虹のうず、青のうず

張文經

 

 学校帰りにおじいさんに会いにいった。まだぼくのことを覚えてくれていて、嬉しかった。おじいさんの輪郭はまだ残っていたけれど、ただ、手足の先のほうは、プールいっぱいに広がった、虹色のどろどろと一緒になっていた。

 学校のプールよりちょっと大きいくらいの、その真ん中に渦が巻いていて、おじいさんはその渦の目のなかから背泳ぎでこっちに進んできた。

「おお、イザナかあ、よくきたなあ」

 おじいさんはパクパク口を動かして、だけど本当に口から話しているのかは、わからない。もうちょっとなじんできたら、口で喋ることはなくなって、脳に直接話しかけるようになるよ。看護師のお姉さんが前、そう教えてくれた。もしかしたらもう、半分は脳から話しているのかもしれない。

「おじいさんが子どもだったころの話、してよ」

「おお、おお。おじいの育った村では魚を取って暮らしていたんだがなあ」

 そういう風にいつも、おじいさんは話しはじめた。おじいさんが子どもだったころ、まだ海には魚という生き物がいたのだそうだ。そしておじいさんは、家族と一緒に、それを捕まえて食べていたのだという。そのころはまだ、海を覆う壁もなくて、海岸警備隊もいなくて、自由に海で泳ぐこともできたのだそうだ。

 学校のみんなにこの話をしたら、気持ち悪がっていた。「えー、そんなの食べれるの?」とか言っていた。みんなはバカだ。本当のことを知らない。おじいさんだけが本当のことを知っている。おじいさんが何でも教えてくれるから、僕はみんなよりずっと賢い。

「そうだそうだ、イザナにはまだ、あ、あ、青の渦の話をしていなかったっけなあ」

「青の渦?」

「ま、まわりに、は誰もいない、か?」

「うん、ぼくだけだよ」

「そうか、じゃあ、話そう。あ、青い渦は、こんな偽物の渦じゃない、ほ、ほ、本当の渦さ。このに、に、虹のプールだって、それを真似て作られてるんだよ」

「うん」

「おじいの村の近くには、それがあってなあ、あって、なあ。おじいはよく

それを見に行っていたんだ、いたんだ、んだ。おじいは、それが本物の、かみさ、ま、かみ様、おんなのかみ様、だと思っていたんだ、いたんだ、んだ、だ……で、でもももも……」

 おじいさんの声は遠く消えていくみたいになった。話しながら、唇のあたりが、ゆっくりと溶けて、口のなかに落ちていく。おじいはそれでも話そうとする。

「かいがんけいびのやつが、に、にい。兄さんをや、や、やっちま、う、渦潮が兄さんを飲んだ、飲んで、飲んで、魚を捕まえるやつ、食べるやつ、野蛮、けしからんやつ、そいつらが、海に入らないように、入らないように、撃ったんだ、んだ、だ。撃たれ、れ、たんだ…… 自由に海でおよ、泳いで、て、で、てえええ……」

 おじいさんの声がだんだん苦しそうになってきて、ぼくは看護師のお姉さんを呼んだ。お姉さんは、大きな黒い目でぼくをじとっ、と見て。でも、それは一瞬で、すぐに「あ、やば」と小さく言って駆けつけた。「すぐ済むからね」と言って、お姉さんはバケツになみなみになったどろどろを、おじいさんの口に流し込んでいく。「あ、ああー」とおじいさんの干からびた声がして、また、止んで。しばらくして、お姉さんが、「もう終わったよ」と言う。おじいさんの輪郭が少し薄くなっている。

「生きていたもの、ものを、食べることを、を、禁止する法案を通したのが、この私であります」

 とおじいさんが言った。なんのことやら。もう他の人が混ざり始めているのかもしれない。ぼくはおじいさんを休ませたほうがいいのだと思って、帰ることにした。ぼくは、線香を焚いて、おじいさんの消えかけた鼻の穴に一本ずつ刺した。枯れた木みたいな匂いがして、おじいさんがいた頃は、うちはこんな匂いでいっぱいだったな。「あ、ありがとう」と消え入るような声でおじいさんが言う。ぼくは線香を焚くのがうまい。おばあさんの仏壇の前で、おじいさんが教えてくれたからだ。これはみんなには秘密の特技だ。

「おじいさん、また来るね」

というと、おじいさんは

「なんだ、か、か、カケル、もう帰っちゃうのか」

と返してきた。もちろん、ぼくはイザナだ。ムッとしながら

「イザナだよ、おじいさん」

と返すと、おじいさんは

「ああ、そうだった、ご、ご、ごめんごめん」

と言う。それから小さく、うずしお、あおいうず、と呟いて、最後に、

「また、いらっしゃって、くださいね」

 と変に高い声で言った。

 外に出ると、桜が満開だった。ふわあ、と思って見上げながら、みんなもこんな綺麗な桜を見たらやっぱり感動するのかな、と思った。そうだ、おじいさんが言っていた。昔は桜以外にもたくさんの木があったんだって。政府がそれを全部桜にしたんだって。日本人だから、やっぱり、桜なんだよ、そう先生が言っていたのを思い出した。


 一週間してから、また、おじいさんに会いに来た。

「よおおく、来たなあ」

 と言いながら、おじいさんは渦の真ん中から出てきた。前よりも体が虹色がかって、手と足はもうわからなかった。胴体だけが、ぷかぷかと、笑いながらこっちに漂ってきた。ぼくは、何の話をしたらいいのかわからなくて、クラブ活動の卓球で優勝した話と、テストで満点だった話をした。おじいさんはそれを聞いて

「お前は将来首相になるのだから、そのくらいできてもらわねば困る」と言った。そんな話は初めてだったから僕は驚いたし、それは大変そうだと思った。

「銃の撃ち方は知っているか?」

 おじいさんは険しい声で聞く。

「ううん、知らないよ」

「そうなのよお、あそこのお家の奥さん、とっても感じがいいんだけど、やっぱりちょっと完璧すぎる、というかねえ」

「銃の撃ち方知ってるの?」

 と聞き返すと、こっちを見つめて

「ばあ」

 と言って満面の笑みを浮かべた。

 おじいさんのなかのおじいさんは、どれだけ小さくなってしまったのだろう。そんなことを思う。結局、青い渦ってなんだったのだろう。なんでそんなものを神様だと思っていたのだろう? わからなかったから、ぼくは、帰ろうとした。線香を鼻の穴に挿して、枯れた匂いを吸い込んで、もうおじいさんには会わないのかもしれない、と思う。そしたら、ぼくもみんなと同じバカになるしかないのかな。線香は、柔らかくなったおじいさんのなかに、「シュッ」と音を立てて沈んでしまった。おじいさんが、ぼくの脳に「あついっ」と語りかけた。

 施設を出ようとすると、看護師のお姉さんが駆け寄ってきて、

「イザナくん、大丈夫?」

 と聞いた。

「大丈夫です。いつもありがとうございます」

 そう言って、帰ろうとする。お姉さんがぼくの腕を掴んで、それから、ぎゅっと抱きしめる。柔らかい。「イザナくん、いつも怪我してるけど、学校で何かあるの? それとも、お家が大変なの?」ぼくは答えない。ぼくは頭がいいからだ。お姉さんもきっとバカなんだ。おじいさんもよく言ってた、他の人たちに本当のことを言っちゃだめだって。ぼくはけれど、胸に顔を押し付ける。柔らかくて、なぜか涙が出てくるような気がする。お母さんはどこにいったのだろう? そんなことを気まぐれに思って。「大丈夫よ、大丈夫、お姉さんは味方だからね」と言っている。花の匂いみたいなものがしてる。なぜかおしっこが出そうなきがしてくる。体が緊張する。でも、ぼくは大丈夫。大丈夫だ、涙はけっきょく出ないけど、泣いたほうが、いいのかな。そんなことを思ってると、お姉さんのほうが泣き出してしまう。よくわからないまま、ぼくはぼくを押し付けている。恥ずかしい。このまま溶け出しちゃいたい。

 あおいうず、うず、なるとのうず、そういう声がどこかから聞こえた気がした。ぼくは顔を上げる。

「ねえ、聞こえた?」

 そう言っても、お姉さんはぽかんとしている。もういちど、あおいうず、うずしお、かみさま、と言っているのが聞こえる。そうだ、おじいさんだ。最後に残ったおじいさんが、ぼくに話してくれているんだ。ぼくに教えてくれてるんだ。


 それでぼくは、やることにしたのだった。

 お姉さんが扉を開けてくれて、夜の施設に忍び入る。なんでそんなに優しくしてくれるのか、わからないけれど。プールにいくと、いつも通り、おじいさんがこちらに漂ってくる。

「そしたらなあああ、ガイジンのやつがなああああ、こんな声を出してだなあああ」

 と唸るように呼びかけてくる。やっぱり、これは本当のおじいさんじゃないんだ、と思いながら、ぼくはハサミを取り出す。おじいさんの、あるのかないのか、はっきりしなくなった輪郭を、なぞるようにして、切っていく。ぽきり、ぽきり、ぽきり、と小枝を折るみたいな音が鳴る。

「このハサミで、ぼくの髪切ってくれてたの、覚えてる?」

 そう聞くと、おじいさんは、口をパクパクさせる。いいんだよ。ぼくはハサミで切っていく。だいたい人の形に切り抜けたかな、と思って、どろどろのなかに手を入れる。何かの体がある。思ったより軽いそれを、引っ張り上げる。セミの抜け殻みたいな半透明の、人だ。口をパクパクしている。

「にいいいいぽおおんのおおおお」

 それを見てお姉さんが、「この人、国会議員だった人だ」と言う。ぼくは、もう一度渦に向かう。どんどん人を切り出していく。けれど、なかなか本当のおじいさんは出てこない。「これは確か大学教授の奥さんだったかな」「これは、八百屋さんね」「あ、懐かしい、昔一緒に働いてた人だ」「この赤ちゃんは、未熟児で生まれてきたのよ」「海岸警備の人だ」「昨日入棺したばっかりのわんちゃん」……


 数十人を切り出して、嵩が少なくなった虹色のどろどろのなかに、おじいさんはいた。おじいさんは、親指ほどの大きさになって、ヒレを使って、ゆっくりと泳いでいた。虹色の肌が、ぬらぬら光を返していた。おじいさんが昔見せてくれた、魚の絵にそっくりだった。

「おじいさん、まだいてくれて、よかった」

 そう言って、両手ですくい上げる。あおい、うず、うず、めがみ、さま、とおじいさんが言おうとしているのがわかる。

「うん、あと少しだからね」

 ぼくはそう言って、おじいさんを水でいっぱいになったバケツのなかに入れた。


 壁を越えたあたりで、お姉さんに「もう来ないでいいよ、ありがとう」と言った。うなずきながら、お姉さんはなぜかうるうるしている。ちょっと怖いなと思う。

「私も行く」

 そう言ってうるうるする。なんでそこまでしてくれるのかわからない。もしかしたら、ぼくを違う人と思っているのかもしれないし、それとも、ぼくをどうにか騙そうとしているのかもしれない。それでもいいや、と思う。

「ぼくとおじいさんしか行けないんだよ、お姉さんには、残って、見届けてほしいんだ」

「うん、うん、頑張る」

「お姉さんのおかげで、助かったよ」

 ぼくはそう言って、海に向かって走っていく。初めて見る海は、思ったよりずっと黒い。夜の空がそのまま、水になって広がっているみたいだ。遠くに、お姉さんが言っていた、目印が見える。緑色の大きな橋だ。走っていく。肌が夜に擦れる。おじいさんが、バケツの揺れる水のなかから、「う、う、あ」と言っている。もう少しだよ、とつぶやいて、走っていく。少しずつ夜が明けていく。遠くで、海が、少しずつ、青に変わっていく。他の色が全部、なくなってしまいそうな青だ。 

 橋にたどり着いたときには、もうすっかり朝になっていた。緑だと思っていたのは、ぜんぶ苔とか蔦とかで、本体の橋はもう何十年も前から使っていないらしくて、赤く、錆びきっていた。こんな大きな橋を作って、昔の人たちは、ほかの土地と行き来していたんだ。おじいさんが昔言っていたことを思い出す。ぼくは橋の欄干に身を寄せて真下を覗き込む。青い渦が見える。できたばかりの渦は、周りの水を飲み込んで、少しずつ大きくなっていく。周りの水が弾けながら白く引き裂かれて、渦のなかに入っていく。

 これがおじいさんには神様だったのか。そう思うと少し不思議な気がした。だけど、もう、ぼくはおじいさんを信じることにしたんだ。そう自分に言い聞かせる。早くしないと、海岸の警備に見つかってしまう。そういう焦りもあった。ぼくはおじいさんを信じる。きっとあの渦のなかが生きられるところなんだ。おじいさんをバケツから出して、胸に抱きしめて、一緒に渦のなかに飛び込んだ。


 水をたくさん飲み込んで、いつのまにか、おじいさんはいなくなってしまった。女神様なんて。なんて。ぐるぐるに回って。ぼくは、たった一人で、おじいさんがせめて、ありがとう、って言ってくれればよかったのに。お母さんはいない、おばあさんもいない。ここにくればいると思ったのに。でも、それでも、青くなっていく。うちがわに染み入ってくる。苦しくて、気持ちよくて、気持ちよくて。お姉さんが抱いてくれる。ぼくの、うちがわから、光る液が弾けだして、でていって、渦のなかに注いでいく。注いでいく。ぼくもいない。たったひとりで、いない。いない。気持ちいい。渦の底から、何かが生まれてくる。 

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虹のうず、青のうず 張文經 @yumikei

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