3
湊が帰ってこない。何度電話をかけても出ない。
もう何回、こんなことを繰り返しただろう。最初は、日付が変わる頃には帰ってきて、あの子は「ごめんなさい」と言った。私は何も言わずに、それを許してあげた。もう二度とこんなことはしないだろうと思っていたのに。
一週間後だった。たった一週間。湊はまた門限を破った。連絡もつかない。事故にでも遭ったのか、それとも――最悪の想像が頭を支配して離れない。泣いて、吐いて、一睡もできないまま空が白んだ。
いつも起き出してくる時間に、あの子は帰ってきた。私はあの子を叩いた。自分の子供が、死んだかもしれない――その恐怖に、たった独りで一晩向き合った私の苦しみに比べれば、これくらいの暴力はなんてことない。二度と門限を破らないという誓約書を書かせて、しばらくは湊もおとなしかった。元通りの、素直ないい子。私の湊。でもそれも長くは続かなかった。
あの日、あの子のスマホを見なければ良かったのだろうか。いや、遅かれ早かれわかっていたことだ。それに湊はまだ子供なんだから。私が守ってあげなくちゃいけないんだから。
湊の入浴中に、私はあの子のスマホをチェックする。最近はお風呂にまで持って入っているが、今日はあまりに暑いから、シャワーで済ませると自室に置いていった。暗証番号は私が変えてある。あの子はいつも指紋認証でロック解除するから、番号が変わっていても気づかない。
危ない友達と付き合っていないか、変な動画やサイトを見ていないか、それをチェックするだけ。親としてごく当たり前のことだろう。
一度無断外泊したとはいえ、湊のことは信用している。だからこれは、問題を発見するためではなく、問題がないことを確認するための作業だ。
いつもどおりにチェックをしていく。メッセンジャーや動画アプリの履歴は問題なし。あとはブラウザの履歴だけ。アプリを立ち上げて、開いているウィンドウを一覧表示する。と、なにか違和感があった。
視界の端のその違和感にピントを合わせる。
「プライベートモード」
そう書いてあった。いつもこんなアイコン出ていただろうか?
タップすると、別のウィンドウ一覧が表示される。開いているウィンドウは一つ。そのタイトルを見て、私の心臓は跳ね上がった。
髪を拭きながらダイニングを通り過ぎようとした湊を呼び止める。テーブルには彼のスマホ。それを認めて、湊は眉をひそめた。反抗期の息子にとって、親にスマホを見られるのは気分が良いものではないだろう。だから私はできる限り湊に寄り添おうと思っている。隣に座らせて、息子の目を見る。
「湊、湊がプライベートモードで見てたやつね」
切り出すと、一気に顔色が蒼白になる。やっぱり、あれは消し忘れだったのだろう。今にも震えだしそうな湊の肩に手を置いて、優しく撫でる。
「あのね――ママ、そういうのに全然偏見ないよ。ママが湊くらいの歳の頃も、周りにそういうのに興味あるって子、いたし。興味本位でああいう動画見るのは……まあ正直に言えばちょっとびっくりしたけど、程々にしときなさいね」
柔らかい声音を意識して、なだめるようにそう言った。こういうことは頭ごなしに言っても逆効果だろう。なにより私は、理解ある母親なのだから。
湊は真っ白の顔のままうつむいている。長いまつげがふるふると震える。私に似て、どちらかと言えば女性的なかわいらしい顔立ち。自慢だったそれが、まさか不安の種に変わるとは。
口に溜まった唾液を飲み込んで、私は訊いた。
「それで……まさか湊、男の子とそういうことしてないよね……?」
弾かれたように顔を上げた。
眉を下げて、目を見開いて、唇を戦慄かせて、息子は小刻みに首を横に振った。
ああ――。
良かった、と大きなため息が出る。身体から緊張が一気に抜ける。
「安心した。そういう人には偏見ないけど、やっぱり湊にはまともな人生を歩んでほしいの」
微笑んでそう言ったけれど、湊はまだ眉を下げて、困ったような、悲しそうな顔のままだった。
その顔を見たら、鈍い頭痛のような、何かを思い出しそうな、そんな妙な感覚がした。
次の日、湊はまた門限を破った。
私は一分と開けずに繰り返し電話をしたが、全く出ず、翌朝も帰ってこない。結局帰ってきたのは次の日、学校が終わってからだった。
もちろん私は怒った。叩いて、ものを投げて、叱りつけた。だけど湊は、見たこともないような冷たい目で私を見て、一言も口を利かずに部屋に入っていった。
身体の中でマグマが渦巻くようだった。嘘を吐いた。あの子は、湊は私に嘘を吐いていたのだ。
湊は、私に隠れて、男と寝ているのだ。
そう確信した途端、胃がおかしくなって、すべてのものが逆流して、私はトイレに駆け込んだ。
吐く。吐く。胃酸が鼻に入ってぢんとする。それでも吐き気は止まらない。
気が狂いそうだった。理解したくなかった。不潔。気持ち悪い。最低。
私は馬鹿だ。最初に門限を破ったあの日も、無断外泊したあの日も、男友達と一緒だったと言っていたから油断した。何が男友達だ。一緒に何をしていたと言うんだ。あのゲイポルノ動画を見つけたときに、気づくべきだった。
息子が男とセックスしているなんて。息子が、女を愛せないなんて。
吐瀉物と鼻水と涙で顔がぐしゃぐしゃになった頃、突然、あの鈍い頭痛の正体がわかった。
古い古い記憶。ほこりを被ったその記憶が引っ張り出された感覚。
――あのときの湊の顔は、峯岸くんに似ていたのだ。
女を愛せない男。
峯岸くんだけでなく、たったひとりの息子まで。私が大好きだった二人の男が、揃ってまともじゃないなんて。
これは、呪いなのだろうか。
峯岸くんを捨てた私への、呪いなのだろうか。あるいは生霊とか、もしかしたらもう死んでいるのかもしれないけど。
とにかく、私の不幸は、全部全部、峯岸くんの呪いなんじゃないだろうか。
そう思ったら、背筋がぞくりとした。
顔がどろどろですぐに上げられないから、後ろを振り返ることができない。でも、
見られている――。
そんな気がした。
ぞくぞくという悪寒に耐えてトイレットペーパーを手に取り、口を拭いてやっとは背後を振り返る。
もちろん、そこにはトイレのドアがあるだけだった。
それ以来、湊は家に寄り付かなくなった。明け方に帰ってきて着替えだけを済ませることがほとんどだ。たまに家に帰ってきても私とはほとんど口を利かない。
それでも、私は毎日電話をかける。誓約書を書いたのだから。高校卒業までは絶対に門限を守ると約束したのだから。悪いのはあの子だ。
あれからほとんど眠れていない。当たり前だ。息子が男とセックスをしているのに、寝ていられるわけがない。
電話を鳴らしてメッセージを何度も何度も送って、ストレスで何か口に入れないと落ち着かず、食べては吐き……を繰り返す。
そうしているうちに、部屋の隅に誰かいることに気がついた。
視界の端、湊の部屋のドアの前にぼんやりと人影がある。すらりとした男だ。そちらに目を向けると消えてしまう。でも、別のところに焦点を合わせて、視界ギリギリに入れると、やはりそれはいる。
不気味だからドアから目を離さないようにすると、今度は後頭部や首筋にプツプツと嫌な感触がある。見られている。私の、すぐ後ろにいる。
声はしない。ただ、わかる。それは私を嘲っている。
――私が不幸になって、そんなに楽しいの。
そう叫びだしそうになるのを堪える。気を紛らわすためにクッキーを食べる。もう二箱食べきってしまった。チリチリと視線が刺さる。見るな。
ガチャ、と玄関の開く音がして、細く光が差し込んだ。
反射的に立ち上がり、玄関までの数歩の距離を走る。
そのままの勢いで後ろ手にドアを閉めた湊の頬を打った。
「門限は九時って何度言ったらわかるの! どこに行ってたの! また男のところだろ! 不潔! 最低! ホモ! クズ!」
殴り続ける手が痛くて、喉も切れそうだ。それでも止まらない。湊はしばらく黙って立ち尽くしていたが、顔を殴ろうと拳を上げると、左手でそれを制してきた。
無言のまま私を押しのけて自室に向かう。その背中に私は、思いつく限りの罵倒を浴びせかける。
「あのさあ」
久しぶりに、湊の声を聞いた。
「もう出てくから」
そしてぱたん、とドアが閉まった。
「はあ!? 約束守れ! 気持ち悪いんだよ! この人でなし! あんたなんか私の子供じゃない! 出来損ない! 異常者! 死ね! 死んじゃえ!」
バンバンバンバン! ドアを叩きながらそう叫ぶ。
ふん、と耳のすぐ後ろから鼻で笑う声がした、気がした。
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