おもいでのスイートキス

ナツメ

 目が覚めたら、ひとりぼっちだった。

 いつものことだ。裸のままベッドを抜け出して、飲みかけのミネラルウォーターを探す。

 二本あったはずのうちの一本がなくなっていて、わざわざ持っていったのか、と思ったら、嘲るような笑いが鼻から漏れた。

 ――貧乏臭い男。

 ラブホの無料の水をわざわざ持っていくって。でも彼は前からそうだった。

 というか、男なんてみんなそうじゃないか? これまで付き合った男たちの顔を思い出そうとするが、全員ぼやけている。

 ただ、全員、何かしらの欠点があって、あんまり好きになれなくて、でも私だって別にめちゃくちゃいい女ってわけじゃないのわかってるから妥協して付き合って。

 それでも、私は分不相応に、少し不幸がすぎるんじゃないか、と思うことは、わりとある。

 ぼやけた顔の走馬灯の終着地点に、ひとりだけ顔のくっきりとした男がいて、自分で驚いた。

 美しく整った、中性的なかお。優しい笑顔。

 ああ、そうだ。

 はじめて愛した彼。私を愛することができなかった彼。

 彼だけは、他の男と違ったのだ。


 大学生の頃、同じ学部で同い年の彼に、私は一目惚れした。

 その美しい横顔に、愛くるしい笑顔に釘付けだった。幸い、友達は多い方だったから、彼と仲の良い男子に紹介してもらって、すぐに一緒に遊ぶようになった。

 告白したのは私から。十八の私にとっては一大決心だった。男の子と付き合ったこともなかったし。

「好きです!」という、なんのひねりもない不格好な告白に、彼は弓なりの眉を下げて、少し困ったような顔をした。

 そうして、言ったのだ。

 ――自分には性欲がない、と。

 私のことは好きだけど、セックスはできない、キスもしたくはない、と。

 それは、まだたった十八歳の少女に対して、あまりに残酷な告白だったように思う。それでも私はそれを受け入れた。彼のことが大好きだったから。

 そうして彼と付き合いだして、最初のうち、私はとても幸せだった。彼は旅行好きで、色んな所に連れて行ってくれた。付き合ってすぐに泊りがけの旅行に誘われたときはすごくドキドキしたけど、何もなかった。そういうとき、私は自分に女の価値がない、と言われているようで、それは心に小さな引っかき傷を残したけれど、それでも彼の嬉しそうな笑顔が見られればそれで良かった。

 だけど、そんな無理がずっと続くわけもない。

 彼も、きっとそれに気付いていたんだろう。彼の部屋で、この間の京都旅行の写真を見ているときに、ポツリと言った。

 ――無理に付き合わなくても、いつ別れてもいいんだよ、と。

 他の女の子に心変わりしたとかではないと確信があった。私と彼は、心の底では深く愛し合っていた。でも、体の方は、かなしいことに噛み合わなかったのだ。

「じゃあ」と私は言った。「じゃあ、最後にキスをして」

 眉を下げたその顔は、告白したときと一緒で、せつなそうだけどとびきりきれいで。

 最初で最後のそのキスは、ひどく甘かったのを憶えている。


 無意識に唇に触れていた。あのキスを思い出すと、いまでも胸がぎゅう、と締め付けられる。

 彼は、何かが欠けているのだと思った。普通なら持つべき情熱のようなものが、彼には生まれつきなかったのだろう。幼い私はそれに耐えられずに、少しして年上の情熱的な男性と付き合った。その人に抱かれるのは嫌じゃなかったのに、なぜか彼のあの涼し気な横顔がちらついて、私は隠れて涙を拭った。

 ――今になって思う。彼はわけではなかったのではないか。

 だって、他の男達もみな、どこか欠けているのだ。それならば、彼に欠けていたものは、実は些細なものだったのではないか?

 あの頃の彼がそうだっただけで、あのまま私と付き合い続けていたら、キスだって、セックスだってできたかもしれない。

 実際、私にはキスをしてくれたのだ。

 きっと、私が彼を受け入れてあげるべきだったのだ。時間をかけて、ゆっくりと変わっていけばよかったのだ。

 もし、今の私のこの、分不相応な不幸に理由があるとすれば、それは彼を捨ててしまったことなのかもしれない。

 あのとき彼と別れなければ、きっと私は今頃、幸せだったはずなのだ。

 頬を拭ってから、涙が流れていたことに気付いた。

 ぶぶ、とスマートフォンの鳴る音で我に返る。母からだった。

 預けている息子のことだろう。早く帰ってこいといつものねちねちした小言に違いない。

 ようやく、一本だけ残されたペットボトルを手に取る。持った瞬間、手のひらにぬるい温度が伝わって、不快になる。

 ――息子の父親がいなくなって、そいつに限らず付き合う男はみなうっすらとクズで、今の男もご多分に漏れずせせこましいやつで、昔は優しかった親もいつの間にか毒親になっていて。

 彼を捨てた代償としては、あまりにも不幸じゃないか。私は何も悪いことをしていないのに。

 そう思って口にした水は、なんだか妙に苦かった。それが記憶の中のあの甘いキスを引き立てる。


 こんなはずじゃない。私はこんな目に遭うような女じゃないのに。もっと幸せになるはずだったのに。


 空になったペットボトルを投げ捨てる。ゴミ箱の縁に跳ね返って床に落ちた。

 私は再び唸るスマートフォンを無視しながら、仕方なく脱ぎ散らかした下着を拾い上げた。

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