何色

コトリノことり(旧こやま ことり)

何色

 大学の食堂のテーブルに一人で座る。教科書を見ているふりをしながら、視界の端は食堂の入り口をおさめてる。

 ぼろぼろの茶色の革靴。違う。

 ピンク色のパンプス。違う。

 くすんだ白の実験用の靴。違う。

 きれいなあおのスニーカー。

 目線を手元の教科書に移す。三十分ここに座ってて、一ページも進んでない。だけどそんなこと誰も気づかない。適当なペンをもって、ずっと勉強していたふりをする。前から聞こえてくる青空のような明るい笑い声。


「あ、コーヨー!」


 その声で呼ばれて、さも今気づいたというように顔を上げる。


「青葉先輩、おつかれっす」


 一つ年上、大学三年の三木青葉先輩は「今日お前だけか?」と言いながら向かいの席に座る。

 青葉先輩は背が高い。昔バスケをやってたらしく、短髪に七分袖のシャツからでもわかるくらいには筋肉がついていて、いかにもスポーツマンらしい。

 食堂の椅子は小さい、と文句を言って、長い足を組む。そうすると前に座ってる僕の位置からでも先輩の青のスニーカーがよく見える。


「三限、休みなんだっけ」

「そうです。四限も」


 この会話をしたのは、もう九回目だ。金曜日の先輩の講義は三限までで、終わったら大体サークルのメンバーがたむろしてる食堂に寄る。金曜日の午後の授業がない僕は、三限から食堂にいる。今日は先輩と二人しかいないが、他の人も一緒にいることのほうが多い。だからただのサークルの後輩の僕の授業のコマなんて覚えてなくて当たり前だ。

 先輩の講義スケジュールを把握してる僕がおかしいだけだ。


「あ、いまやってんのって月曜の? あとでノート写させてくんない?」

「いいですけど、代返のツケも溜まってますよ。今度、なんか奢ってくださいよ」

「月曜一限の授業なんて行けなくて当たり前だろ ?」

「ノートいらないんですね」

「すみません、コーヨー大明神、この通りです」


 そういって先輩はパンと両手を合わせて、僕を拝むようにして頭を下げる。それに僕は笑って、「仕方ない先輩ですね」と返す。いつも通りの会話。大丈夫、僕はちゃんと後輩をやってる。


「やー、コーヨーはほんっと頼りになるなあ」


 くしゃっと先輩が笑う。

 目じりに浮かんだ皺に見惚れそうになって、「頼りない先輩を持ったからかもしんないっすね」と返しながら視線を落とす。テーブルに両手をおろした先輩の指が目に入る。大きな手、長い指。バスケットボールを簡単につかめそうな、しっかりとした手。

 その指の付け根にはいまは何もはまってない。爪が少し伸びてきている。彼女がいるときはマメに爪を切る人だから、先月分かれた彼女の後から新しい恋人はいないらしい。それに安心するのと、そんなことを確認する自分が浅ましくて、癖で左耳を触る。


「コーヨーって長男だっけ」

「そうですよ。三人兄弟で、全員男です」

「コーヨーの弟ならー……名前はコージとか? あ、あえてフユト?」

「……先輩、忘れてるかもしれないですけど、僕の名前はミツヒロですよ」

「あーもう、俺の中で完璧に秋の紅葉で定着してたわ」

「先輩のせいで、他の人にもコウヨウが名前って思われてるんですけど」


 うちのサークルは適当で、映研と称しながらも大体飲みながら映画を観るか、飲み会をするかっていうようなサークルだ。

 全員集まることもめったにないし、正式なメンバーが今何人かもわからない。だから、たいていは上の名前だけとか、あだ名で認識されてる。僕の場合は、「嵐山光洋」と書いた名簿を見た青葉先輩が「あらしやま……こうよう? 京都出身?」と勘違いしたのをきっかけに、そのまま紅葉の発音で「コーヨー」と呼ばれ続けてる。


「連絡先もコーヨーで登録してるから、忘れちゃうんだよなあ。もうめんどくさいからさあ、改名しろよ」


 改名ときいて、ふっと先輩の名字から、連想してしまった。みきみつひろ。


「結婚したら改名できるかもしんないですね」


 あ、まずい、変なこと言った。

 改名と聞いて結婚を思い浮かべる男なんてそうそういない。しかも目の前の同性の先輩の名字を思い浮かべながら考えるなんて、そんなこと普通の後輩はしない。

 胃がひゅうっと冷える気持ちと、左耳を抑える力が強くなった。


「何言ってんの、名字変わってもコーヨーになんねえじゃん」

「……ははっ、そうですね」

「でも名字なあ。お前の嵐山ってかっこいいよな。嵐山青葉、ってなんか和風でいいな」

「へっ?」


 よかった、先輩に変に思われなかった、と安心したところの先輩の発言に思わず変な声が出た。

 あらしやまあおば。

 その魅惑的な音の羅列に、くらりと酔ったような感覚になる。


「……なんか、嵐山の夏の観光名所っぽいですね」


 声は震えてないだろうか、笑えてるだろうか。


「で、お前がコーヨーだから、秋の観光名所だな」


 無邪気に返す先輩に、心臓を素手でぎゅっとつかまれたみたくなる。

 なにそれ。二人そろって嵐山の観光名所になるとか。さいこう。もう春と冬はなくていい。夏と秋だけでいい。

 どうしよう、顔は赤くなってないだろうか。左耳を触るついでに顔の温度を確かめる。


「あれ、コーヨー。それ新しいピアス?」


 触るときに髪をかきあげたせいで先輩に見えたのだろう。買ったばかりの、小さな青の宝石紛いがついたシンプルなピアス。


「そうです。いい色じゃないっすか?」

「うん、すげーきれいな青。いいなあ、それ」


 僕は左耳にだけピアスを開けている。入学して数か月経って、目の前の人に対する気持ちが溢れすぎて、感情を隠して黙ったまま過ごすには辛くて、吐き気と苛立ちから衝動的に開けたピアス。

 開けた時に「何馬鹿なことしてるんだろ」と冷静になってもう片方を開ける気が起きなかったから、穴が開いてるのは左耳だけだ。

 でもそれから、お守りがわりのようにピアスを触る癖がついた。

 

「先輩、ほんとに青好きっすよね」

「名前が青葉だから、なんか癖になってんだよ。だけどそのピアスほんとい色だなあ、それ好きだな」


 すきだな。その言葉がたとえピアスに向けられたものだとしても、単純な自分の胸がざわつく。

 青が好きなの知っている。今日のスニーカーも、この間バイト代で買ったバッグも、適当に何か買うときに選ぶのなら青だってことも。

 真夏の青空のような人だけど、どちらかというと少し深みのある、見ていたら吸い込まれそうな青が好きなのも知っている。

 このピアスも、もしかしたら先輩が好きな色かな、と選んで買った。気づいてもらえたのが嬉しい。でもそんなことは表には出さない。


「僕も、このピアスの色、好きなんですよ。一目惚れで、買っちゃいました」

「あーいいもの見つけた時にコレだ! ってなるのあるよなー。あーでもほんといいなーそれ」

「先輩もピアス開ければいいじゃないですか」

「ピアスなあ。俺、針が怖いんだよなあ」

「ピアッサーで、ガシャンってやるだけっすよ」

「うーん……あれ、そういえばお前って片方だけなんだな」

「あー……自分で開けたんで、反対側も同じ位置に開けられる自信なくって。左右で位置ずれてたらかっこ悪いじゃないっすか。だから、そのまま」

「自分で開けたの? すげえな」

「すごくないっすよ。まあ片耳だけだと、ピアスって大体二つセットだから、なくしてももう片方を予備に持っておけるんで便利ですよ」

「なにそのずぼら。でも確かに便利そう」

「……このピアス、片方余ってますから、先輩が開けるならあげましょうか?」


 思わず口について出た言葉に自分が一番驚く。

 変だったか? 後輩が言うセリフじゃないか? いや、話の流れはそこまでおかしくない。先輩と同じピアスを付けられるかもしれない、なんて、そんな下心に気づかれなかったら、おかしくない。大丈夫、きっと大丈夫。大体、こんなこと先輩だって、本気にしないだろう。


「え、ほんとに? いいの? じゃあ開けよっかな。でも自分で開けるのこえーから、コーヨーが開けてくれない?」

「えっ?」


 あ、だめだ。普通の後輩らしく、適度にノリよく、ちょっとふざけた返答ができるように常に心がけてたのに。

 間抜けな声をだした僕の頭は働かない。普通の後輩ならなんていうべきか、考えて見つけなきゃいけないのに。いつもはその思考が癖づいてて、すぐに答えを導き出すのに、今の僕の頭は働かない。

 親しい先輩に、自分のピアスをあげて、しかもファーストピアスを開けてという頼みに、普通の後輩ならなんて返すべきなんだ。

 先輩は特に変わらない様子で、少し首をかしげる。その時に髪が揺れて、まだ何も穴も傷もついていな薄い耳が目にとまる。


「迷惑だったらいいけど」

「あっ、いやっ、そんな、ことは」


 食い気味に否定してしまう。僕の醜い下心はどれだけ素直なんだろう。焦らないように、慎重に、声を絞り出す。


「僕でいいなら、開けますよ」

「マジでいいの? 穴開けんのは怖いけど、コーヨーなら安心して任せられるわ」

「……ちょっとズレたりしても、怒んないでくださいね」


 心臓がバクバクさっきからうるさい。主張が激しい。気持ちはわかるけど、先輩の声が聞こえなくなりそうだから、今は活動を停止してほしい。


「ピアス開けるのになんか準備いる?」

「ドラッグストアでピアッサー買うくらいですよ」

「へー。コーヨーってこのあと授業は?」

「ないです、けど」

「じゃあなんもなければ、今から行かない?」

「え」


 思考のフリーズは今日二回目だ。だけどさすがに二回目ともなれば、立て直すのだって早い。


「ピアッサー買いに、ですか」

「そうそう。そんでお前ん家行って、そのまま開けちゃいたくて」


 フリーズ三回目。僕は気づかれないように深呼吸する。


「……行動めっちゃ早いですね」

「いやだって、こういうのって勢いだろ。決めたらガッとやりたいじゃん」


 住んでるアパートは大学から徒歩10分程度で、サークルの宅飲みに使われたりする。青葉先輩も何度も僕の部屋にきたことはあるし、こんな風に簡単に僕の家に気軽に来ようとする程度には、先輩とは仲がいい。

 だけど先輩が一人で僕の部屋にきたことなんて、ない。しかも理由が、僕が、先輩の耳にピアスの穴をあけるため。先輩のことを考えながら選んだ、ピアスを、つけるために。

 彼の薄い耳たぶに、僕の手が触れて、針を通す。

 その光景を思い浮かべただけで、失神しそうだ。


「それもそっすね。じゃあ、行きましょうか」


 頭の中はさっき見た先輩のきれいなままの耳と、それを傷つけるための針の映像が繰り返し再生されている。なのに僕の身体は平静を装ったまま、口は勝手に動く。手が勝手に教科書を片付けはじめる。

 期待と高揚で血管が沸騰したみたいに熱い。だけど裏腹に自分勝手な欲望の醜さに吐き気がして、背筋は凍るように寒い。

 それでも、僕は後輩の顔をつけたまま先輩と連れ立って食堂を出る。一番近くのドラッグストア、どこだっけ。僕の家の近くにありますよ。そんな何でもない会話をして。思考がキャパオーバーすると肉体と心はこんなにも乖離するのか、と僕は何となく思った。



 何回目だったかの宅飲み上映会で、「ブロークバック・マウンテン」を観た。

 他のメンバーは酒が回った状態で見るには静かな映画過ぎて、途中から眠りこけていた。

 その時には自分がゲイだと自覚していた僕は、きちんと結ばれなかったり、悲恋が多いゲイの映画を見るのが辛かった。映画の内容がいいだけに、余計に苦しかった。

 暗くした部屋で、体育座りでぼんやりと眺めてた。青葉先輩はソファに寄りかかってビールを飲みながら、静かに観ていた。

 やがて映画が終わってエンドロールが流れる。僕も先輩もエンドロールは最後まで見るタイプだった。だけど、エンドロールの最中に、珍しく先輩がポツリとつぶやいた。


「こういう悲しいの、なんか、やだな」


 その声は薄暗い部屋と流れてくエンドロールに紛れて消えて、僕は何も言えなかった。

 ただ、先輩が、ただの先輩じゃなくなったのは、その時だった。



 目の前に並べられてるピアッサー。透明なプラスチックの包装から見えるそれは、白の長方形で、耳たぶを挟めるように片側だけあいていて、そこから針の先端がのぞいている。

 「針だけ売ってるのかと思ってた」という先輩に「それじゃただの安ピンで開けるのと変わりないじゃないっすか」と返す。

 ピアッサーなんてただの分厚いホチキスみたいなものだ。最初からファーストピアスがはまってて、押し込むだけ。それで、穴がふさがらないようにファーストピアスは一か月くらい外さない。消毒とかちゃんとしたほうがいいんだろうけど、そこらへんは適当でもなんとかなった。


「開けたらすぐに好きなピアスつけられるんだと思ってた」

「ファーストピアスは普通のピアスよりちょっと太めなんですよ。すぐ外したりしたらふさがっちゃうかもしんないです。ピアスホール完成までの我慢です」

「ふーん。まあ適当なのでいっか」


 ピアッサーは大体シンプルなものが多い。先端が丸いだけのシルバーピアス。目立たないようにするための透明なピアス。それらを見て先輩は面白そうに笑った。


「誕生石ピアスって何これ」


 その中でも一番同じデザインだけど、色だけが違うピアスに先輩は目を止めた。

 同じデザインだけど、それぞれ色が違うピアス。ただの色がついただけの、それっぽくカットされたガラス石。僕は左耳を触る。


「俺は7月生まれだからー……これか、ルビー」

「赤とか先輩似合わなさそう」

「失礼なやつだな、お前何月生まれ」

「え? 9月ですけど」

「じゃあこれか、サファイア。だからよく青のピアスつけてんのか」

「まあ、そんな感じで」

「お前はどれにしたの?」

「え? あー……僕も、誕生石から、選びました」

「そうなんだ。じゃあ、俺これにしよっかな」


 そういって先輩が片手に収めたのは、7月の赤色じゃなくて9月の青色。


「自分の誕生石じゃなくていいんすか」

「んー、まあルビーって柄でもないし。青だし、それにこれ、お前の誕生石なんだろ? ならこっちのほうがいいかな」


 え、とその言葉を飲み込めないまま先輩はすたすたとレジに向かう。

 動けなくなった足で呆然としながら、ようやく動き出せたのは先輩が会計を終わらせたところだった。



 変哲もない学生用アパートの部屋。窓側にベッドを置いて、中古で買ったソファとテーブルがあって、教科書と漫画をごっちゃにして床に置いてある、普通のワンルーム。

 先輩は床に直接座って、テーブルに置いた鏡をのぞき込んでる。


「印つけるのって、こんな感じでいいの?」


 先輩の右耳には水性ペンで付けた小さな黒の点がある。


「大丈夫ですよ」


 僕は声を震わせないようしながらピアッサーの封を解く。それは重たい気持ちと裏腹にやけに軽くて、アンバランスだった。


「そういえば、片耳だけでよかったんですか」

「だってお前から余ってるピアスもらうのに、両耳開けたら一個足りなくなるじゃん」


 あ、ちゃんとお礼するよ、飯奢るし、なんて先輩は言う。

 ピアッサーの使い方は簡単だ。耳たぶを挟むようにピアッサーを構えて、針と耳たぶが垂直になるように印に合わせる。そして針とは反対の受け皿側のキャッチが入ってる四角い底を勢いよく押し込むだけ。


「あー緊張するー」

「僕だって責任重大だから、緊張してるんですよ」

「ごめんごめん。でも俺やっぱその針見るだけでも怖いもん」


 先輩が笑ってる。僕のことを無邪気に信じてくれてる先輩。

 座ってる先輩の横に膝立ちになる。いつもより近づいて、先輩がつけてる香水の香りが強まる。柑橘系と少しスパイシーな香り。前の前の彼女からもらった香水を先輩はそのまま惰性でつけている。その香水にまぎれて、ほんの少しだけ先輩自身の汗の匂いがする。

 ピアッサーを構えて、銀色の針の先端を耳たぶの印に合わせる。

 その時、骨ばった薄い耳の、ひやりとした肌の感覚が触れて、僕の指は止まる。

 まっさらな、傷一つない耳。そこに今から、針を通して、穴を開ける。僕の手で。

 その想像だけで身体がぞくぞくと熱くなる。

 だけど、先輩は僕のことをただ信じてくれていて、僕が先輩の耳に少し触れただけで呼吸が止まりそうなことなんて知らない。先輩にとっては何でもないことでも、僕にだけ許してくれた特別な行為に思えて薄暗い愉悦を感じてるなんて知らない。

 どこまでも深くて広い青空そのもののような先輩に対して、僕自身がひどく汚れているように思えて、ピアッサーを構えた手が震える。


「ちょ、コーヨー。大丈夫? 手、震えてるじゃん」

「……大丈夫です、すんません、人にするのって、やっぱ、緊張しちゃって」


 震えてるだけじゃなくて、呼吸もままならない。でも、変に息を荒げたらおかしく思われる。だからそのまま息を止める。


「思い切って、やっちゃってよ」


 酸欠で苦しい頭に先輩の声だけが聞こえる。

 僕は息を止めたまま、震える手でぴたりと針の先端を当てて、思いっきり力をいれた。

 ガシャン、と音がする。


「っつう……! やっぱちょっと痛いな……でも思ったより平気だったな。なあ、ちゃんとついたか? コーヨー……」


 たった今、つけられたばかりのピアスを触って、先輩が僕を見上げる。その先輩の目が真ん丸に見開かれる。


「えっ……どうしたんだよ、コーヨー」


 先輩が何に驚いてるかわからなかった。「なんで泣いてるの」その先輩の言葉で、僕はようやく自分の顔に触れて、目から涙がぽろぽろぽろ零れてることに気づいた。

 驚いて固まってる先輩の顔。右耳に青のガラス玉がついたピアス。

 ああ、僕は。


「……すんません、なんでもないっす。あの、やっぱ、余ってるのあげるの申し訳ないんで、まだ使ってないピアスあるから、それ、あげるんで」


 腕で顔を拭って、テーブルの端にあった百均のプラケースを先輩の前に置く。それは僕のピアス入れで、未使用のピアスや、余ってるピアス、もう使わないピアスをそこに突っ込んでおくだけのケース。


「あ、でも、それなら、両耳あけたほうがいいかもしんないですね、僕の時のピアッサー余って……いや、新しいの買ったほうがいいっすね、すみません、僕、やっぱ人の、あけるの、こわいから、次は、他の人に頼んでもらっていいですか。すみません、お詫びに、これも、このピアスも、使ってないから、あげるんで、すみません、すみません」


 先輩の顔を見たくなくて僕の顔を見られたくなくて、ケースから新品のピアスをただただ取り出していく。僕がピアスを開けた時、使わないでいたままの未開封のピアッサーだけは隠そうと手を伸ばしたところを、上から先輩の手で押さえつけられた。


「せん、ぱっ……」

「おまえ、これ……」


 先輩は僕の手元にある使われないままのピアッサーのパッケージを見てる。

 そしてそのままケースの中を探って、もう使わなくなって、でも捨てられなくて投げ込んでいた僕のファーストピアスを見つける。

 それは、単純なシルバーや水色や青のピアスの中で、異質な、赤色。

 使わないままでいた右耳用のピアッサーにはっきりと書かれている。七月の誕生石。ルビー。

 先輩の、誕生月のピアス。

 ああ、終わった。

 先輩は馬鹿じゃない。ただの後輩が、先輩にピアスを開けるだけで泣き出したりしない。青のピアスを集めてるのは、まだ、自分の誕生石がサファイアだからって誤魔化せた。だけど、僕のファーストピアスは、誤魔化せないくらいにその赤さを、僕の気持ちを主張していて。

 左耳が熱くなる。先輩の溢れる思いを封じるためのピアスなのに、わざわざ先輩の誕生石のピアスを選んだ。

 そして今も、先輩の初めてのピアスを開けられたことに、僕が選んだピアスをつけてくれるという喜びと、それを隠して触れている自分の醜悪さに我慢しきれなくて、ピアスのお守り程度じゃ堰き止められなかったぐるぐるしたものが涙になって溢れてる。

 僕は「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返した。先輩の顔も見れない。

 だけど先輩の手の動きだけは見えた。その手は、少し汚れた、もう何にも使えない、赤いファーストピアスをそっと握りこんだ。


「今日は、これだけ貰ってく」


 その言葉とともに、ぐいっと身体が引っ張られる。

 先輩は僕の顔を自分の肩に押し付けてた。そして、ピアスを握ってないほうの空いた手で、僕の頭をゆっくり撫でる。


「ずっと気づいてあげられてなくて、ごめんな」

「ちが、ぼくが、わるくて、ごめんなさ、」

「いいから、もう謝らなくて。コーヨーはお兄ちゃんだから、こんなになるまで我慢してたんだなあ。俺もすっかり甘えちゃってたなあ。ごめんな」


 ゆっくりと、だけどしっかりと、先輩の大きな手が僕の頭を撫でていく。

 先輩の肩に自分の顔を押し付けて、ひくっ、と変な声を出しながら泣いた。


「お前、泣くの、下手だなあ」


 「甘えるの下手なんだな」と笑い混じりの優しい声で告げて、「お前はいい子だよ」と先輩は僕をあやす。

 僕はひたすら、先輩の肩を濡らして、下手な泣き声をあげていた。



 あの後、泣き止んだ僕はひたすら慌てて、先輩は驚いたような顔をしてたけど、追い払うように帰した。そして一人になってまた泣いた。

 それからはなるべく先輩に会わないように、サークルの集まりにも、食堂にも行かなかった。唯一被っている授業は友達に代返を頼んでさぼった。

 先輩から何度か連絡がきたけど、何も返さず、三週間経った。

 このまま会わずに、変な後輩のことなんて先輩の記憶からなくなってくれないかな、と食堂脇の道を歩いてた時に、いくつかの靴に紛れた青のスニーカーが目に入った。


「あれ、青葉、ピアスあけたの?」

「いいだろ」

「似合ってるよ。でも青じゃないんだあ、なんか意外」


 顔を上げられなかった。青じゃないピアス。ファーストピアスは外して、新しいピアスを手に入れたのか、自分で買ったのか、誰かからもらったのか。確かめるのが怖くて、何より会うのが怖くて、縫いつけられたように足が止まった。


「あ、コーヨー!」


 だけど、青色の靴は僕に近づいてきて、大きな手が僕の腕をとる。

 恐る恐る顔をあげると、いつものように、いや、どこか拗ねたような顔をした青葉先輩が僕を見ていた。


「こっちきて」


 ずるずると先輩の引きずられるまま僕は歩く。僕の感覚がおかしくなったのか、周りの音がよく聞こえない。いつもつけてる先輩の香水の香りもしない。ただ感じるのは、手首を握る先輩の手の熱さ。

 食堂を通り過ぎて、近くの学部等の裏手側に連れてかれる。「ここでいいかな」と呟いて、やっと先輩は立ち止まる。

 周りに人の気配はなくて、「コーヨー」と呼ばれて、のろのろと顔を上げる。

 いつもの無邪気な笑顔ではなくて、少し困ったような、ちょっと照れた顔で笑ってる先輩がいる。そして、その右耳には。


「せんぱい、そのピアス……」

「あ、うん。ピアスホール、できたぽかったから、待ちきれなくて自分でつけちゃったんだよね。ほんとは返事聞いてからにしようかと思ったんだけど、フライング」


 先輩の言っている意味はよくわからなかったけど、右耳を飾るガラス玉は、先輩の好きな青でも、ましてやあの剥き出しの赤とも違う、少しくすんだ、深めの赤い色だった。


「コレ、っていうのなくて、すっごい探したんだ。紅葉みたいな色。綺麗だろ」


 くすぐったそうに、自慢げに言う。僕はよくわからなかった。

 それは確かにきれいで、秋の紅葉の色をしていた。こうよう。


「あれから、ずっとお前の泣き顔ばっかり浮かんで。一人で泣いてんじゃないのかな、とか。しかもお前、俺のこと避けてるし。もっと気になって。どうせなら俺が甘やかしてえな、俺の前だけで泣いてくんないかな、とか、そればっか考えててさあ。でも、そんなの、ただの先輩ってだけじゃ、おかしいだろ。だから、どうしたらいいのかなって、考えたんだけどさ」


 ポケットをごそごそ探って、先輩は袋に包まれたそれを取り出して見せた。それは、片方だけのピアス。先輩のつけているのと、同じ色の。


「これからいうことに、お前がうなずいてくれたら、つけてくれないか」


 ゆるゆると、ピアスから先輩の顔を見る。その顔は、ピアスに負けないくらい赤くなってて。


「お前を甘やかす権利をくれ。俺と、つきあってくれないか。ミツヒロ」


 その言葉はやけにゆっくりと頭の中に届いて、何度か頭の中で再生して、意味を理解したとき、僕は我慢しきれなくて泣いた。

 必死に首を縦に振る。差し出されたピアスを、先輩の手ごとぎゅっと握る。

 先輩は困った声で「ホント泣くの下手だなあ」と言いながら僕の左耳に触る。慎重に、優しい手つきで、ずっと自分では外せなかった青色のピアスを外して、かわりに紅葉色のピアスをつける。


「やっぱ似合うな。コーヨーの色だよ」


 そういってくしゃりと笑う先輩に、僕はぐちゃぐちゃの泣き顔のまま、「すきです」と言った。

 先輩は嬉しそうに笑った。左耳と、先輩に抱きしめられた部分が、熱かった。

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