part.C『雲の上の世界』
「そういえば、なんて選手だっけかなえーと……、」 えーげす、げす……げすぱん? ああっそうだ。「ゲスパイネかわいいよね。HR打ったあとの『ゲスパイイネポーズ』、あれすっごくおもしろいなーって思った」
#ナグモちゃんの怒濤の熱弁に喰らいつくべく、わたしはなけなしの知識をはたいて、自分から
「ゲスパイネ? ――」
ナグモちゃんの声音がどんより重たくなる。
不愉快そうに眉間に皺をよせて。
ナグモちゃん? ……なんだかやな予感。
「いいこと? あたしの前で、その名前を呼ばないでちょーだい。あの裏切り者奴っ。まさかFAになったからってあんな簡単にカネメに釣られて移籍するとは思いもよらなかったわ。それもなんでよりによって、大都市のライバル球団に魂を売っちゃうのかしら? いったい、どういう了見? 球団への恩義ってものはないのかしら? あんな長期間の大怪我してたときにだって見捨てないでサポートしたじゃないの。それなのにっ。それなのにさらっと裏切って、むこうに移籍したとたん、活躍してるのが、嗚呼っにくたらしぃー……(ブツブツ)」
(あうあうっ……ど、どうしよ)
後悔しても、時すでに遅しである。
どうやら、わたしは踏んではいけない地雷を踏み抜いてしまったらしい。
ナグモちゃんはドス黒いオーラを漂わせて、呪詛を唱えている。ゴンドラ内の空気が重たくてぴりぴりしてきて、わたしは為す術なく、ちぢこまってぶるぶる震えるしかできなかった。貴族のお嬢様のご機嫌取りに失敗した下々の者である。
もっと慎重に話題選びをしなければならなかったな。
にわかなのはバレバレだったんだし、下心まるだしな付け焼き刃のおべんちゃらなんて通用するわけなかったのだから。(あとで知ったのだけれど、ゲスパイネが移籍したのは4年も昔のことであった)
もはや万事休すかと思われたけれど、ふと呪詛を唱えていたナグモちゃんが、ぶるぶる震えて絶命しそうなわたしを一瞥するや、はっと我に返ったようで、
「おっと失礼オホンっ……あたしとしたことが、お見苦しいところを」
◇ ◇ ◇
#そういえばさ、――と何事もなかったかのようにナグモちゃん。
「そういえば、どうしてか、はまだ訊いてなかったわね。綾菜はこんなゴールデンウィークの真っ只中に、〈上〉へ何の用事かしら?」
「えーとね……図書館へ。学校の課題のためなんだけど、その調べ物にね」
「ふーん、どんな課題なの?」
「政策学入門のレポート。〈市〉の歴史がテーマで、〝尾城雲市の歴史〟ってことで、五千字」
「ざっくりしてるわね。具体的には何を書くつもり?」
「〝〈尾城雲インダストリーズ〉の沿革〟……かな。ベタだけど」
まあ、このチョイスが無難だろうな、と思って選らんだってだけのことなんだけれど。この〈市〉が企業城下町と呼ばれる由縁なわけだから。
「へぇ。にしても真面目だわね。だってインターネットを使って、ちゃちゃっと済ませちゃえばいいでしょう? 連休だっていうのに、わざわざ殊勝なのね」
言ってからも腑に落ちないようすで、ナグモちゃんは首を傾げて、
「でも、ひとりで? ゴールデンウィークよ。お友達は?」
「友達は……友達は、たぶん誘ってもついて来てくれなかっただろうな。やっぱり図書館で調べ物するのだなんて、めんどくさがるだろうし。――けれどそれよりも、わたしが、図書館が好きだっていうのがおおきいんだと思うの。わたし、本に囲まれてる空間にいるが好きで、それだけで落ち着くんだ。古書の匂いだとか静謐さが、わたしにはしっくりくるの。趣味っていうよりか、もはや習性みたいになっているふしがあって、学校の休み時間なんかもそうなんだけどね、放課後もそうだし、休日も、気がつけば図書館にいて、だいたいいつも過ごしていることになるわ」
「まるで〈本の虫〉さんみたいね」
ナグモちゃんが、おかしそうにくすっと笑う。
まさしくそうなのかもしれない。はたから見たら、アオムシが葉っぱを食むみたいに、本にかじりついて読み耽っているふうに映るのだろうから。
「本当は図書委員になりたかったくらいなんだ。お昼休みを、誰にも邪魔されずに図書室にいられるから。でも、
話していて言葉に詰まった。自分で話していてめげそうになっていた、いかん。
「ん? 綾菜……?」
どうしたの? と心配そうにわたしの顔を覗きこんでくるナグモちゃん。
わたしは、続きを話すべきか、ぐずぐず躊躇って、やっぱり止めた。
ナグモちゃんのほうも、わたしがこれ以上話す気がないことを悟ったらしく、
「お人好しね、綾菜」
とだけ言った。「なんだかんだ、クラスメイトのことゆるしちゃってるんでしょ?」といわんばかりに。
やっぱり見抜かれてるんだな。でも、わるい気はしなかった。やさしく心に触れられたような感じがしたからかもしれない。
「そうかもね、ナグモちゃん」
気持ちが軽くなったのか、わたしは自然と笑えていた。「へへへ、」
「ところで、綾菜が、これから行こうとしてる図書館って、もしかして〈尾城雲インダストリーズ〉の図書館?」
「そうだね。そう、初めて行くんだ。課題に必要な資料が、ライブラリー検索したら、稀覯本なのかな? ――〈上〉の図書館にしか蔵書されてないみたいだっただから」
ナグモちゃんの言っている――わたしがこれから行こうとしている図書館とは、尾城雲インダストリーズ株式会社に併設されていて、一般のひとにも開放されている私立図書館なんだ。
昨日調べて初めて知ったんだけど、企業が運営しているのに、蔵書が市営の図書館の倍以上もあって、閲覧席も充実しているし、カフェテリアなんかもあるらしい。
「行くの初めてなの? どうして。図書館が好きなんでしょう。だったら一度くらい行ったことがあったっていいじゃないの」
そうなのだ。前々から行きたいとは思っていてノーマークってわけじゃなかったんだけど、でも未だに坂の上の図書館には行ったことがなかったのだ。その理由は……
「なんとなく恐かったんだよね」
「こわい?」
理解できないわ、と言わんばかりに肩をすくめるナグモちゃん。
なんでかっていうと、図書館に併設されている〈尾城雲インダストリーズ〉の本社ビルというのを坂の下である〈市〉から見上げると、とにかく異様な存在感を放っていて、市民たちに畏怖の念を抱かせているのだから。
ポストモダン建築で威風堂々と聳える、その本社ビルは、さながら世界征服をたくらむ悪の秘密結社を彷彿とさせて、いまにも巨大ロボに変形しそうな感がある。
この認識は市民のおよそ全員に共通しているもので、高い処から見下ろされている感じがして不快だ、目障りだ、センス悪い、〈市〉のイメージを損なう、品性の欠片もない市長である、……などといった世間の評判をよく耳にする。
という旨を伝えると、
「おばかさん! おばかさん! おばかさん!」
そうじゃないのよっ! と、ナグモちゃんは声をあらげるや、
「ったくもう、みんなわかってないんだから。あのね、あの本社ビルを高台の上に建てたのはね、パんんんッ――! いやいやいやっ、なんでもないっ、なんでもない、いまのなしよ。なしっ。いいわね?」
突如、口をつぐんで居住まいをただすナグモちゃん。
「う、うん……わかった」
ナグモちゃんの勢いに圧倒されてわたしは、ただ唖然と頷くしかできなかった。
「オホン……あのね、」
ナグモちゃんは咳払いして、仕切りなおす。
「たしかに、この〈市〉の市長は悪くいわれやすい
おまけに、
「競馬が好きなのは事実よ。地元の歴史ある由緒正しい格式ある競馬場で〝謝敷〟の名を冠した謝敷記念杯なるレースが一年に一度(いつの間にか)開催されるようになったのだって、「裏」でなんかあったんじゃないかって勘ぐるひとがいるけど、単に学生時代のイギリス留学で、乗馬したのがきっかけで嗜むようになっただけのことなんだから。単に、馬が好きなだけよ。馬好きがこうじて、(誰彼かまわず)熱心に布教してたらこうなっちゃっただけのことなんだからねっ。
それがたまたま立て続けに、地元の球団を買収。市にホームとなるドームスタジアムを尾城雲競馬場に隣接するように建てなおして。サッカーでいうトトカルチョ的なことも主催ししったりして、最終的には、ブックメーカー立ち上げも画策している――だなんて」
ナグモちゃんは、いっきにまくしたてていた口を一旦止める。「ぜぇはぁ……ぜぇ……」 息切れしているようで、野球の話をしているときとは比べ物にならないくらい鬼気迫る勢いである。
「だ、だいじょうぶ……ナグモちゃん?」
ナグモちゃんはこくと小さく頷くと、かまわずまた語りはじめる。
「そりゃ企業拡大とともに、外からもひとが押し寄せてきて、ここ数十年で〈市〉はがらりとさま変わりしたわ……企業城下町だなんて呼ばれるようになってね。
本社ビルを移転した高台の区画整理もあって、元々住んでいた人たちは追い出されるかたちになったわ。役所から持ち出された計画ではあったんだけど、〈あの社長〉がまた裏から手を回したのでは?(今度は、役人とも繋がったか) だなんて風にも噂になって」
ナグモちゃんは「風評よ」と批判の声を一蹴しているけど、その声はどこか力無く感じられた。
「開発の影響で地価は(信じられないくらい)急上昇して、高台は金持ちしか住めない高級住宅街へと変貌したのも事実だわ。
で、追い出された市民の怒りの冷めやらぬうちに、市長になっちゃてて。
〈市〉がみるみる変化してゆくことに不安を感じる昔からの住民がいっぱいいたのもわかる。〈上〉の奴らに支配されているばかりで、すべて思うように、好き勝手されてしまうんだ、ってね。〈下〉と〈上〉で離れ離れに引き裂かれたひともいたわ」「…………」
でもね……とナグモちゃん。
「欲深い豪商なんかじゃないの、魔王なんかじゃないの……その証拠にね……その証拠に……」
ナグモちゃんは、言いながらしぼんでいくようにみえた。だんだん殻に閉じこもるように。
「そうじゃないのよ。誰もわかっちゃくれないと思うけど、このロープウェイだってね。〈上〉のひとのためって思われてるかもしれないけど、本当は〈市〉のみんなのために作られたのよ」
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