河原にて
金糸雀
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「ママぁ、あのお花なぁに?」
その声に私はハッとする。
私は――
ゆっくりと思い出す。
そうだ。私の名前は神崎琴音。私の左手に柔らかい感触を伝える小さな手の持ち主は、娘の
私たちは、毎日恒例のお散歩に出ているところだった。
「お花って?」
凛音の方を向いて尋ねる。
二重瞼に、スッと通った鼻筋。ほど良い厚さをした、桜色の唇。七五三のために伸ばしていた髪は、本人が長い方が良いというので今も大きく長さを変えず、今日は凝った編み込みにしている。
この子は、本当に可愛い。心の底からそう思う。親の欲目というものかもしれないし、母や祖母をはじめとした私側の親族に「お前の小さい頃そっくり」などと言われると面映いのだが。
「ほら、いっぱい咲いてる。あの、赤いお花」
凛音が指差す方に視線を移すと、それは見事な彼岸花が数え切れないほどたくさん、咲き誇っていた。ちょっと現実離れしているというか、見続けているとどうにかなってしまいそうなほどの、異様で妖しい美しさが、そこにはあった。
「あれはね、彼岸花っていうのよ」
教えてやると、「ひがんばな?」と復唱してみせるさまも愛らしい。
「でも……」
「なぁに?」
「……なんでもない。本当に綺麗ねぇ」
ふと芽生えた疑問を口にしようとして、やめた。彼岸花はその名の通り秋に咲く花のはずだが、今は六月で、季節が合わない。だから変だと思ったのだが、凛音はまだ三歳だ。言ってもわからないだろう。
まぁ――ちょっと早めに咲くことだってあるわよね、と心の中で呟き、六月に彼岸花が咲いている理由についてはこれ以上考えないことにした。
そういえば今日は晴れているのね。今日も天気予報では雨だったはずなんだけど、梅雨の晴れ間というやつかな。でも、晴れの予報が外れて雨が降るならともかく、雨の予報が外れて晴れるなら、なんだか嬉しい。そんなことを思う。
それにしても。
ここは――どこなのだろう。
疲れてでもいるのか、私は随分頭がぼんやりしているようだ。お散歩の途中で、自分の居場所を忘れてしまうなんて。いや、ついさっきまで居場所どころか名前すらあやふやだったのだから、私のぼんやり具合は相当ひどい。
辺りを見回す。
一面に彼岸花が咲き誇るそこは河原で、私の右側にはさらさらと音を立てて川が流れていた。向こう岸までは十メートルくらい、といったところだろうか。少なくとも、対岸が見えないほど広い川ではない。
こんな川、うちの近くにあったっけ。こんなに目立つ季節外れの彼岸花が咲いている河原なら、一度でも見れば記憶に残りそうなものなのに、見覚えがなかった。
私、上の空で歩いていて普段来ないようなところに来ちゃったのかな。まぁ――そんなことも、たまにはあるかもしれない。
あの川、お魚いるかなぁ、などと話しかけてくる凛音の相手をしながら、ふたり、手を繋いでゆっくりと歩いた。誰か同じように散歩に来ているような人とすれ違うかと思ったがそんなことはなく、人の気配は全くない。辺りはしんと静まり返っていて、ただ、川の流れる音だけが耳をくすぐる。
ということは、この川に魚は棲んでいないのだろう。いれば、水音でそれとわかるはずだ。鳥がいる気配もないのは、餌になるような魚がこの川にはいないからなのだろう。
それにしてもちょっと不気味なくらい静かだな、と思い始めた頃、石造りの橋に行き当たった。橋の向こうには、なにやら露店のようなものが見える。
「あっちにお店出てるね。渡って、見に行ってみようか」
「うんっ」
凛音は露店を早く見たいのか、跳ねるようにして歩くので、私の足取りも、釣られて軽くなった。
対岸にあったのは、綿あめ売りの店だった。お祭りの時によく見かけるようなアニメキャラクターの絵がプリントされた袋に入れられているのではなく、剥き出しの状態で、店先に何本か綿あめが刺されている。
「ママぁ、おなかすいた。これ、食べたい」
「そうねぇ、じゃあ、おやつに一本買いましょうか」
バッグから財布を出そうとして、初めて自分が手ぶらだということに気付いた。私は何も持たずにお散歩に出てきてしまったのか。いくらなんでも、ぼんやりが過ぎる。
凛音は弾んだ声で「わたあめ、わたあめ」と繰り返していて、お財布持ってこなかったから買ってあげられない、などと言い出せる雰囲気ではなかった。もう、すっかりその気になってしまっている。
これはどうしたものかとおろおろしながら露店と凛音に代わる代わる目を遣っていると、店の中から手が伸びてきて、綿あめを一本、こちらに向かって差し出してきた。
人の気配をここでも感じなかったから、この露店は無人なのだろうかと思っていたのだが、違ったようだ。
それはそうだ。綿あめを作って売るには、作り手と売り子を兼ねるにしても絶対に人手が要るのだから。考えてみたら、いくら静かだったからといって、露店が無人だと思う方がおかしいのだ。
そうは言っても驚いて何のリアクションも取れずにいると、声をかけられた。
「これ、お嬢ちゃんにどうぞ。お代は要りませんよ」
私の態度から、何かわけがあって娘に綿あめを買ってやれないことを察したのだろう。まさか、財布を持たずに出てきてしまったことまでは気取られていないにしても。
「い、いえ、そんな、悪いですから」
さすがに、すぐに申し出に飛びつくのはちょっと恥ずかしい気がして、断りながら店の中を見る。
ひょろリと痩せた男と目が合った。
どこか悪いのではないかと心配になるような土気色の顔をしている。どこか齧歯類を思わせるようなきょろきょろとした目をこちらに向け、歯並びの悪い口をしきりに動かして、なおも綿あめを勧めてくる。
「良いんですよ、お客は他にいないんですから」
客が他にいないとはどういうことだ。この男は、客が来ないことを承知で、この場所で綿あめ屋をしているということなのか。その行動原理が、なんだかよくわからない。それに、こう言ってしまうととても失礼だとは思うが、男の風貌にはどこか生理的嫌悪感をかきたてるようなところがあって、差し出された綿あめを受け取るのには抵抗を感じた。
逡巡しているうちに、凛音が手を伸ばして、綿あめを受け取ってしまった。
「おじちゃん、ありがとう」
大喜びで男にお礼を言っている凛音の様子を見て、私はあきらめて綿あめをもらってしまうことにした。ありがとうございます、と小声で言いながら頭を下げ、顔を上げると、凛音はもう、綿あめを食べ始めている。
「おいしいっ。ママ、どうぞ」
小さな手で綿あめをちぎり取って差し出してくるので、「分けてくれるのね、ありがとう」と言って受け取った。大人になる頃には、ふわふわ綺麗に見えるけど、あれって結局はただの砂糖の塊ではないか、と醒めた認識を抱くようになったから、綿あめを買うこともなくなった。こうして食べるのは、いつ以来だろうか。
口に入れると、優しい甘みとともに綿あめが溶けて、その感触は思いの外心地良かった。
凛音とふたり、「おいしいねぇ」と言い合っていると、低く陰気な声がした。
これは――綿あめ売りの男の声だ。
「おや、貴女も食べてしまいましたね」
「え、駄目、でしたか。そうとは知らず」
あくまで凛音の分としてもらったものを食べるのはまずかったのだろうかと思い、軽く謝ろうと口を開いた私に、男は「いえいえ、良いんですよ、別にね」と答えた。陽気とは言い難い、なんとも不気味な笑顔を浮かべている。
「ただ、ね」
男は更に言葉を継ぐ。娘に、ともらった綿あめを一口分けてもらう、ただそれだけのことに、何か問題でもあったのかと不審に思ったが、なんだか口を挟める雰囲気ではなくて、男の顔から目を離すこともできないまま、私はその言葉を聞いた。
「もう、帰れませんよ、貴女も。
だって貴女は――食べてしまったから。ここの食べ物を」
どちらにせよ、あなたは、もう――
男の言葉を聞きながら、私は思い出していた。今朝、起こったことを。
魔の二歳児とはよく言ったもので、第一次反抗期を迎えた凛音の
最近は、凛音の我儘を穏やかに受け流すことができなくなっていた。怒りに任せて怒鳴りつけてしまい、後で自己嫌悪に陥る。毎日がその繰り返しだった。
優しいお母さんでいたいのに、私には、そうすることができない。凛音が生まれる前に抱いていた理想の母親像は、音を立てて崩れて行った。
今朝も、凛音は我儘をぶつけてきた。手を貸そうとすると猛烈に嫌がるから、ひとりでもたもたと着替えるのを辛抱強く待ち、苦心して髪を編み込みにして、さぁお出かけしようというタイミングで。
「お外は雨だから、長靴じゃなきゃ駄目よ」と何度言い聞かせても、雨の日用の黄色い長靴ではなく、お気に入りのピンクの靴を履くのだと言って聞かない。
その靴は、一ヶ月ほど前に夫が買い与えたものだった。彼は私とは違って「凛音はまだ三歳だろう? そりゃあまだまだ我儘くらい言うさ」と鷹揚に構えているが、それは会社という逃げ場があって、凛音の我儘に日常的に付き合わされなくて済む立場だからこそ生まれる余裕なのではないか。
たまの休みに優しく接する父親に対しては、凛音の我儘は鳴りを潜め、べったりと甘えてみせる。そうすると夫は目尻を下げて私には向けたことがないような笑顔で凛音を甘やかす。
良い時だけを見ているからこそ優しさを振りまくことができる夫が疎ましかった。こうも甘やかされては、日頃厳しく接している私の努力も水の泡だ、とすら思った。
「やだ! ピンクのお靴がいいの!」
玄関前でだんだんと地団駄を踏みながら言い張る凛音に対して、どす黒い感情が湧き上がる。雨の日に足元が濡れないようにと私が買った長靴より、夫が買い与えた可愛い靴を選びたがる凛音を、憎いと思った。
やっぱりこの子は、私よりも父親が好きなのか。毎日世話をして、果てしない我儘をぶつけられているのは、母親の私なのに。夫は、たまにちょっと手を出して「育児」をした気になって、いいところをかっさらっているだけなのに、ずるいではないか。
夫への憤懣と娘への憎悪が混ざり合って、わけがわからなくなっていく。
目の前が真っ赤になり――
右手が勝手に動いた。
パン、という乾いた音と、一瞬遅れて聞こえ始めた凛音の激しい泣き声で、私は認識した。
今、私は、凛音の頬を叩いた――
私は、今、初めて、娘に手を上げた――
だが、それが何だというのか。激情は、とても収まりそうにない。凛音の甲高い泣き声が、どうしようもなく癇に障る。
「うるさいっ!」
パン、と更に一発。
今度は、叩いてやる、と意識した上で、頬を張る。
凛音は泣きながら何か言っているが、そんなの、知ったことか。
もういい。どうせ私は優しいお母さんじゃないんだから。そんなものにはもう、絶対になれないんだから。
「あんたはいつもいつもそうやって、我儘ばっかり! ほんっとにもう、いい加減にしなさいよ!」
怒鳴りつけた後、屈み込んで凛音の首に手を掛け――我に返った時には、その四肢は弛緩していた。苦しげに見開かれた目はもはや何も見ておらず、僅かに開いた口は呼吸を止めている。失禁したと見えて、つんとした臭いが鼻をつく。
もう、この子が私に我儘を言って困らせることは二度とないのだと悟った。
ご機嫌な時に、ママだぁいすき、と言ってくれることも。
何故なら、私は――この手で、この子を、殺してしまったのだから。
物言わぬ死体となった凛音をそっと床に横たえ、ふらふらとキッチンに向かい、使い慣れた包丁を手に取った。
そして、私は、両手で包丁を握って腹部めがけて突き立てて――
あぁ、そうだ。
全部、思い出した――
私、は――
河原にて 金糸雀 @canary16_sing
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