリ押しされて、断りきれずに付き合って、勝手に幻滅されて別れる、ということが何度かあった。当時はたまに斎藤に愚痴ってしまうこともあったが、今となっては彼女のこともそういったよくある経験の一部に過ぎなかった。
しかし、吉井ゆりの名前を聞いて、一つだけ思い出したことがあった。別れるときのことだ。たしか彼女は、僕が嫌だと言っているのにしつこく身体的な接触を求めてきた。それで、もしそういうことをしたいなら別れてもいいんだと遠回しに伝えたところ、彼女はまた狂ったように泣いて、こう言い放ったのだ。
――じゃあ、最後にキスしてよ、私を捨てるんだったら。
その剣幕は凄まじく、僕は渋々キスをした。キス自体は初めてではなかったけど、やっぱり不快で、苦いような酸っぱいような味が喉に迫り上がったのを覚えている。
たしかに強烈な体験ではあったが、今では笑い話にもできる。莉央ちゃんが仲が良かったというから、この席ではもちろん口にしないけれど。
「でも亡くなったってどうして? 僕らの歳じゃまだ若いのに」
「それが、椅子から落ちて頭を打って、だって。部屋もいわゆるゴミ屋敷状態だったって……」
「ああ……」
悲惨な話だ。思わず口を覆う。
「私も結婚したくらいから向こうから連絡がなくなって疎遠になっちゃって。だからもう十五年くらいはどうしてるか全然知らなかったんだけどね……」
莉央ちゃんも黙り込んで、場が沈んだ空気になった。斎藤が気を効かせて「そうだ、ケーキもあるぞ」と席を立つ。
運ばれてきたケーキには「水無瀬陸先生祝映画化!」と書かれたプレートが乗っていた。水無瀬陸というのは僕のペンネームだ。
「おい、なんだよこれ」
思ってもみなかったサプライズに思わず照れ笑いする。
「今や大御所となった水無瀬先生の作品が初の実写化! こんなめでたいこと祝わずにおれますか?」
斎藤がおどける。
「私、お世辞抜きで大好きなんだよね『
「莉央ちゃんSFマニアだからなぁ。僕も脚本に関われることになってるし、満足いただけるよう頑張ります」
「なあ、キャスティングにも峯っちの意見って反映される? おれ一柳朱里ちゃんに出てほしいんだよ」
「それあんたが好きなだけでしょ!」
莉央ちゃんがツッコんで、僕たちはけらけらと笑いあった。
そしてその日を最後に、僕、峯岸裕が吉井ゆりについて思い出すことは、二度となかった。
おもいでのスイートキス ナツメ @frogfrogfrosch
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