湊が帰ってこない。何度電話をかけても出ない。

 もう何回、こんなことを繰り返しただろう。最初は、日付が変わる頃には帰ってきて、あの子は「ごめんなさい」と言った。私は何も言わずに、それを許してあげた。もう二度とこんなことはしないだろうと思っていたのに。

 一週間後だった。たった一週間。湊はまた門限を破った。連絡もつかない。事故にでも遭ったのか、それとも――最悪の想像が頭を支配して離れない。泣いて、吐いて、一睡もできないまま空が白んだ。

 いつも起き出してくる時間に、あの子は帰ってきた。私はあの子を叩いた。自分の子供が、死んだかもしれない――その恐怖に、たった独りで一晩向き合った私の苦しみに比べれば、これくらいの暴力はなんてことない。二度と門限を破らないという誓約書を書かせて、しばらくは湊もおとなしかった。元通りの、素直ないい子。私の湊。でもそれも長くは続かなかった。


 あの日、あの子のスマホを見なければ良かったのだろうか。いや、遅かれ早かれわかっていたことだ。それに湊はまだ子供なんだから。私が守ってあげなくちゃいけないんだから。

 湊の入浴中に、私はあの子のスマホをチェックする。最近はお風呂にまで持って入っているが、今日はあまりに暑いから、シャワーで済ませると自室に置いていった。暗証番号は私が変えてある。あの子はいつも指紋認証でロック解除するから、番号が変わっていても気づかない。

 危ない友達と付き合っていないか、変な動画やサイトを見ていないか、それをチェックするだけ。親としてごく当たり前のことだろう。

 一度無断外泊したとはいえ、湊のことは信用している。だからこれは、問題を発見するためではなく、問題がないことを確認するための作業だ。

 いつもどおりにチェックをしていく。メッセンジャーや動画アプリの履歴は問題なし。あとはブラウザの履歴だけ。アプリを立ち上げて、開いているウィンドウを一覧表示する。と、なにか違和感があった。

 視界の端のその違和感にピントを合わせる。

「プライベートモード」

 そう書いてあった。いつもこんなアイコン出ていただろうか?

 タップすると、別のウィンドウ一覧が表示される。開いているウィンドウは一つ。そのタイトルを見て、私の心臓は跳ね上がった。


 髪を拭きながらダイニングを通り過ぎようとした湊を呼び止める。テーブルには彼のスマホ。それを認めて、湊は眉をひそめた。反抗期の息子にとって、親にスマホを見られるのは気分が良いものではないだろう。だから私はできる限り湊に寄り添おうと思っている。隣に座らせて、息子の目を見る。

「湊、湊がプライベートモードで見てたやつね」

 切り出すと、一気に顔色が蒼白になる。やっぱり、あれは消し忘れだったのだろう。今にも震えだしそうな湊の肩に手を置いて、優しく撫でる。

「あのね――ママ、そういうのに全然偏見ないよ。ママが湊くらいの歳の頃も、周りにそういうのに興味あるって子、いたし。興味本位でああいう動画見るのは……まあ正直に言えばちょっとびっくりしたけど、程々にしときなさいね」

 柔らかい声音を意識して、なだめるようにそう言った。こういうことは頭ごなしに言っても逆効果だろう。なにより私は、理解ある母親なのだから。

 湊は真っ白の顔のままうつむいている。長いまつげがふるふると震える。私に似て、どちらかと言えば女性的なかわいらしい顔立ち。自慢だったそれが、まさか不安の種に変わるとは。

 口に溜まった唾液を飲み込んで、私は訊いた。

「それで……まさか湊、男の子とそういうことしてないよね……?」

 弾かれたように顔を上げた。

 眉を下げて、目を見開いて、唇を戦慄かせて、息子は小刻みに首を横に振った。

 ああ――。

 良かった、と大きなため息が出る。身体から緊張が一気に抜ける。

「安心した。そういう人には偏見ないけど、やっぱり湊にはな人生を歩んでほしいの」

 微笑んでそう言ったけれど、湊はまだ眉を下げて、困ったような、悲しそうな顔のままだった。

 その顔を見たら、鈍い頭痛のような、何かを思い出しそうな、そんな妙な感覚がした。


 次の日、湊はまた門限を破った。

 私は一分と開けずに繰り返し電話をしたが、全く出ず、翌朝も帰ってこない。結局帰ってきたのは次の日、学校が終わってからだった。

 もちろん私は怒った。叩いて、ものを投げて、叱りつけた。だけど湊は、見たこともないような冷たい目で私を見て、一言も口を利かずに部屋に入っていった。

 身体の中でマグマが渦巻くようだった。嘘を吐いた。あの子は、湊は私に嘘を吐いていたのだ。

 湊は、私に隠れて、男と寝ているのだ。

 そう確信した途端、胃がおかしくなって、すべてのものが逆流して、私はトイレに駆け込んだ。

 吐く。吐く。胃酸が鼻に入ってぢんとする。それでも吐き気は止まらない。

 気が狂いそうだった。理解したくなかった。不潔。気持ち悪い。最低。

 私は馬鹿だ。最初に門限を破ったあの日も、無断外泊したあの日も、男友達と一緒だったと言っていたから油断した。何がだ。一緒に何をしていたと言うんだ。あのゲイポルノ動画を見つけたときに、気づくべきだった。

 息子が男とセックスしているなんて。息子が、女を愛せないなんて。

 吐瀉物と鼻水と涙で顔がぐしゃぐしゃになった頃、突然、あの鈍い頭痛の正体がわかった。

 古い古い記憶。ほこりを被ったその記憶が引っ張り出された感覚。

 ――あのときの湊の顔は、峯岸くんに似ていたのだ。

 女を愛せない男。

 峯岸くんだけでなく、たったひとりの息子まで。私が大好きだった二人の男が、揃ってまともじゃないなんて。

 これは、呪いなのだろうか。

 峯岸くんを捨てた私への、呪いなのだろうか。あるいは生霊とか、もしかしたらもう死んでいるのかもしれないけど。

 とにかく、私の不幸は、全部全部、峯岸くんの呪いなんじゃないだろうか。

 そう思ったら、背筋がぞくりとした。

 顔がどろどろですぐに上げられないから、後ろを振り返ることができない。でも、

 見られている――。

 そんな気がした。

 ぞくぞくという悪寒に耐えてトイレットペーパーを手に取り、口を拭いてやっとは背後を振り返る。

 もちろん、そこにはトイレのドアがあるだけだった。


 それ以来、湊は家に寄り付かなくなった。明け方に帰ってきて着替えだけを済ませることがほとんどだ。たまに家に帰ってきても私とはほとんど口を利かない。

 それでも、私は毎日電話をかける。誓約書を書いたのだから。高校卒業までは絶対に門限を守ると約束したのだから。悪いのはあの子だ。

 あれからほとんど眠れていない。当たり前だ。息子が男とセックスをしているのに、寝ていられるわけがない。

 電話を鳴らしてメッセージを何度も何度も送って、ストレスで何か口に入れないと落ち着かず、食べては吐き……を繰り返す。

 そうしているうちに、部屋の隅に誰かいることに気がついた。

 視界の端、湊の部屋のドアの前にぼんやりと人影がある。すらりとした男だ。そちらに目を向けると消えてしまう。でも、別のところに焦点を合わせて、視界ギリギリに入れると、やはりそれはいる。

 不気味だからドアから目を離さないようにすると、今度は後頭部や首筋にプツプツと嫌な感触がある。見られている。私の、すぐ後ろにいる。

 声はしない。ただ、わかる。それは私を嘲っている。

 ――私が不幸になって、そんなに楽しいの。

 そう叫びだしそうになるのを堪える。気を紛らわすためにクッキーを食べる。もう二箱食べきってしまった。チリチリと視線が刺さる。見るな。

 ガチャ、と玄関の開く音がして、細く光が差し込んだ。

 反射的に立ち上がり、玄関までの数歩の距離を走る。

 そのままの勢いで後ろ手にドアを閉めた湊の頬を打った。

「門限は九時って何度言ったらわかるの! どこに行ってたの! また男のところだろ! 不潔! 最低! ホモ! クズ!」

 殴り続ける手が痛くて、喉も切れそうだ。それでも止まらない。湊はしばらく黙って立ち尽くしていたが、顔を殴ろうと拳を上げると、左手でそれを制してきた。

 無言のまま私を押しのけて自室に向かう。その背中に私は、思いつく限りの罵倒を浴びせかける。

「あのさあ」

 久しぶりに、湊の声を聞いた。

「もう出てくから」

 そしてぱたん、とドアが閉まった。

「はあ!? 約束守れ! 気持ち悪いんだよ! この人でなし! あんたなんか私の子供じゃない! 出来損ない! 異常者! 死ね! 死んじゃえ!」

 バンバンバンバン! ドアを叩きながらそう叫ぶ。

 ふん、と耳のすぐ後ろから鼻で笑う声がした、気がした。

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