とよの嫁入り
うめ屋
*
時はいまよりも少しむかし。なだらかなみどりの山に囲まれた村里で、ひとりの花嫁が嫁ぎゆく。
ひいより、ひゃらひゃら、はれ、ひれ、ほうれ。
ひょう、ひれ、はれはれ、ひいより、ひょう。
笛の音が舞い、太鼓がおどる。里のひとびとは列をなし、花を降らせて今日のよき日の門出を祝った。
田んぼのあぜ道にはいっぱいの黄色い菜の花。青い空からは桜が散って、らんまんの春もよう。そうした祝いの列の中、とよは花嫁としてゆっくりと歩んでいく。
桜の着物に、晴れやかなばら色の帯、髪をおとならしく高く結い。
帝都のお嬢さんみたいにぜいたくな振袖までは望むべくもないけれど、村娘のとよができる、精いっぱいのおしゃれをした。
このよそおいを目にするのは、となり村に住む顔も知らないだんな様。
むかし、とよの父様とだんな様のお父様が交わした約束にのっとって、とよはこれから、だんな様の妻になる。顔も知らない結婚は、この時代にはめずらしくもないことだった。
……けれどもわたしは、よいお嫁さんになれるのかしら。
たとえば、とよの母様みたいに。あるいは先に嫁いだ姉様みたいに。
顔も知らないだんな様と仲よくなって、子どもを産んで、その子どもたちを育てながら家の中をまとめてゆく。そんなりっぱなお仕事が、まだ十八の娘であるとよに勤まるのか。
そう考えると、ちりちりと胸の奥が重たくなる。母様はきのうの夜、とよを励ましてくれたけれども。
……だんな様は、いったいどんな方だろう。だんな様のお父様やお母様は。
きびしくない方だといい。もしも怒鳴られたり、いじわるをされたりしたら恐ろしい。
子どものころは、姉様や母様や父様が守ってくれた。友だちとけんかしたとき、近所の男の子に泣かされたとき。とよが顔をくしゃくしゃにして帰ってきても、抱きしめてくれるひとがいた。
けれども、これから先のとよはひとりだ。母様のおひざで泣く娘ではなく、逆にわが子を守れる母にならなければならない。
……いけない……。
考え込むと、つんと涙が出てきてしまった。
とよは大きく息を吸って、前を向く。そのとき田んぼの端っこに、ちらりと男のひとの立つ影が見えた。
まだ若い、とよに兄様がいれば、このくらいのお歳だろうという男のひとだ。あかるいみどりの着物の袖に腕を入れて組み、おだやかにほほ笑んでとよを見つめている。
若いひとなのに、まるでとよの、おじいさんか誰かのように。
……あ、
ざわ、と桜がその男のひとのほうから吹いて、とよは急に思い出した。とよが七つか八つのころ、あのひとと確かに会ったことがある。
冬の終わりの、最後の大雪が降った日だった。
小さなとよは、風邪で寝込んだ姉様のため、山へ出かけた。熱にうかされた姉様が、ふきのとうが食べたい、とおっしゃったからだ。山の雪を掘り返せば、ふきのとうの芽があるかもしれない。そう思ったとよは、誰にも言わずにこっそりと家を出た。
けれども、しんしんと降りつむ雪は大きな魔物のようだった。帰り道はあっという間にわからなくなり、雪はどんどんと、とよの頭やからだに積もった。
手も足もかじかんで、とうとう桜の樹の根もとに座り込む。寒くて痛くて、なによりもさびしく悲しい。このまま死んだらどうしようと、とよは手をすり合わせてひとりで泣いた。
しんしん。
しらしら。
雪が降る。雪がつむ。しかし、そのしんしんしらしらの合間にふと、あたたかな影が差した。とよの頭の上でだけ、雪がやむ。
「……だあれ?」
とよが見上げると、男のひとがおだやかに笑っていた。あかるいみどりの着物の袖を、傘を差すように、とよの頭上にかかげている。男のひとは少しかがんで、とよの問いに答えてくれた。
「
あとは、なにも言わない。佐保彦はにっこりと笑み、とよを包み込むように抱きしめた。重みもにおいも、生きているひとの感じもない。
だのに佐保彦の腕はあたたかく、まるで春の日なたにいる気持ちになった。花がいっぱいの野原に寝ころび、思いきり伸びをしたような心地よさ。とよは泣いていたことも忘れて、いつしかうとうとと眠っていた。
とよが助け出されたのは、その後しばらく経ってからのことだ。父様や里のひとたちが隊を組んで、とよを探しにきてくれた。
とよは雪の中にいたのに、凍えることも、雪に埋もれ果てることもなかったらしい。
里のお年寄りたちは、山の神様がお守りくだすったのだと言って手を合わせた。とよはのん気に眠っていて、そういうことはあとから知ったのだけれども。
……あのひとは、あの雪の日の男のひとだ。佐保彦様だ。
幼い思い出の中から帰ったとよは、花嫁行列のまんなかで立ちどまった。
周りのひとたちが、どうしたのかと訊ねてくる。どうやら、みんなには佐保彦の姿が見えないらしい。とよと佐保彦のまなざしだけが通い合う。
そのとき、佐保彦はふうわりと風になった。みどりの袖が野の若草みたいにうち広がり、透きとおって消えてゆく。そのあとから桜が舞い、波の走るように里いちめんへ押し寄せた。
里びとたちがおどろいて声をあげる。けれどもとよは、あたたかな風に包まれてほろりと悟った。
……ああ、
これは祝福だ。山の神様の、春神様の。
かつて小さなとよを守ってくれた日のように、佐保彦はいまもまた、とよを守ってくれている。これから嫁ぎゆく娘の背を押し、心配はいらないよと語るように。
いっきに胸が熱くなって、とよはてのひらで顔を覆った。付き添いの里の女人が、あれあれと肩をさすってくれる。花嫁さんがいまから泣いては、お化粧がとれてしまうよと。
それでもとよは、いまこのときだけは泣き続けた。こころの中で、山の神様にたくさんのありがとうを告げながら。
とよの嫁入り うめ屋 @takeharu811
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