アンビバレントを胃で転がす
大滝のぐれ
嘘の毒
『今日のお昼にマシュマロあげたじゃんわたし ブルーベリーのジャム的なものが入ったやつ』
『うん 本当にもらっていいのかなと思ったけど』
『あれにさ 毒入れたんだよねわたし』
床に敷かれたラグの上に横たわっていた私は、その文面を見てゆっくりと体を起こした。携帯を内カメにし、自分のブサイクな顔と向き合う。特に顔色が悪い感じはしなかった。イヤホンのコードを頬の下に敷いて寝転がっていたために細くて長い跡がついてはいたけど、別にそれは私の生死に直結することではない。日中に教室の片隅で咀嚼したマシュマロの質感を思い出そうと、口の中で舌を動かす。よくスーパーで売っているようなものとなにも変わらなかったような気がする。毒物に詳しいわけではないのでよくはわからないが、そういったものが入っているような味やにおいを感じた覚えはない。まあ、無味無臭の毒が注入されていたとしたら、もう私は助からないのだけど。
『嘘つけよ だったらもう死んでなきゃおかしいだろ』
『遅効性の毒だよ』
『へえー なんてもの入れてるんだ 死ねよ』
『どう気分は わたしに殺されるのは』
つけっぱなしにした携帯の画面に吹き出しが表示されたのを見て、痛む体をかばいつつ部屋着を脱ぎ始める。中学のときの真っ青な指定ジャージが体から離れていき、外気にさらされた肌が寒さに反応して鳥肌を立てた。夏は溶けてしまうような厳しい暑さに、冬はシロクマやアザラシが喜びそうな寒さに包まれてしまうこの部屋は、住空間としてすすんで使われるような場所ではないらしい。
「いちおうここは洋室になっているんですけど、そうですね、お客様のようにお二人で住まわれる場合にはここを物置にしてしまう人が多いですね。部屋としてはもちろん使えますけど間取り的に寒暖差が激しくて」
二年前ここに越してきたとき、不動産屋の男は笑いながらそう言っていた。へえーそうなんですかあ、なるほどねえー。ママの呆けた声と私に向けられた乾いた瞳が、いまだに頭の片隅にこびりついている。
『あれ』
『ちょっと きいてるんだけど』
『もしかして死んだ?????』
『既読無視しないでよー』
『ねえ』
『嘘でしょ』
つい数時間前に脱ぎ捨てた学校指定のブレザーやカーディガンを再び身にまとうと、わたしはその間に増えていた吹き出しを指でなぞった。画面の向こうにいる彼女の姿を想像し、少しだけ顔をほころばせつつも、支度のスピードを速める。
『最悪だよほんとに うっ 苦しい』
『なんだ生きてるじゃん 心配して損した』
『毒入れたのお前だろ 殺すんだろ』
『まあそうだけど 死ぬときはちゃんと申告して 見にいくから』
『なんでだよ』
『見たいから』
『じゃあ即効性の毒を入れろよ』
『即死じゃ面白くない』
『へえー で、その遅効性の毒ってなによ 物質の名前教えてみ』
『ナントカ』
『知らないわけないでしょ お前が入れたんじゃん』
通学に使っているバッグに財布やら定期券を入れながら返信を打っていると、今度は向こうのそれがぷっつりと途切れた。外の寒さを見越してマフラーをクローゼットから取り出したり、使い捨てカイロの封を開けたりして準備を整え終えても、新たな吹き出しが生成されることはなかった。焦りが胸の中の深いところに芽生える。でも、私は先ほどのあいつのようにはならない。やるべきことははっきりしている。机上に置かれたバッグを掴んで肩にかけ、足早に自分の部屋を出た。リビングに散乱したコンビニ弁当のごみやからっぽになったお酒の瓶、割れたガラスのコップなどを踏まないようにしながら、慎重に玄関へと向かう。
瞬間、男と女の声が一気に私の耳に入り込んできた。「あ」「い」「ん」あたりで表現できてしまうような、音声とするのもおこがましいでろでろに溶けた声だ。その発生源となっているママの部屋の前を通り過ぎようとして、少しだけわたしは迷った。こんな夜に出かけることを、この中で動物になっているであろう彼女に伝えるべきだろうか。仮にも一人娘だし。いちおう、財政的に厳しい中でも人並みの教育や生活の機会を与えてもらってるし。だから心配させるのはよくないかもしれない。そう考え、私は喘ぎ声にまみれた中をリビングへと引き返した。「ちょっと外に出て友達のところへ行きます なにかあったら携帯に電話ください」と書いた紙きれを作成し、使い込んで年季の入ったちゃぶ台の上に置く。傍らにある吸い殻がぎゅうぎゅうに詰まった灰皿からする悪臭を手で払い、玄関に出てローファーを履いた。そのついでに、三和土にあった男物の蛍光緑のスニーカーをぐりぐりと踏みつぶす。
わざと音が大きくなるようにドアを閉め、アパートの廊下を歩き出す。何度か後ろを振り返るが、そこからママが慌てた様子で出てくる気配はない。ため息をつきながら階段を降りる。きっと、あの紙切れを残して私が失踪したとしても、ママは携帯に連絡はもちろん、届けすらも出さないだろう。もう、あそこは『お二人』で暮らす家になったのだから。私はもともと、そこに含まれてはいなかったのだ。そう考えているうちに痛み出した脇腹を抑えつつ、私はアパートを抜け出す。
夜道をとぼとぼと歩き最寄りの駅につくと、定期券で改札を潜り抜けてホームに降り立った。酔っぱらった大学生の集団が、自販機の近くでうずくまってしまった男を中心にぎゃあぎゃあ騒いでいる。
「気持ち悪い、死ぬ。死ぬわ俺、母さん父さん、先立つ不孝をお許しください」
「飲み過ぎなんだよお前」
「ほら袋、あと水」
ジーンズやカーゴパンツに包まれた足の隙間から、コンビニ袋をマスクのように装着した男の姿が見える。水のペットボトルを持った手は力なく垂れ下がり、長めの黒い前髪と袋の隙間から見える肌は、明らかに血の気を失って青白くなっていた。あごの近くにあるマフラーを口元までたくしあげ、私は携帯を開いた。ここに来るまで何度も確認していたが、やはり向こうからの返信はきていない。小さかった焦りは今や、全身にくまなく広がっていた。中途半端なベッドタウンで、なおかつ帰宅ラッシュもとうに過ぎた夜中に近い時間ともなると、電車はなかなかやってこない。それが方向的に都心部へ向かうものとなるとなおさらだ。死ぬ、死ぬ、死ぬうー。横たわっている男が、馬鹿の一つ覚えのようにうめいている。
「そんなんで死ぬわけないでしょ」
すがるように携帯を見つめたまま、わたしはマフラーの中に言葉を放った。電車が参ります、というアナウンスがなされ、ずっと向こうから闇を切り裂く明かりがこちらに迫ってくる。大きなえずきによって繰り返されていた「死ぬ」が途切れ、派手な水音がした。うわっきたねえー。掃除すんのやだからな。死ぬ、ほんと死ぬ、おえっ。それなりに大ごとであるはずなのに、彼らの楽しんでいるような響きを持った声が耳をつんざく。イヤホンをはめて音楽を流すと、それはすぐにぼやけて曖昧になった。
結局、電車に乗って三駅先の目的地につくまで、返信はなかった。さすがにわざと返事をしていないということはないだろう。きっと、本当になにかあったのだ。あらゆる最悪の想像が絶えず頭をよぎる。しかしそれはすぐに「いやいやそんなことはありえないって」というどこから湧くのかわからない思考によって打ち消される。今までもそうだったし。だからこれからもそうだろう。そんな声が聞こえてくるような気がした。しっかりしろ。駅を出て住宅街へ続く暗がりのほうへと走りながら、私は自分の頬を張った。未来に対する甘い見積もりは簡単に打ち砕かれ、それ以上の地獄がやすやすと現れることを、ママの一件で私はよく知っているはずだった。いつかよくなる、幸せになれる。そう思っていれば絶対的な力を持ったなにかがすべてチャラにしてくれるなんてことは、絶対にない。絶対に、ないのだ。
『ごめん』
『冗談じゃないよね? 返事して』
『ねえ 本当に大丈夫』
『もうつくから』
『死んでないよね』
すでに向こうの携帯が『敵』の手に落ちている可能性を考慮し、文字だけで安否確認を送る。それがどうしようもなく歯がゆい。だが、パスワードや設定などでごまかしがきく文字とは違い、着信履歴は形に残ってしまう。そうなると、あいつに危険が及んでしまう。
不安を噛み潰したまま、私は目的の場所へたどり着く。同じような見た目の家が並んでいる住宅街の中、玄関先や柵にたくさんのプランターが設置してある家は、やけにくっきりと見えた。きっと春や夏になったら、いろいろな形や色をした花々がここで咲き乱れるのだろう。本当に、悪趣味だ。乱れた息を整え、意を決してインターホンを押す。ややあって、澄んだ女性の声がそこから聞こえてきた。
「はい」
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