毒の嘘




「あ、すみませんこんな夜分遅くに。まなかさんの友達の立田です」

「立田さん……あ、ああ、ごめんなさいね、いつもまなかがお世話になっております」

「すみませんこんな時間に。塾の帰りなんです。あの、まなかさんは」

「どんなご用件ですか」

 機械越しの声が、よく聞いていないとわからないほどの硬さと冷たさを帯びる。だが、ここでひるんではいけない。どうにかあいつを、まなかを、私の前に引きずり出してくる必要がある。


「実は学校で数学のノートを貸したんですけど、わたしの、不注意でそれを返してもらうのを忘れてしまっていて。明日提出の宿題でどうしても必要だったので、受け取りにきたんです。夜にお尋ねするのは申し訳ないとは思ったんですけど……。あの、まなかには連絡をしておいたのですが。聞いて、ませんか」

「ああ、そうだったのですね。だからさっき、まなかは熱心に携帯をいじっていたのね。わかりました。ちょっと待っててくださいね。今持ってきますから」

「あ、まなかに会いたいので出てくるように伝えてください」

「別にいいですよ私が持ってきますから。あの、ええと、まなかは今、お手洗いに入っているの。早く帰らないと親御さんも心配しますよ」

「これから電車に乗らなきゃいけないんでいつももっと遅くなってます。だから大丈夫です。すぐ済みますから」

「でもねえ」

「お願いします」


 私の母は既婚者である学生時代の同期と性交に励んでいて私のことなんてこれっぽちも気にかけてないので大丈夫ですつべこべ言わずに早くまなかを出せよクソババア、という言葉を何度口にしかけたかわからない。今度LHRのときにやるクラスレクについて話し合いたいとか、今度の校外模試の日にどこで待ち合わせるかついでに打ち合わせておきたいとか適当な理由を何個かでっちあげると、しぶしぶといった様子で彼女は申し出を了承した。

「あの子、お手洗いから出てきたみたいです。呼んできますね」

 嘘つけ、と思った。ここから見える二階のトイレの窓には、先ほどから電気がついていない。暗闇の中でまなかは用を足していたとでもいうのか。


 しばらくして、家の中からまなかが出てきた。髪の毛をひとつに束ね、ワンサイズ大きいスウェットに身を包んだ彼女には、ぱっと見で昼と変わった様子はない。そのことに安堵のため息をつくと、閉まりかけた扉の向こうで棒立ちになっている彼女の母親と目が合った。先ほどまで言葉を交わしていたはずのそいつからは、まるで生気を感じなかった。こんな夜中なのにきっちりとアイロンのかけられた清潔なブラウスとプリーツスカートを身にまとっているのが、とても不気味に思えた。

「立田さん、いつも本当にまなかと仲良くしてくれるのは嬉しいんですけど、親御さんが心配するからね、早く帰った方がいいと思いますよ」

「はいわかりました、すぐ済みますから」

 ばたん。扉が重苦しい音を立てて閉まると、真顔を貫いていたまなかの表情がほんの少し崩れた。体の後ろに隠された右手が、差し出されようとしたりまた元の位置に戻ったりする。

「死んだかと思ってた」

「そっちこそ」

 きっと今、まなかのママは私たちの会話を盗み聞きしている。だから、扉の前からできるだけ離れた状態で、わたしたちはお互いの吐息が頬に触れるくらいの距離で言葉を交わす。


「毒入れたなんて嘘だろ」

「嘘じゃない」

「嘘でしょ。現に私はこうしてピンピンしてるよ。それに、来る途中でいろいろ調べたけどそういう都合の良い毒はありません。たぶん」

「本当にそう言い切れる?」

 右手で口元を、左手で返してもらったと思しき携帯が入ったスウェットの膨らみをなでながら、まなかはそう言った。ほんとあのクソババアのやりそうなことだなと思いながら、掴みやすい位置にきていた左腕を私は勢いよく握る。てのひらをすっぽりと覆うほどの長い袖を苦労してひじの先ぎりぎりまでまくり上げると、紫色になった肌がその際にのぞいた。彼女がなにかしら口を挟む前に素早くお腹のほうのスウェットもめくってみると、この前見たときよりも正常な肌色の面積が減っていた。

「嘘つきだわ、やっぱり。携帯取られた以外になにかされた」

「いや、今日はなにも。みらいとやり取りしてるときにたまたまお母さんが入ってきて、携帯取られただけ。でも勉強中にやったことだから、今度の校外模試で判定下がったら携帯壊されちゃうかも」

「そうだったんだ。ごめん。でもうかつだったね」

「うん。わたしの不注意なのよ結局。だから大丈夫。わざわざ来てくれるなんて思わなかった。ありがとう。ほんとに、大丈夫だから」


 大丈夫じゃないでしょ。腕を強く掴んだまま、まなかの目を真正面からのぞき込む。そのつややかな球体がわずかに震えたのを、私は見逃さない。連絡が途絶えた、携帯が取られたのかもしれない、虐待癖のある母親の怒りを買ったのかもしれない、だから、まなかが危ない。たしかにそう考え行動したのも事実ではあるが、最初の奇妙なメッセージの時点でわたしは変な空気をかぎとっていた。まなかは、いつもそうだ。外面は完璧であるはずの彼女のママが、私に対して本性を現しかけているのにも納得がいく。それは、私がたびたびこうして回りくどい方法でSOSを発信されているからだ。

「やっぱり嘘つきだわ。わかりやすすぎ。マシュマロに毒を入れたなんて主張しないで、素直に言えばいいのに。不安だから助けに来てって」

「は? 違うし死ねよ」

「死なないよ」

「死ねってば」

「いつかは死ぬよ」

「死ねい」

「はいはい」

 だって、そうでもしないとみらいが気に留めてくれないと思ったんだもん。いつも迷惑ばかりだし。先ほどよりももっと近い距離で、根負けしたまなかがふやけたような声を出す。腕を伸ばし、私はゆっくりとその肩を抱いた。

「ばかだな、そんなわけないのに。いつも言ってるじゃん。まなかがうんって言ってくれれば、私はいつでもお前と一緒にさっさとこの世界をぽいってする覚悟があるって。じゃあいつもみたく、逆に聞くけどさあ」


 今日のできごとで、まなかは死にたくなった?


 服越しに、まなかの息遣いや体の動きが伝わってくる。唇を引き結んだまま、彼女はなにも答えない。そのすべてが、私に答えを告げていた。あんなに物騒なことをネット空間でも対面でも口にしていたのに、いざとなるとこんなことになるなんて。毎回毎回、その答えが変わることはない。なんだかすべてがおかしく思えて、私はまなかへおもむろに顔を近づけた。しかし、それは彼女自身の手によってさえぎられてしまう。

「死ねよ」

「そうかもしれない」

「ねえ、もしかしたら、本当に都合の良い毒ってあるのかもしれないよ。それを飲み込んで眠って、死んで、なんかの力で生き返って、起きたらすべてが終わっていてめでたしめでたし、っていうことにできるものが」

「そんなのあるわけないだろ。とにかく、答えが変わったらいつでも言ってね。そのときは私も一緒だから。あんなババアにまなかは渡さないから」

「考えとく」

 そろそろ戻らないと、さすがにお母さんが出てくるかも。まなかはそう言い残すと私から離れてドアのほうへ向かった。その後ろ姿を見ながら、私はそんな夢のような道具や方法が本当にあったらいいのにと考えずにはいられなかった。口ではあんなことを言っていたけど、絶対にそっちのほうがいいに決まっている。私たちは苦痛を受けるために生まれたわけではない。本来、毒で死ぬべきはその外野であるはずなのに。私たちのほうではないのに。


「ああそうだ。そっちこそ、気が変わったらいつでも言ってよ。隠してるつもりだろうけどバレバレだから。わたしも、あんな男にみらいを取られたくないから」


 まなかがくるりと振り向き、私の体を指差す。とうぜん示された位置はでたらめだったが、実際に昨晩、ママとセックスしていたあの男に暴力を振るわれたのは事実だった。ウイスキーの瓶やガラスのコップ、握りこぶしが人体へダメージを与えるのにあんなに効率がいいものだったとは、彼が家に来るまでは知らなかった。

 お互いの命を絶つという宣言をして、私たちはそれぞれの地獄へ戻るために動き始めた。別れ際、まなかが携帯をいじっているのが見えたので試しにアプリを立ち上げてみると『また明日学校で ありがとう』というメッセージが来ていた。ついさっき、嘘だったとしても遅効性の毒を飲ませてきた人間とは思えない発言だ。『こちらこそありがとう』と返信し、私はブレザーのポケットに携帯を滑り込ませた。ついでにママとのトークルームも確認してみたが、連絡は来ていなかった。あのクソ男、絶倫だからなあ。思いがけないようなひとりごとが自分の口から自然に滑り出てしまい、ひとりでくすくすと笑った。


 でも、そうやっていい感じに取り繕っても、私たちを取り巻く地獄はなにも変わっていない。お互いに胃の中で転がしている遅効性の毒は、だらだらと微妙な幸せで引き伸ばされていても、遅かれ早かれ溶け始めてしまうだろう。それまでになにか劇的なことが起きて、すべてがいいように運んで解決してほしいと思う。でも、きっとそんなことは起きない。まなかが泣きながら、私にすがってくる光景を想像しながら歩く。その後の結果がどちらに転んだとしても、それは今よりきっと幸せなことなのだろう。


 でも、なぜかそのことがたまらなく悲しい。それとは別の相反する結末が用意されていないことが、ひたすらに悲しい。





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アンビバレントを胃で転がす 大滝のぐれ @Itigootoufu427

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