おじいちゃんのあか
桜楽 遊
おじいちゃんのあか
小学三年生の夏休み。
僕は三年ぶりに、おじいちゃんとおばあちゃんの家に来ていた。
山と田んぼの緑に囲まれた二人の家は、とても大きい。
今年はここに三日間滞在する予定だ。
おじいちゃんとおばあちゃんに、久しぶりに会うことができる。
緑溢れる自然の中で、思う存分遊ぶことができる。
僕はこの日を楽しみにしていた。
そう、楽しみにしていたんだ。
――実際に着くまでは。
◇◇◇
おじいちゃんとおばあちゃんの家に着いた僕は、とても不機嫌だった。
「――――」
僕は黙って、僕を不機嫌にした元凶を睨む。
そこにいるのは、二歳の女の子。
赤い服を着た彼女は、いとこのアカリちゃん。
会うのは今日が初めてだ。
「可愛いねぇ、アカリちゃん」
「赤ん坊のアカと、アカリちゃんのアカを掛けて、アカちゃんって呼ぶのはどうだ?」
お母さんとお父さんが、中華スープに浮かぶ卵のように、とろとろふわふわな声で言う。
「悪くないな」
「うん、それいいかも」
アカリちゃんのお父さんとお母さん――僕のおじさんとおばさんが笑みを
「アカちゃんって呼ばれるの嫌じゃない?」
「……うんっ」
おばさんに尋ねられて、アカリちゃんは控えめに頷く。
その後すぐにおばさんの背後に隠れたのを見る限り、どうやら彼女は人見知りしやすいようだ。
そんな彼女を見て、大人四人は口を揃えて「可愛い〜」と言う。
その光景を前にして、僕はますます不機嫌になる。
胸の辺りがもやもやする。
――三年前まで、あそこにいたのは僕だったんだ。
最年少は僕で、可愛がられるのも僕で、甘やかされるのも僕だったんだ。
それなのに、今は――。
「賑やかだねぇ」
背後から声が聞こえたので、僕は
そこに立っていたのは、おばあちゃんだった。
「アカちゃんが可愛いの。お母さんもこっちにおいでよ」
僕のお母さんが、僕のおばあちゃんに向かって言う。
結果、大人五人がアカリちゃんを取り囲んでわいわいする。
僕の心を覆う雲が更に大きくなる。
大人の楽しげな声が、アカリちゃんの照れたような笑顔が、僕の心を苦しめる。
――もう、ここにいたくない。
僕はみんなの元を離れ、ひっそりと居間を後にする。
そして、玄関に向かって歩き出す。
走りたかったが、走らなかった。
僕のちっぽけなプライドがそうさせた。
大人たちは、僕が抜け出したことに気付かなかった。
でも、どうしてだろう。
アカリちゃんの視線だけは、僕の背中に刺さっていた気がする。
この家の外には大きな庭がある。
木が沢山植えられているし、水は入っていないけど小さな池まである。
暫くの間、僕はセミ採りに夢中になっていた。
汗だくになっていることにも気付かず、虫網を片手に走り回った。
十分にセミ採りを楽しみ、そろそろ家に戻ろうかと考えた――、その時。
僕は、ガラス張りの玄関に佇むおじいちゃんの姿を発見した。
おじいちゃんは真っ直ぐに僕を見つめていたが、僕と目が合っていることに気付いた途端、視線を逸らした。
――ゴクリ。
僕は唾を飲み込んで、玄関に足を踏み入れる。
昔から、おじいちゃんが苦手だ。
恐怖心を抱いているとも言える。
だって、いつも険しい顔をしているし、口数が少ないから。
「――手、洗い忘れるなよ」
「っ!」
おじいちゃんの声だ。
久しぶりに聞いたので、思わずびっくりしてしまった。
「うん」
短く答えて、僕は靴を脱ぐ。
怒られるのが怖かったので、靴はしっかりと揃える。
おじいちゃんの反応はない。
ここに残るつもりのようだ。
その姿を確認してから、僕は家の中に入っていく。
「――水分補給、忘れるなよ」
「っ!」
おじいちゃんの声が響き、僕は再び驚く。
口数の少ないおじいちゃんが、二度も口を開くなんて……。
振り返ると、おじいちゃんの
赤い、赤い耳朶だ。
おじいちゃんには、人差し指と親指で耳朶を弄る癖がある。
だから、常に耳朶が赤い。
それも、僕がおじいちゃんを怖がっている理由の一つだ。
「うん」
そう答えて、僕は洗面所に向かった。
手を洗い終えて居間へ行くと、案の定、アカリちゃんたちの姿があった。
僕が出ていく前より、なんだか慌ただしい雰囲気を感じる。
「あっ、フウマ。無事で良かった。何も言わず、どこに行ってたの?」
僕を見つけたお母さんが、早口で尋ねてくる。
どうやら、僕のことを探していたようだ。
「セミを採ってた」
「……そう。これからショッピングモールに行くんだけど、フウマも一緒に行く?」
ここからショッピングモールまでは、車で片道一時間半もかかる。
そんなに遠い所に、どうして行くのか。
それが気になったから、僕は正直に訊く。
「どうして行くの?」
「アカリちゃんが、どこかに遊びに行きたいって言ったからよ」
「……ぇ」
掠れた声が漏れる。
体の力が一気に抜ける。
――また、アカリちゃんか。
みんな、僕なんかよりアカリちゃんの方が大切なんだ。
「で、どうするの?一緒に行くの?」
「……ない」
「え、何?」
「絶対に行かない!」
逆上した僕は、家の中の人気のない場所へと走って逃げた。
お父さん、お母さん、おばあちゃん、おじさん、おばさん、アカリちゃんの六人が家を去った頃、僕は一人で膝を抱えていた。
「ここ……どこ……?」
暗くて、埃っぽくて、畳の匂いがする。
感情的になって、考えなしに人気のない場所へ飛び込んだため、ここがどこだかわからない。
――心細い。
暗い所は昔から苦手だ。
おじいちゃんと同じくらい苦手だ。
「……怖いよぉ」
精神的に追い詰められ、泣き出してしまいそうになった――、その時。
光が差し込んだ。
僕は咄嗟に光の方を見る。
するとそこには、眉間に
「今から畑に行く。ついて来い」
ぶっきらぼうに言い放った後、おじいちゃんは振り返り、歩き出す。
大きな背中が遠ざかっていく。
――僕は慌てて、その背中を追った。
畑に着くと、おじいちゃんは夏野菜を収穫し始めた。
キュウリ、ナス、ピーマン、トマト。
どれも立派に育っている。
一方、僕は何をしていいのかわからず、ただ黙っておじいちゃんの姿を眺めていた。
「――フウマ」
不意に名前を呼ばれた。
赤くなった耳朶を弄り続けている、おじいちゃんに。
「アカリが嫌いか?」
「えっ、どうして……」
どうして、知っているんだろうか。
そんなこと、誰にも言っていないのに。
「見たらわかる」
その言葉が、僕の心に響いた。
こんな僕のことを、おじいちゃんはしっかり見ていてくれたんだ。
そんなおじいちゃんになら、全てを吐き出しても許してもらえると思った。
抱き込んでいた本当の気持ちを、今ここでぶちまけてもいいと思った。
「嫌いだよ。アカリちゃんが嫌い。アカリちゃんだけを特別扱いする、お父さんとお母さんも嫌い」
「……そうか。
「……なん、で?」
「大切な孫だから」
おじいちゃんの目つきが柔らかくなる。
眉間に皺が寄っていて、朱い夕日を浴びた顔は険しいままだけれども、確かに優しい目をしている。
「勿論、フウマのことも特別扱いしている」
「……どう、して?」
「大切な孫だから」
おじいちゃんは同じ言葉を繰り返す。
僕を真っ直ぐに見つめながら。
「お父さんもお母さんも、フウマのことを大切に思っているんじゃないのか?」
「でも、僕が居間から出ていったのを二人は見てなかった。アカリちゃんに夢中だった。それは、僕よりアカリちゃんの方が大切だったからでしょ?」
「フウマが意図的に二人にバレないように出ていったからだ。それに、フウマが帰ってきた時、お母さんはお前のことを心配していただろう。ショッピングモールに一緒に行くかどうか、――お前の意思を確認してくれただろう」
「そう……だけど……」
おじいちゃんの言っていることは正しい。
お母さんが僕を心配していたのも、僕の意思を尊重しようとしてくれたのも事実だ。
お父さんとお母さんに愛されているのも、本当はわかっている。
でも、胸のもやもやが消えてくれない。
この気持ちにどう向き合えばいいのか。
この感情をどうやって捨てればいいのか。
それがわからない。
「嫌いな気持ちを捨てる必要はない」
「え?」
「アカリのことは好きか?」
アカリちゃんのことは嫌いだ。
でも、好きじゃないわけでもない。
嫌いか嫌いじゃないか――、と訊かれたら嫌いだと答える。
好きか好きじゃないか――、と訊かれたら好きだと答える。
嫌いだけど好き。
好きだけど嫌い。
矛盾した感情が、僕を苦しめる。
「それが、大人になるってことだ。嫌いだけど好き、やりたくないけどやらなくてはいけない、やりたいけどやってはいけない。相反する二つのものに折り合いをつけて、自分なりに納得する。そうやって、苦しみながらも歯を食いしばって現実と向き合うのが、大人なんだ」
「おとな……」
僕は、大人をなんでもできるスーパーマンだと思っていた。
そんなふうに苦しんでいるなんて、知らなかった。
おじいちゃんの話を完全に理解できたわけではない。
でも、少しだけ大人を知ることができた。
僕は今、大人へと続く階段を登り始めたのだということにも、気付くことができた。
「これ、食べてみろ」
おじいちゃんが差し出したのは、
僕の拳より大きい。
「いただきます」
一口齧る。
酸味と甘味が口一杯に広がり、夏の香りが鼻を擽る。
齧ったトマトを見ると、黄色い種と緑の液体が顔を出していた。
紅くて綺麗な皮と、綺麗とは思えないドロッとした中身。
「おいしい……」
相反するものを持っているのに、トマトはこんなにもおいしい。
こんなにも、僕を幸せにしてくれる。
「――ねぇ、おじいちゃん」
胸が熱い。
真っ赤な愛が僕の胸を満たしている。
全部、おじいちゃんが教えてくれたものだ。
おじいちゃんに愛を貰った。
みんなの愛を知った。
だから、次は僕の番だ。
僕が誰かに愛をあげるんだ。
「トマトの穫り方、教えて」
僕は赤い服を着た女の子の姿を思い浮かべながら、そう言った――。
おじいちゃんのあか 桜楽 遊 @17y8tg
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