草いきれ/消し忘れたメール

紫 李鳥

草いきれ/消し忘れたメール

 


 玖未くみとの旅行は以前から決まっていた。


 それは、秘湯までのかずら橋を渡る手前だった。尿意を催した玖未がポケットティッシュを手にすると、小道に続く雑草の中に隠れた。


 間もなくして、預かっていた玖未のバッグに入った携帯電話が振動した。――玖未はなかなか戻ってこなかった。携帯は尚もバイブしていた。


 ……誰からだろう。


 それは、ほんの興味本位だった。点滅している玖未の携帯を手にした。


 カチッ


 メッセージがあったが、相手は不明だ。それを知るには再生を押さなくてはいけない。そうなると、携帯をいじったのがバレてしまう。


 ……メールなら大丈夫だ。


 受信メールを見てみた。私が送った件名が続いていた。次に送信ボックスを見てみた。私への件名が続いていた。ところが、件名に見たことのない絵文字があった。相手は誰だろうと思い、本文を開いてみた。


〈――あなたと付き合っているのを知ったら、侑子ゆうこ、どんな顔するかしら。あなたもバレないようにしてよ、憲司けんじ


 と、あった。憲司は私の恋人の名前だった。瞬間、あまりの衝撃で言葉も出ず、呆然と立ち尽くした。やがて、頭に血が上るのを感じた。――



 戻ってきた玖未は、腹の具合が悪いのを時間がかかった理由にすると、私の手からバッグを受け取った。早速、点滅している携帯を開いた。


 カチッ


 相手を確認すると、バッグにしまった。


 ……どうして電話しないの? 私に聞かれたらまずいの?


 涼しい顔で前を歩く玖未の横顔を睨み付けているうちに、私の中に激しい悋気りんきと憎悪が芽生えた。


 強い日光に照らされて、草の茂みから生ずる、むっとした熱気は、都会を離れたという、錯覚した現実逃避を洗脳し、理性を麻痺させる麻薬のように、私に衝動的な行為をしていた。



 それは、玖未が足をふらつかせながら、かずら橋の真ん中に来た時だった。私に、それを促す指示があった。それは、木々の葉音を雑音に変えた突風だった。


「キャー」


 玖未が、吹き飛ばされそうになった麦わら帽子に気を取られ、かずらから手を離した瞬間だった。


 今だっ!


 私の中から合図があった。私は瞬時に視界を広げて、人の有無を確認すると、


「この、裏切り者っ!」


 ざわめく葉音に打ち消された怒鳴り声と共に、玖未の背中を思いきり押した。


「ギャーッ!」


 一瞬にして橋の下に消えた玖未の体は、岩にでも落下したのか、グシャッと鈍い音がした。恐ろしくて、下を覗く勇気はなかった。


 急いで逆戻りすると、小走りになりながら119を押した。――



「――突然、強い風が吹いて……。あっという間でした」


 事情聴取を受ける私の目からは、悲劇のヒロインにでもなったかのように、知らず知らずに涙が溢れていた。


「……玖未、……玖未ーっ!」


 私のその芝居は、演技賞ものだったに違いない。――



 その後、ピタッと憲司との繋がりを切った。交際を続ければボロが出る。会わない理由を、


「親友が死んだのよ、そんな気になれないわ。しばらく一人にして」


 と、まるで常識人のような正論を言って、親友の死を悼む心優しい人間を印象づけた。その後、憲司とは自然消滅のように音信が途絶えた。



 間もなくして、新しい恋人ができた。吾妻秀生あづまひでお。取引先の食肉加工メーカー「マルビー」の社長の息子だった。納品担当の代理で納品書を持ってきた時、受領書を渡したのが切っ掛けだった。私は、大手スーパーで事務をしていたのだ。


 交際してふた月足らずで結婚の話が出た。憲司と違って、真面目で働き者の秀生に全幅の信頼を寄せていた私は、結婚相手には最適だと考えていた。秀生の両親に会い、承諾を得て間もなく、事態は急変した。


 その、真夜中のメールは、予期せぬ相手からの、予期せぬ内容だった。


〈100万円、都合してくれないかな? 振込先は下記のとおり。玖未のことは内緒にしとくよ。憲司〉


 それはまさしく、脅迫状だった。


 ……どうして、こんなメールを? 警察は事故として片付けた事件だ。なのになぜ? それより、どうして憲司にバレたのだろう……。だが、負け犬を認めるのはまだ早い。具体的な証拠を出すまでは潔白を貫き通さなければ……。


 私は、返信すべきか迷った。――結局、親指を動かしていた。


〈久しぶりなのに、随分なご挨拶ね。どうして私がお金を振り込まなくてはいけないの? 玖未のことは言わないって、どういう意味?〉


 その場に居なかった憲司が、私のしたことを知っているはずがない。お金が欲しくて脅しているだけだ。そんなふうに思っていると、返信があった。


〈とぼけるつもりか? 俺は見たんだよ。あの日、俺と玖未は別の旅館で落ち合うことになってたんだよ。間隔を置いて、俺はお前たちの後を行っていた。吊り橋のとこに来た時だ。お前が玖未を突き落とすのを見たんだよ〉


 見たなんて嘘! 作り話に決まってる!


〈証拠は?〉


 仮に目撃したとしても、警察に提出できる物的証拠にはならない。


〈あるさ。ヒント:俺の携帯はカメラ付き〉


 ! ……それが本当なら致命的だ。もう逃れられない。どうすればいい? 金をやったら最後。人殺しを認めることになる。そして、その脅迫は一生続くだろう。秀生との結婚を諦めて出頭するか、自ら命を絶つしかない。



 翌日、覚悟を決めた私は、秀生に婚約破棄のメールを打った。


〈ごめんなさい。あなたとは結婚できません。さようなら 侑子〉


 直接会って話す気力も萎えていた。――送信後、すぐに秀生から電話が来たが出なかった。なんて言えばいいのだ? 結婚できない適当な理由など思いつかなかった。卑怯かも知れないが、現実から逃げたかった。


 当座の着替えをボストンバッグに入れると、ビジネスホテルに隠れた。出頭するのか、死ぬのかを決めるために。


 伝言メモにした携帯には、秀生からのメッセージやメールがあった。


「何があったんだ? 訳を教えてくれ」


 と、伝言があり、メールには、


〈もし、話せないことがあるなら、メールでいいから教えてくれ。もし、悩みがあるなら、打ち明けてくれ。俺がお前を守る。侑子、信じてくれ。お前と幸せになりたいんだ。頼むからすべてを打ち明けてくれ。侑子、お前を愛してるんだ!〉


 と、あった。


 ……秀生さん。


 私は、嬉しさのあまり号泣した。




 その数日後、秀生は、捨て猫が多い公園の木陰に、ボイルした大量のミンチをてた。――

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