なに。なんなの。どうして私がこんなに不幸にならないといけないの。なんなの。私が優しすぎるからいけないの。ただ普通の、まともな人生を送りたかっただけなのに。正直者は馬鹿を見るってことなの。世の中にはろくでもない人間ばっかりで、だから私にみたいな、優しくてまっとうな人間が損ばかりするの。

 息子は家を出てから一度も帰らないし、両親は二年前に亡くなった。実家からの仕送りがなくなって、遺産なんて雀の涙で、でもこの歳で正社員での就職なんてできるわけない。スーパーのパートを週五でやって、なんとか自分の面倒だけは見られている。職場では若い女子社員からも好かれる、綺麗で感じの良いお姉さんでいたいから、なけなしの給料の中から美容代を捻出している。見た目に気を使っているからか、店長がじっとりした目で見てくるのが嫌だけど、そんなのは慣れているから笑って受け流す。

 こんなに自分をすり減らして、へとへとになって帰ってきても、迎えるのはがらんとした静寂だけで。

 ――いや、それだけじゃない。

 カーテンを締め切った部屋の暗がりの、隅。あのときはまだぼんやりとしていた影は、いまやはっきりと男のかたちを作っている。

 峯岸くん。

 すっと通った鼻筋も、わずかにつり上がった目尻も、あの頃と何も変わらない。ぞっとするほど美しい顔で、私を見つめている。最後に見たときと同じ顔。眉を下げた、せつなそうな顔で。あれは湊、ちがう、峯岸くん。

 何もしない。ただ、見ている。ひとときも目を離さずに、ずっと見ている。年老いて、くたびれて、ひとりぼっちの私を。

 あんなに好きだったはずのその顔が、今ではおぞましく思える。見るな。私を見るな。その美しい顔が私を惨めにする。晒し上げられて、嘲笑わらわれているようだ。やめろ。見るな見るな見るな。

 そう思っても口に出しても、変わらなかった。彼は消えないし、私から視線を逸らさない。ものを投げても、直接殴ろうとしてみても、気づいたら別の隅にいて、あの目で私を見ている。

 見透かされているようだ、と感じる。腹の中まで、私の内臓の中までも暴き立てるような目。でも、何を? 見られて困るような腹の中が私にはあるの? 

 なにもない。私はいつでも正直に向き合ってきた。私の選択が間違っていたなんて思わない。疚しいところなんてなにもない。

 なのに、なぜ。

 その目で見られると、なぜこんなに不安になるの。焦燥感で喉をかき毟りたくなるような、心臓を内側から引っかかれるような、そんな感覚になるの。

 かぶりを振ってふっ、と強く息を吐いた。視界には入っているけれど、そちらをする。

 空になった惣菜のパックをよけて、溜まった郵便物を手に取った。チラシ。チラシ。DM。督促状。

 ああ、そうだ。先月、手持ちがなくてカードを使って、でも結局今月になっても支払える目処はなかった。

 アプリを開き湊にメッセージを送る。帰ってこないけれど、お金は振り込んでくれる。あの子は根っこはそういう優しい子なのだ。親を見捨てたりはしない。

 三万円貸して、というメッセージを送ってから、数週間前に送った「調子はどう?」というメッセージが既読になっていないことに気づいた。いつもほとんど返事はくれないけど、既読にすらならないことはこれまでなかった。

 不審に思ってアプリの通話ボタンを押す。コール音が鳴るが出ない。胸がざわつく。あの頃のことを嫌でも思い出してしまう。一晩中あの子の番号をコールし続けた地獄の日々。

 怖くて、でも確かめたくて、今度はアプリではなく電話をかける。湊の番号をタップして耳に当てる。

『おかけになった番号は現在使われておりません』

「は」

 思わず声が漏れていた。その意味が飲み込めるまで、数秒か、数十秒かかった。

 そうしてようやく理解したのは、あの子が電話番号を変えた、ということ。私に知らせずに。つまり、私は今、湊と連絡を取るすべがない。

 ――捨てられた。

 私は、腹を痛めて産んだ実の息子に、捨てられたのだ。


 唯一の肉親に捨てられて、私はついに、本当にひとりぼっちになってしまった。


 その事実は脳みそからじわじわと全身を侵食していき、そしてつま先までその絶望が行き渡ったところで、何かが切れた。

「ねえッ、何なのよッ!?」

 立ち上がり左手に握っていた督促状を部屋の隅、あの人影に向かって投げつけた。紙は風を受けて、手前の中途半端な位置で舞って落ちる。その向こうに、あのせつなそうな、いや、哀れむような顔の峯岸くんが立っている。

「私が何をしたっていうのッ」

 もし、人生でひとつだけ間違えたことがあるとしたら。


 あなたを捨てたことだとでも言うの。ねえ、峯岸くん。


 私、あなたにそんなに恨まれるようなことをした? あなたと別れてから私の人生はおかしくなったんだよ。初恋の相手があなたみたいな不能者で、私がどんなにがっかりしたかわかる? でも私はあなたを愛そうと努力したし、実際愛したじゃない。結局あなたは私に歩み寄らずに、私ばかりが我慢して。だからあの別れはしょうがないことじゃない。あなたは私をんだから。それで、出鼻をくじかれて、そこから転落が始まったんだ。一番最初につまずいてしまったから。ろくな男と付き合えなくて、友達も離れていって、そして最愛の息子まで。ねえ、そこまでして私に仕返しをしたいの? 私をひとりぼっちにしてざまあみろって思ってんの?

 そうまくし立てているうちに、彼の輪郭が濃く、はっきりとしてきた。透けたようだったその姿は、今では血の気を感じられるほどにリアルで、実体を持っているとしか思えない。

 みずみずしいほど赤い唇に魅入られていると、ぴく、とその口角が動いた。

 そして、一歩。

 彼がこちらに向かって足を踏み出した。

 ひっ、と声にならない悲鳴が漏れる。ずっとそこにいただけだったのに。ただ見ていただけだったのに。

 殺される、と思った。

 じり、と後ずさると、ゴミ袋に足を取られた。転んだ先にも別のゴミ袋があってクッション代わりになったが、埋もれてしまってすぐに立ち上がることができない。

 彼は、峯岸くんは表情を変えないまま、ゆっくり一歩、また一歩と近づいてくる。せつなそう、悲しそう、哀れんでいる――表情が読み取れない。でも危害を加えようという顔には見えなくて、だから余計に怖い。

 どうしよう。どうしよう。心臓がバクバクして、動けない。

 なぜ峯岸くんは私に執着するの。こんな、人でないものになってまで。どうして? 私と別れたのがそんなに辛かった?


 私のことが、そんなに好きだったの?


 最後にしたキス、あのキスが、あなたのことを変えたの? 女を愛せる、まともなあなたに変わったの? それなのに私が、女を教えた私が別の男と付き合ったから、それで私を恨んでいるとでも言うの?

 だとしたら、どうやったら消えてくれるの。私の人生からいなくなってくれるの。私のまともな人生を返してくれるの。あなたは私にどうしてほしいの。ねえ出てってよ、返してよ。私のことが好きなら私の幸せを返してよ!


 ――峯岸といえば、作家になったらしいね。


 突然、そんな声が脳内に響いた。

 そうだ、小説。峯岸くんが書いた小説。結局読まずに、どこかに置いてそのままになっている。もしかしたら、あの小説に答えがあるのかもしれない。そんなに私に未練があるなら、きっと私のことを書いているに違いない。彼が私に何を求めているのか、わかるかもしれない。

 あと三歩ほどの距離にまで迫った峯岸くんの後ろ、その棚の上に確か未整理の書類と一緒に放り込んだはず。

 一歩。端正な顔がもう目の前にある。産毛まで見えるようにリアルだが、やっぱりこれは生きていない。だって、一度も瞬きをしていない。ぽっかり開いた目で私を見詰めている。

 口に溜まった唾液を飲み込んで、一か八か、それの脇をすり抜けた。

 椅子を引っ掴んで棚の前に置く。その上にのぼる。棚の上にいくつかの箱がある。人影は、峯岸くんはどうなってる? 振り返っている暇はない。左から箱を少し引いて、記憶と照らし合わせる。たしか緑の線が入ったダンボールだったんじゃないか。違う。これも違う。三つ目の箱を引くと、緑の線が見えた。これだ。力任せに箱を引っ張る。

 その瞬間、ぐらり、と足元が揺れた。


 さかさまになる視界で、目の前に立つ峯岸くんは、笑っていた。

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