宝生探偵事務所/お賽銭のご利益

亀野 あゆみ

お賽銭のご利益

「世津奈先輩、⾜を上げてください」

ソファーで雑誌を読んでいる世津奈の⾜の間に、コータローが掃除機のノズルを突っ込んでくる。世津奈はソファーに座ったまま両脚を上げる。良い腹筋のトレーニングだ。

 こんなことしかトレーニングらしいことをしない割には、35歳の世津奈は、筋⾁質の引き締まった⾝体をしている。

 ⾼校⽣の頃、父親から「お前はおチビちゃんだけど、⾝体の中で⼿脚の⽐率が⾼いからモデル体型っぽく⾒えて得だぞ」と褒めてるのか慰めてるのかわからない事を言われたが、実際そんな感じで、実物より背が高くみられることが多い。


「先輩も、たまには掃除してくださいよ」

コータローがせわしなく掃除機を動かしながら⾔う。

「コー君が掃除しすぎなのよ。ここは、住居エリアじゃなくて事務所エリアなんだから、適当でいいのよ」

 世津奈は家賃を節約するため、探偵事務所の奥をパーティションで仕切って、そこを住処にしている。

「事務所だからこそ、適当じゃダメなんです。先輩、今ご⾃分が座ってるのが、なんなのか、わかってますか︖」

「来客応接⽤のソファー」

「お客様をお迎えするソファー周りを清潔に保つのは、商売の『イロハのイ』です」


「だけど、お客さんなんか、来ないじゃない」

「はぁ」と⾔って、コータローが掃除機のホースを放り投げた。

「来ないんじゃなくて、誰かさんが、来なくしちゃったんです。先輩が、なけなしの2万円をカメラじゃなくて初詣のお賽銭に使ったから、ピンずれの証拠写真しか撮れず、2度続けて浮気調査に失敗。それで、そうでなくても少なかったお客さんが、パッタリ途絶えたんです」


「お正月は、神様におすがりする方が投資効率が高いと思ったのよ」

「それは、とんだ見込み違いでしたね。先輩、ボクら事務所の家賃を3ヶ⽉も滞納してるんすよ。『お客さん来ないね』って雑誌読んでるヒマがあったら、お客さん⾒つけてきてください」

「だけど、探偵に⽤がある⼈が簡単に⾒つかる世の中は、不幸な社会よ。日本がそんな悲しい有様でいいの?」

 

 コータローがため息をつく。

「今の宝⽣発⾔について、2つ、反論します。反論その⼀、今の⽇本は、とっても不幸な社会です」

「そうなの?」

「反論その⼆、世の中に探偵へのニーズがないと思ってるなら、探偵事務所なんか開いちゃいけません」

「私も、⽌めた⽅がいいかなと思ったんだけど、結局、成り⾏きで……」

「つまり、事務所を開いた⽬的も、先の⾒通しも、ない︖」

「ない」

 

 コータローがソファーから⽴ち上がって、怒り出した。

「それでいて、どぉして、落ち着き払ってるんすか︖ 先輩は独り身で面倒見なきゃいけない親御さんもいないから、いいっすよ。でも、ボクには妻子がいるんです。親代わりの伯母だって、いつまでも若いわけじゃない」

「そりゃ、私は今は独り身だけど、将来はわからないじゃない」

「先輩、玲子に『恋は勘弁』体質だって言ったんでしょ。聞きましたよ」

「恋愛しなくても結婚するかもしれないじゃない」

「他人と人生を共にする気があるんだったら、ちゃんと働いてください」

 

 世津奈は、中・⾼時代、友だちから観⾳様のように穏やかな顔と⾔われていた。⼀⽅、⽗は「お前は、肚の座った実にいい⾯構えをしている」と⾔っていた。そういう容貌だから、コータローの⽬には“落ち着き払って”映るのかもしれないが、 実は、探偵事務所を開いたのは失敗だったと悔いているし、焦ってもいる。


 世津奈が「成り⾏き」で開いた探偵事務所は、JRの最寄駅から徒歩15分の古びたビルの2階にある。この辺は商店街と住宅街の境⽬で、縄のれんの居酒屋やちっちゃなスナックの間にコインランドリーがあったりして、かなり場末の雰囲気が漂っている。

 前の勤め先を唐突に辞め、慌てて開業したので、居ぬきで売りに出ていたこの事務所に飛びついてしまった。事務所の1階は古書店だが、客の姿を⾒たことはなく、かび臭い本がうず高く積もっているだけだ。

 2階に⼊居した時、菓⼦折りを持って挨拶に⾏ったが、⽼店主はちらりと上⽬でこちらを⾒てアゴで菓⼦折りはそのへんに置けと指⽰しただけだった。それから半年、世津奈もコータローも、⼀度も⽼店主と⼝を利いていない。


「ともかく、先輩は、外に営業に⾏ってください」

「コー君は、どうするの︖」

「ボクは、助⼿です。助⼿に仕事を取ってくる権限はありません。それに、もうすぐカエデを幼稚園に迎えに⾏く時間です」

「わかった。営業に⾏ってくる」

 

 ここにいて、これ以上コータローに詰められるのは、たまらない。どうも、コータローは怜⼦と結婚してから性格がキツくなった気がする。

 仕事が取れるあてなど全くないが、ともかく、緊急避難だ。世津奈は、ちょっとした外出⽤の⼩型のバックパックを背に、事務所を出るのだった。


《おわり⦆

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