part.B『パノラマ』
「――あなたって『坂の下の住人』かしら?」
#きゅうに話しかけられたもんだから油断した。
反射的にびくぅっと身体がこわばってしまったのは、意外にも上品な言葉遣いにおどろいたからかもしれない。
ぎぎぎと首をめぐらせて、わたしは声のしたほうを向く。
それはともかく、いま聞き捨てならんことを口にしなかったか?
『坂の下の住人』ですと……???
わたしの住む街〈尾城雲市〉は、旧名・小戸野市――現在の企業城下町と化したのを期に、立役者となった〈尾城雲インダストリーズ〉の功績をたたえて名称を変更したとのようだ。
〈
ひとつは、平野に広がる住宅街である。市外からの移住者も含めて、いまでは200万人もの一般市民が暮らしているという。
もうひとつは、〈尾城雲ヶ丘〉という標高764メートルの高台の上にかまえる高級住宅街である。〈下〉の住人からすると近寄りがたく、縁遠い世界。
『坂の下の住人』という言葉には、侮蔑的なニュアンスを感じられた。下の住民にとっては、ややセンシティブな言葉である。
そんなつもりで言っていないかもしれない。そう聞こえてしまうのは〈下〉の住人の被害妄想かもしれない。
とも思ったけれど、それでも、そういう言い方ってないんじゃない? という気持ちが表情にもろに出てしまっていたようだ。返事をするまでもなくバレて、
「やっぱりそうなのね」
予想を的中させて、
拗ねてそっぽを向くわたし――これまたわかりやすくくちびるを尖らせていたかもしれない――、なんておかまいなしに、彼女から質問が投げかけられる。
「あなた、どこの学校に通ってるのかしら?」
答えようか、すこし躊躇う。どうして、こんなにもズケズケと不躾なひと相手に教えてあげる義理があるのだろうか? もしかしたらわたしのことなんて見下しているのかもしれないのに。
けれども、それはくだらない意地を張っているみたいで、ばかばかしく思えて、わたしは素っ気なく答えることにした。
「港北高校よ。あなたは?」
「あたし? あたしは、白櫻女学院よ」
彼女の方は、さもなんてことのないように答える。
やっぱり高台出身のひとのようだった。それも、この〈
「学年は?」
「1年生よ」
「同い年、なのね。びっくりだわ」
なにが驚きなのか彼女は目を見開いている。彼女にわたしがどう見えていたのかはしらないけど、すくなくともわたしのほうとしても(同い年なんだ……)っていう驚きはあった。
完全に年下だと思っていたから。白櫻女学院に通っているといっても、てっきり中等部のほうだと思ったから。
「あたし、ナグモ。あなたは?」
どうやら彼女は名前を名乗ったようだ。
というのでわたしのほうも、しかたなく、
「坂井綾菜、よ」
名前を告げたわけであるが(彼女は――ナグモちゃんは、「あやな、ねー。ふーん、」みたいな感じで平坦に口もとで反復して呟いている)、わたしとしては、相手はおそらく下の名前(?)しか名乗らなかったってのに、ご丁寧にもフルネームで受け答えしてしまったことの不公平感に、なんだか胸のあたりがモヤモヤしてきた。
「ねえ、綾菜さあ、――」
(んっ?) 唐突に間近で名前を呼ばれたもんだから、面喰らって顔をあげるといつの間にか目の前にナグモちゃんが立っていた。なに?
「せっかく、こんなにも天気がいい日なのよ? 先頭の隅っこに座ってるんじゃもったいないわ。ロープウェイの醍醐味は、最後尾から眺める景色なんだから」
「えっ?」
『イイコト思いついた!』とばかりにニッコリ満面の笑みを浮かべてナグモちゃんは、わたしの手首を掴むなり、ぐいっと強引にわたしを立ち上がらせる。「あわわっ」 咄嗟のことで、思わずわたしはよろける。
それからガブッと首根っこを抱き寄せられて、ゴンドラの進行方向とは逆向き――最後尾めがけてタタタタッ! と駆け出してゆく。窓ガラスを突き破って、ゴンドラから飛び降りるんじゃないか、ってくらいのいきおいで。
「ギャアァァァ!」
素っ頓狂な叫び声をあげて、ナグモちゃんと
(ううっ、うぐぐぐ……ッ) こっ、殺す気かっ?
ゴンドラが、ぶっらんぶらん揺れている感覚がする。一向に揺れがおさまりそうにないから、もしかしたらロープがちぎれて落下するんじゃないかという恐怖に怯えて、冷や汗がダラダラ流れてきた。
「ほらっ、みなよ! すごいだろッ? ――って、ん? 綾菜? なーに目ェなんか瞑ってるのさ。みてよさあ、最高の景色なんだから」
「へっ? ――っんがぁッ!?」
かたくなにぎゅっと閉じられていたわたしの目蓋に、きゅうに指が触れたかと思うと、ナグモちゃんに無理矢理こじ開けられる。
「さあ、みて」
わたしの視界に映った景色は、――
眼下の裾野に、マンションであったり団地の連なる
俗に下の〈
こうやって遠く高い場所から見下ろしてみると、普段、あの家、あの〈
彼ら彼女らそれぞれに、所属する居場所があって、職場があったり、学校なんかがあったりして、そんな彼ら彼女らが向かう先……
その奥にすすんだ処にある市街地。オフィスビルが幾つもそびえていたりして、ぱっつんぱつんに膨れあがった白いドームスタジアムが鎮座していたりして、〈
湾岸沿いには、工業地帯と港が広がっていて、そこから先は水平線の彼方まで太平洋が、きらきらと太陽の光を反射させてよこたわっている。
これが人口200万人の地方都市――尾城市の全景である。まっすぐに伸びる緑の坂の下――高台の麓に広がるこの〈
わたしの住む〈
湾岸沿いの高速道路は、〈
港に停泊している大量の
すべてはひとつの蜘蛛の巣みたいな
いつも窮屈で閉ざされた世界――温室で飼育されているみたいな狭い世界から、外の世界へ繋がっていること。そこに
あたりまえだけど、知っていたけど、日常に埋没して見過ごしていたことが、こうして実に
「ねっ、綾菜。すごいでしょ? 最後尾から観ると、また格別なのよ」
茫然として我を失っているわたしに、ナグモちゃんは目をキラキラ炯らせて、まるで自分の〈
「あっ、みてあれ! ……あのドームスタジアムの奥にあるあれよ」
#ナグモちゃんが指さす先に、飛行船が空を浮かんでいるのがみえた。飛行船の
(はて?)
思って、小首を傾げていると、
「そうね。だってプレーオフの時季だものね」 口もとに手を添えてうんうん頷くと、ナグモちゃんが熱心に語りはじめる。――カンファレンス・セミファイナルで、2勝3敗の負けられない崖っぷちだものね。まさしく正念場よ、綾菜。1回戦目は
「あー、えーと……」 わたしは、改めてナグモちゃんの
熱心に語りながらじりじり詰め寄ってくるナグモちゃんの「圧」に、わたしは後退りつつ、口をもにゃもにゃさせたのち、
「そ、そうなんだー……」 へー。
程度の言葉しか出てこなかった。ほんとうに、こういうときなんて返していいかわからない……トホホ。
「そうなんだ、ってなにその薄っぺらいリアクションは。あなた、尾城雲市民でしょ? ライナーズ応援しないの?」
「あー、えーと……」
そりゃわたしだって野球のこと知らないわけじゃないけど、せいぜいリビングでお父さんが晩酌しながらTVで観ているのを横目で通り過ぎるくらいなもんで、ルールなんてろくに知りもしない。それに乱闘ってなんだかこわい、こわい。
「非市民っ! いいことっ? これからは絶ッ対に毎試合ライナーズ観なさいよ市民の義務よ。わかった? いいわね!」
「は、はひっ」
至近距離で切実な叫びをあびせられたわたしは、その熱量に気圧されて、なかば強制的にこくこく頷くことになった。
それからナグモちゃんは、球団に関して――レギュラーシーズンをふくめたプレーオフのこれまでの経緯、果ては球団の歴史にまでさかのぼって、事細かに、しかも情熱的に語りはじめた。とりあえず、ナグモちゃんのライナーズ熱は伝わってきた。「ねえ、わかるかしら、綾菜?」
けれど、――
ただ一方的に語られているだけのはずなのに、それなのに、いやな気は全然しなかった。それどころか、むしろ心地よさを感じていた。
「聞いてる……綾菜?」
「うん、聞いてるよ」
高校を入学して早々、わたしは新しく出会ったクラスメイトや担任教師からことごとく、お人好しな性格を見抜かれてしまった。いとも簡単に。
クラスの役割決めで、入学時の試験成績もあいまって、すっかり優等生扱い。適材適所。みんなの合意。という名の圧力に押しこまれて、わたしは学級委員長を任されることになった。担任教師も含めた共犯である。
なんせわたしが助けを求めて口を開きかけたとき(このときもわたしはモゴモゴと言葉を躊躇っていた)、「それじゃあ〝委員長〟、続きの進行は任せたよ」だなんて言って、崖から突き落としたのだから。
以来クラスでわたしは、〝委員長〟としか呼ばれていない。
それはつまり、〝学級委員長〟としてのみわたしでしか認識されていなくて、〝学級委員長〟としてのわたしでしかそこに存在しえなくなった瞬間だった。クラスメイトはおろか、先生からもきっと、誰からも名前を憶えられてないんだわ。教室が虫かごみたいに、窮屈で閉ざされた世界に思えた。
本当は図書委員になりたかったのに。それすらいえなかった。言い出せないほどの圧力があったというよりかは、単純に自分が意気地なしで、言い出せなかっただけなんだけれど。
だからって、――そんな
「聞いてる……綾菜?」
「聞いてるよ、ナグモちゃん」
ロープウェイは、ぐんぐん高く〈上〉へのぼっていく。かろうじてみえていたわたしの家の橙色の屋根すら、ほかの家々に埋もれてみるみる消えつつある。
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