「別れれば?」

 目の前に座る莉央はアイスコーヒーを飲み干して言った。

「莉央っていつもそれ」

「こっちのセリフなんだけど」

 短く揃えてシンプルなネイルを施した爪でストローをつまみ、グラスに残った氷をカラカラと回していたが、「買ってくる」と言って莉央は席を立ってしまった。

 一人残された私は、自分のグラスに手を伸ばす。ほとんど減っていないそれはすっかり汗をかいていて、机の上に水たまりを作っていた。

 大学の友人とはほとんど疎遠になってしまい、唯一未だに交流があるのが莉央だ。サバサバとした性格で歯に衣着せぬ物言いなのが、どちらかといえば引っ込み思案の私からすると憧れもしたが、最近ではその無遠慮さがすこし付き合いづらいように感じている。

 今も、私の話を聞いているのかいないのか、ぐびぐびとコーヒーを飲み、ときおりスマホを確認していた。そして話し終わって開口一番言ったのが、「別れれば?」だ。

 思い返してみると、莉央はこれまで一度も私の恋愛を応援してくれたことはないんじゃないだろうか。いつも「別れろ」だの「やめとけ」だのとネガティブなことばかり言ってくる。友達のくせに、とも思うし、ひょっとすると、嫉妬なのだろうか。私は莉央の彼氏の話をほとんど聞いたことがない。

「おまたせ」

 戻ってきた莉央の手には、アイスティーの入った新しいグラスがあった。飲み終わっても一杯で粘ればいいのに、莉央はいつも二杯目、時には三杯目の飲み物を注文する。浪費的な性格だな、と思う。もちろんそんなこと、おくびにも出さないけど。

「ねえ、私の話ちゃんと聞いてた?」

「聞いてたけど……結局いつもと一緒じゃん」

「一緒って何が」

「付き合って最初は顔が良くて優しいってのろけて、でも二、三ヶ月経ったらあれをしてくれないこれをしてくれない、でも私は好きだから我慢してるけど辛いって文句言うやつ」

「ひっどい! だいたい正哉はこれまでの彼氏と全然違うし――」

「それも毎回言ってる」

 ていうかさ、と言いながら莉央はガムシロップのポーションを開ける。

「男と遊んでないで子供の世話ちゃんとしなよ、いい加減」

 どろりと粘度の高い透明の液体が、グラスの底に沈んでいく。

「遊んでないもん。湊にだってお父さんが必要だから……」

 本心であるはずなのに、言い淀んでしまう。正哉――今付き合っている男――は、顔は好みだし物腰は柔らかいが、ケチくさくて軽薄なところがある。それに、最初の頃のような優しさはもうなくて、たとえばこの間のように、やることをやったらさっさと帰ってしまったりする。本人は仕事が忙しいと言っていて、フリーランスのプログラマーだから、きっとそれは事実なんだと思う。でも、正哉が忙しくなったのは、私が息子の、湊の話を打ち明けてからのような気もする。

「ほんとに男見る目ないよね」

 私の気も知らず、莉央が言う。友達とはいえ、言って良いことと悪いことはあるんじゃないか。心臓が毛羽立つような苛立ちを感じる。

「峯岸の時からすこしは成長しなさいよ、あんたは」

 峯岸。

 その名前が出て、ぎくりとする。

 ――峯岸くん。あの、初恋の、美しい横顔の彼。

 ついこのあいだまで忘れていたのに、思い出してすぐにその名前を聞いたのが、なぜか後ろめたいような気がした。

「あの時も私はやめとけって言ったのに、聞きやしないんだから。まあでもあれは峯岸の方も――」

「峯岸くんのこと悪く言わないで」

 思わずそう口走ると、莉央はきょとんとして幾度か目を瞬かせたが、小さく肩をすくめてストローをくわえた。私もつられて自分のアイスラテを飲む。すっかりぬるくなっている。

「あ、そうだ、峯岸といえば、作家になったらしいね」

「え?」

「え? 知らないの?」

 知らなかった。

 峯岸くんとは、別れて以来全く連絡も取っていない。共通の友人ともつながりがないから、知るよしもなかった。

「昔から小説家になりたいって言ってたもんね。夢叶えてさ、立派だよ」

 ――昔から?

「なんで、そんなこと知ってるの?」

「あ、斎藤から聞いた。峯岸とわりと仲良かったじゃん、あいつ」

 私が聞いたのは小説家になったことではなく、昔から作家になりたかったというところだが、伝わらなかったらしい。斎藤、というのは私たちの同級生の男子だ。私はほとんど話したことがなかったが、言われてみれば莉央とは時々話していたような気がする。

「……あのさ」

 莉央が改まって、神妙そうに切り出す。なんだろう。またおせっかいな小言を言われるのだろうか。

「私、斎藤と結婚するんだよね、っていうか、したんだよね」

 だから私も斎藤なんだけど、と言って莉央は、ショートボブの髪を耳にかけてごまかすようにへへへ、と笑った。

 今度は私がきょとんとする番だった。

「お――おめでとう。え、そんな話ぜんぜんなかったじゃん、あの斎藤くんでしょ? いつから付き合ってたの?」

「結構長いよ、五年くらい。同窓会で久々に会ったんだけど、そっか、あのときあんたいなかったっけ」

「なんで言ってくれなかったの!」

「だって、ゆりいつも自分の話ばっかで私に興味ないじゃん。私も別に言いたい方じゃないし、聞かれなかったから」

 じゃあ、正哉と付き合い出した時も、勇斗――湊の父親――と別れた時も、その前も、その前の前も、私が恋に悩んで、傷ついて、その相談をしているとき、莉央はそれを聞いて冷たく「別れろ」だなんて言いながら、自分はずっと付き合っている恋人と幸せにやっていたということ?

 自分が幸せだから、私の不幸を見下していたってこと?

 まぶたがかぁっ、と熱くなった。羞恥。怒り。友達だと思っていたのに、裏切られた。

 しかし、その熱もすぐにすっと引く。頭がいやに冴え渡る。

「へぇー、とにかくおめでとう! 良かったね」

 私はにっこりと笑ってみせる。莉央も「ありがとう」と笑う。でもなぜだか困ったように眉を下げていて、峯岸くんの下がった眉毛を思い出しそうになって、慌てて目をそらした。


 峯岸くんのペンネームとデビュー作のタイトルを聞いて、莉央と別れた。もう二度と会わないだろう。今後連絡が来ても無視するつもりだった。

 帰りに峯岸くんの本を買った。本屋で本を買うのなんて何年ぶりだろう。学生時代以来かもしれない。そうしたら十年以上ぶりだ。

 駅から家に向かって歩いているときに、そういえば峯岸くんは読書が好きだと言っていたのを思い出した。旅行の移動中に本を読もうとしていたが、私といるのにひどい、って怒ったことがあった。その時はごめんと謝って仕舞ってくれたけど、列車の揺れにすこしうとうとして目覚めたら、また本を広げていて、私が目を覚ましたのに気づきもしないから、泣いて責めたんだった。それ以来、峯岸くんは私といるときに本を読まなくなった。

 ――夢があるなら、言ってくれればよかったのに。

 家に着くと、今朝湊が遊んだおもちゃが出しっぱなしになっていた。そろそろ実家に迎えにいかないと、またうるさく言われるだろう。

 私はため息をついて、本屋の袋をその辺に放って、おもちゃを拾い集めた。

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