一石二兆

吟野慶隆

一石二兆

 所持金は、零円だ。数百円、とか、数十円、とか、一円玉数枚、とか、そんなこともない。文字どおりの、空っ穴だ。

 旦碁(たんご)仁鳴(じんめい)は、公園のベンチに座って、項垂れていた。そばには、着替えやら何やらを詰めたトロリーバッグを立てている。今、身につけている服は、全体的に薄汚れており、ほのかな異臭まで漂っていた。

 彼に、自宅、と呼べる場所はない。ネットカフェに寝泊まりする日々を送っている。両親は健在だが、幼い頃から、半ば厳しい躾、半ば悍ましい虐待を受けながら育ってきたため、実家に戻る気にはなれなかった。

 普段の金は、日雇いのアルバイトで稼いでいる。最近は不景気のせいで、ろくに仕事を貰えず、与えられたところで、その後にキャンセルされることが、多々あった。毎回、所持金が零円と化す直前になって、やっと収入を得ることができ、無一文にならずに済む。会社経営でたとえるならば、自転車操業、というやつだ。

 そして今日、ついに自転車が横転した。予定されていた複数の仕事が、立て続けに取り止められ、そのまま、小銭入れがすっからかんになったのだ。

(クソ……これから、どうしたらいいんだ……もう、ネットカフェに泊まる金もないぞ……)

 仁鳴は、途方に暮れていた。いっそ、本格的にホームレスにでもなるか、と、心の中で自嘲気味に呟く。しかしすぐさま、その案を、冗談でなく現実的な策として、検討し始めた。

(まあ、何にせよ、今日は野宿ってことには変わりはないがな……ネットカフェを利用する金もないわけだし。今は……)近くに立っている時計を見上げる。(午後一時ちょうど、か。日が暮れてしまう前に、横になれる場所を探しておいたほうがいいだろう)

 例えば、この公園の中に、寝られそうな空間はないだろうか──仁鳴はそう考えると、きょろきょろ、と辺りを見回した。

 公園は中規模で、敷地は正方形に近い。遊具や広場、自動販売機や公衆便所など、さまざまな設備があった。周囲には、警察署や消防署、保健所などが建っており、治安もいい。

(おっ……あそこなんてよさげじゃないか?)

 仁鳴が目を留めたのは、正方形をした公園の西に位置する辺のすぐそばに建っている、東屋だ。しっかりとした屋根が付いており、中には、寝転がれそうなほどに広いベンチや、大きなゴミ箱などが置かれている。

 そこから、西に一メートルも離れていない所には、敷地の境界を意味する生け垣が設けられている。その向こう側には、車道が通っていた。

(……ん?)

 仁鳴は、東屋の屋根に視線を遣ると、思わず、そう脳内で呟いた。

 屋根は、勾配が緩やかな四角錐のような形をしており、表面は臙脂色に塗装されていた。そして、それの端には、烏が一匹、止まっていた。

(あの烏……何かで見かけたような気が……)仁鳴は、数秒、記憶を探ってから、(ああ)と心の中で言った。(たしか、「イドミガラス」って名前だったな。全国的に、害鳥に指定されていたはずだ)

 イドミガラスは、よく言えばとても好奇心が強い、悪く言えばとても好戦的な烏だ。名前のとおりで、ひとたび「敵」と判断した相手には、人間だろうが自動車だろうが、恐れることなく挑みかかる。北海道では、イドミガラス数匹とヒグマ一匹が喧嘩をして、ヒグマのほうが敗走した、という話を聞いたこともあった。

 仁鳴が、その烏のことを覚えていたのは、以前にたまたま見かけた、役所の発行したポスターの中に記述されていたからだ。なんでも、イドミガラスを捕獲、あるいは殺害して、保健所に持っていけば、状態によってばらつきがあるが、一匹につき数千円で買い取ってくれる、とのことだった。

(……よし。撃ち落としてみるか、あの烏)

 仁鳴は、きょろきょろ、と辺りの地面を見回した。投げるのに手頃な石がないか、探す。

 もちろん彼にも、イドミガラスめがけて石を投げたところで、それが命中する確率なんて、とても低い、ということはわかっている。しかし、別に、金を得る手段が他にあるわけじゃない。なら、やってみる価値はある。

 仁鳴は、石を見つけると──適度な大きさで、珍しい見た目をしていた──、ベンチから立ち上がって近寄り、拾い上げた。左手にそれを、右手にトロリーバッグの取っ手を握りながら、東屋に向かう。

 ある程度、近づいたところで、立ち止まった。右手から取っ手を離し、代わりに、左手にあった石を握り締める。

 仁鳴は、東屋の屋根に再び視線を遣った。イドミガラスは、相変わらずそこに止まっていた。

 彼は、右手を振りかぶると、「ふんっ」と小さく叫んで、石を投げた。

 それは、屋根に止まっているイドミガラスの頭部に命中し、ばき、という音を立てた。烏は、ふら、と体を傾けた後、すぐに真っ逆さまとなり、屋根を外れ、地面めがけて落下し始めた。

「おっ!」

 それだけでは終わらなかった。ターゲットに命中した後の石が、落下している最中に、そこへ、飛行中であるもう一匹のイドミガラスが横から突っ込んできて、ぶつかったのだ。

「な……?!」

 石は、突っ込んできたイドミガラスの、右の翼にぶつかり、べき、という音を立てた。それまで直線的に飛んでいた烏は、負傷したせいだろう、大きく左にカーブした。その後、東屋の柱に、ごつん、と衝突して、どさっ、と地面に落ちた。それからは、ぴくりとも動かなかった。

 石のほうはというと、イドミガラスの体当たりを受けたせいで、大きく横方向へ吹っ飛んだ。そして、生け垣を越えると、車道を通りかかったダンプカーの荷台に飛び込んで、そのままどこぞへと運ばれていった。

「やった……やった! 二匹もゲットしたぞ!」

 仁鳴は、文字どおり跳び上がって喜んだ。近くを通りがかった、公園の利用客が、気味の悪そうな視線を向けてきた。

(いや……こうしちゃいられない)彼は跳びはねるのをやめた。(死体を、保健所に持っていって、買い取ってもらわないと)

 仁鳴は、東屋に置いてあるゴミ箱に近寄った。中を漁ると、コンビニのレジ袋を取る。いくつか突っ込まれていたゴミを、すべて外に出すと、代わりに、イドミガラス二体を、それに入れた。

(たしか、保健所は、この近くにあったな……)

 仁鳴は、左手にレジ袋を提げ、右手にトロリーバッグを引いた状態で、移動を開始した。公園を出ると、保健所を目指して、車道沿いに設けられている歩道を進み始める。

 しばらく歩いていると、電器屋の前に差し掛かった。通りに面するショーウインドウに、炊飯器だのパソコンだの、さまざまな家電が並べられている。

 仁鳴は、ふと、そこの前で立ち止まった。陳列されている商品のうちの一つである大型テレビが、ニュース番組を流している。そこには、黒い布の上に置かれている石を撮影した、大きな画像が表示されていた。

 彼は、その石に見覚えがあった。さきほど公園で、イドミガラスを撃ち落とすために投げた石と、同じ物、同じサイズだ。

 ニュースの内容が気になり、仁鳴は、テレビの音声に耳を傾けた。

「──という史実から、この石は、『桃跳石』(とうちょうせき)と呼ばれています。石の内部には、極めて希少な元素が含まれているため、とても高い値段で取り引きされています。例えば、これくらいの大きさになると、日本円にして、二兆円ほどの価値があり……」


   〈了〉

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