例えば一人で踊るためのロンドー

宮口うろの

例えば一人で踊るためのロンドー




ガラスの中の植物は、いつでも美しかった。


初めてウォードの箱を作ったのは小学生の時で、入れ物はカブトムシを入れるようなケースだった。御独(みと)の住んでいるあたりは仙台の街中だったから虫を取れる場所なんてなくて、どうしてそんなものを持っていたのかの理由は御独も覚えていない。多分知り合いにもらったか、当時定期購読していた教材としてついてきたか、そんなところだろう。

ビルの森と家屋の木立には飼育に足る虫などいやしない。なので御独はそこに、駅前のプランターから失敬したリュウノヒゲを入れた。

透明なプラスチックごしに見る植物は、なんだか不思議と美しかった。外界から隔てられているから何か特別なものなのだという気がして、御独はリュウノヒゲをことさら丁寧に世話した。マンション住まいだったから、晴れている日にはベランダにカゴを出して陽の光をたっぷり浴びせてやった。

それを壊したのは姉の共栄(ともえ)だった。

姉妹仲は悪い方ではなかったと思う。御独も共栄も頭の回転は悪くなく、年齢以上に落ち着いていたから喧嘩もしなかった。落ち着いて本を読むのが好きな御独と、活発で音楽に親しむ共栄ではなにかと嗜好がばらけることが多く、お互いの領分がバラバラだったのもそれに一役買っていた。

だから御独が学校から帰ってベランダでひっくり返ったリュウノヒゲを見た時、最初は姉の仕業であるなんて疑っていなかった。共栄はプラスチックケースを愛でる妹にとんと興味がなさそうだったからわざわざそんなことをするなんてどんな理由も思いつかない。ケースを見れば蓋を開けられ、中身は全てぶちまけられ、リュウノヒゲは土と混ぜっ返されて見るも無残なことになっていた。少なくとも、ちょっと足を引っ掛けてしまったとか、鳥がいたずらしたとか、そういうレベルの荒れ方ではない。

残念ながら、御独は頭がよかった。

心苦しいほど、頭脳を持て余していた。

自然と、御独は犯人を探し始めた。幼いながらに、そこには恨みがあった。御独は泣かなかったけれど、理性がそれを押しとどめていただけで本当は悔しくて悲しくてやるせなくて、その感情の向き先を求めていた。

だから、御独が人生で初めて誰かの謎を暴いたのは、私怨だった。

いろんな人に話を聞いて、状況証拠を集めてしまえば、真実はすぐに明らかになった。

姉がやったことだった。御独が図書当番で遅くなる火曜日に、わざわざ自分のピアノ教室に遅刻してまで一度帰宅してからベランダに御独のウォードの箱をぶちまけた。ピアノ教室の先生には口止めしていたが、そのお隣さんにまでは気が回らなかったのだろう、「その日、その時間はピアノの音が聞こえ始めるのが遅かった」という裏付けはすぐに取れた。

御独にはわからなかった。

共栄はピアノの時間を何よりも大事にしていた。御独にはわからなかったけれど、共栄にはおそらく才能というものがあるのだろう、コンクールがあるたびに何かしら賞をもらって帰ってきたし、鍵盤に触れる姉はちょっと見惚れるくらいに楽しそうだった。そのピアノの時間を削ってまで、わざわざ御独の箱を荒らした理由がわからなかった。

理由を聞こうかと悩んで、やめた。

もし自分が嫌いだから、なんて言われたら、これから先姉にどんな顔をしていいかわからなくなってしまう。


それからだ。御独が姉に甘えるようになったのは。

それまでは一歳年上の姉のことは、どちらかといえば友達に近い感覚だった。なまじ頭が良かったせいで、一年という子供の中では絶対的な時間の差を、御独は物ともせずに乗り越えてしまったからだ。ともちゃん、みとちゃん、そう呼び合っていたのも一つの原因だったかもしれない。

お姉ちゃん、と呼ぶようになり、何かにつけてあれができない、これができない、たすけて、わたしにはお姉ちゃんがいないとだめなのだと、御独は繰り返した。甘え方なんて今更わからなくて、ほとんど迷惑をかけているだけのような有様だったが、責任感の強い姉共栄にはてきめんだった。姉はだめな妹を可愛がるものだと、御独はここにきて初めて知った。

そして理解した。

これまでだって仲は良かったけれど、それは姉妹としては不健全だったのだ。姉は頼られ、妹は頼らなくてはならない。そうでなければ関係は歪んで濁ってしまう。

姉に頬を寄せるとき、ぐちゃぐちゃになったリュウノヒゲが、いつでも脳裏のどこかにあった。

そんなことをした理由を推し量ろうとは思わなかった。単純に考えれば、共栄が御独に対してやりきれない感情があって本人にぶつける代わりに大事にしているものを壊すことで発散させたのだろうという結論が導き出されるが、そう考えてしまうこと自体が共栄への侮辱になるから御独は絶対に理由を求めなかった。ミステリーにホワイダニットはつきものだが、過ちに何故と問うことの残酷さに御独は敏感だった。

御独は共栄に二度と同じ過ちをさせたくなかった。



それから月日は流れて、御独は高校を卒業した。

共栄は音大に進んで一年前に実家を出て東京で暮らすようになっていた。最初のころは一週間に一度は電話をしていたけれど、それはだんだんと間隔が開くようになっていた。

高校の担任には大学に進めと言われたけれど、御独は地元で就職した。周囲からは驚かれたが、モラトリアムを引き延ばすことに理由が見出せなかった。それに一人暮らしも嫌だった。長年姉に頼ってきたせいで、本当に自分一人では何もできなくなってしまっていた。

その性質のせいか、御独の周りではよく人が壊れた。メンヘラメーカーめ、と悪友に言われた。御独はそんなつもりはないのだが、御独に頼られることに逆に依存する人たちというのが現れては、自滅して消えていった。なるほど、姉と同じ距離感だと、家族でもない人間には近すぎるのかと学んでからはマシになったが、悪癖は易々と治らない。

結果として、御独は職場を追われることになった。

人間関係クラッシャーか、とくだんの悪友に笑われたけれど、よく分からなかった。御独はただ、頼りにしただけだ。人は自分が優れているのだと思いたい、特別であると信じたい、誰かができないことを自分ができてしまうという優越感に浸りたい、賞賛の言葉を浴びたい。それに漬け込んで、御独は相手に負担にならない程度を見極めて、これができないから教えてくれ、あれがわからないから手伝ってくれと、姉にしたのと同じように阿っただけだ。先輩も、年上のきょうだいも、理屈は同じだろうと思っていた。

可愛がられた、可愛がられすぎた。そしてそれをよく思わない人もいた。御独は仕事をサボっていると悪し様に罵られるようになり、手玉にとって悪女ぶっているのだと揶揄られるようになった。実際、御独のことを後輩や部下以上に思っている者も出てきていた。

辞めたのに直接的なきっかけはない。すべてが面倒くさくなったのだ。結局は。


仕事を辞めて真っ先に向かったのは姉の家だった。

「きちゃった」

夜、アポイントも取らずに玄関先に立っている妹に、共栄はびっくりして目を見開いてから、「まったく、ちゃんと父さんと母さんに言った?」とちょっと怒って見せて、それから中に入れてくれた。もうすぐ四月だというのにコートの上から染み込む寒さで骨まで凍っていた御独を風呂に放り込んで、暖かいスープをこしらえ、濡れた髪を優しくブローしてくれた。

それは実家にいたころであれば至極当たり前のことだったのだけれど、今の御独にとっては気がひけてしょうがなかった。単純に時間が空いてしまって以前どうしていたのか、どういう風に振る舞うのかが自然なのかがわからなくなっていたのもあるし、自分が他人に頼っていたせいで多くの人に迷惑をかけたばかりだったからだ。御独は別に、特別心が強いわけではない。自分の周りがメンヘラになっていくのも、人間関係が次々壊れていくのも、顔には出さないだけで十分に堪えていた。

共栄は、どうして押しかけてきたか尋ねなかった。ちょっと迷惑そうにして、それから頼むより先に御独の世話を焼いただけだ。弱っていることに気がついていたのかどうかさえ、御独にはわからなかった。

いざ就寝となって、ベッドを譲った妹が床に直に引いた布団に潜り込んできたときも、共栄は「エアコンつける?」と眠そうに尋ねただけだった。

「エアコンはいいの」

「そう……」

「ねえ、お姉ちゃん」

「なあに?」

姉の声は睡魔にとろけていた。

ふと、今なら、リュウノヒゲをあんなことにした理由を聞けるんじゃないかと思った。ほとんど眠っている今なら、ぽろりと本音をこぼすんじゃないか……。けれど御独は口を噤んだ。今それを聞くことは、まるで今の自分のどうしようもない問題の責任を、姉に押し付けることのような気がしたからだ。いつか聞くにしても、今ではない。

「わたしって、ずるいかしら?」

「……どうして?」

「仕事で……たくさん言われたの、わたしはずるいんですって。お姉ちゃんも、そう思う?」

「ずるい、ねえ」

仰向けで寝ていた姉が、のっそりした動きで御独のほうに寝がえりを打った。

「たしかに、みとちゃんはずるいかもね」

「ええ?」

常夜灯のうすいあかりの中で、共栄がどんな表情をしているのかは見えなかったが、声はなめした皮のように柔らかかった。

「みとちゃんは、助けてっていうのがうますぎるから。ふつうの人は、それがなかなか言えなくて、だからみとちゃんを妬んじゃうんじゃない」

「助けてが言えないの……」

「言えない。くだらない見栄とかでね。それで抱え込んで、本当に立ちいかなくなったとき……」

「とき?」

「もう簡単には助からないくらい、追い詰められてる」

「……」

「そこでやっと助けて、っていっても、誰も助けてあげられない」

買いかぶりすぎだよ、と御独は言おうかと思った。けれどこれは、御独だけの話じゃないとも同時に感じていた。

「お姉ちゃんは、ちゃんと助けてって言える?」

「どうかな。少なくとも、みとちゃんには言えない」

「どうして?わたし、なんでもするわ」

吐息だけで、ふっと笑った気配がした。

「ありがとう」

「ねえ……」

「ほら、もう寝て……あたし明日も早いの……」

いうなり、共栄は御独に背を向けてしまった。眠気に抗えなかったのか、ややもしないうちに規則正しい寝息が聞こえてきた。

ひとりになってしまった、と思った。この瞬間、自分が世界で一番ひとりぼっちなのだと脳髄から染み渡るような孤独が湧き上がってきて、無性に泣きたくなってしまった。この世で一番近い遺伝子が、肌が重なるほど近くにいるのに、内臓全部が氷にすり替わったように寒くてみじめで仕方なかった。これだったら地下1千メートルのシェルターに一人で取り残されたほうが、よっぽど孤独じゃないような気がした。

御独は溺れそうな寂しさの中ではくはくと喘ぎながら、リュウノヒゲのことを思い出した。

土も根も葉もいっしょくたになって、朝までプラスチックケースの中で元気に葉を茂らせていたのが嘘みたいにくったりとして惨めで無残な姿。共栄がどうしてそんなことをしたのか、聞かなくてはわからない。もしかしたらもう遠い昔のことすぎて、聞いてもわからないかもしれない。

もしあれが、声にできない救難信号だったとしたら。切羽詰まって身動きのできなくなったこどもが、丁寧に世話された箱の中の植物をめちゃくちゃにすることでしか自分を癒せなかったのだとしたら。

けれど結局それは推測で、意地汚くていやらしいホワイダニットにすぎない。御独は頭をふって考えを追い出した。




そのまま東京に居ついて探偵の真似事を始めたのは、運がそういう風に転がったから、以外に形容することができない。

上京していた友達の家をかたっぱしから訪ねてまわり、ふらふらしていたところ財布をなくして困っていたおばあさんを助けたら、そのおばあさんが探偵事務所が入っているビルのオーナーとかで、そこの事務所にアルバイトとして雇われることになった。父親と同じ年くらいの所長と二人だけの職場はひどく居心地がよかった。なにせ探偵のことを全く知らない御独が所長を頼るのは当たり前だったし、どれだけ頼ってもそれを見咎める人はいない。所長も落ち着いた人物で、信頼に応えるように御独を娘のように扱った。

御独がウォードの箱を再び作り始めたのは、雑貨店の店先に並んでいた綺麗なガラスの箱を見つけたからだった。本来であれば女性らしいアクセサリーや小物を飾るような、全面ガラス張りで各辺が金縁になっている両手のひらに乗るくらいのその入れ物を見た時に、ここに緑をいれたらどんなに美しいだろうと発作的に思ってしまった。不思議なことに、そのときはリュウノヒゲがどうなったかなんて全く考えなかった。六角柱の、少しだけ寸足らずな容器をレジに持っていてから哀れなリュウノヒゲのことを思い出した。けれど今は姉はいないし、ましてや所長が小学校低学年女児と同じような過ちをするわけがない。帰り際に花屋でネフロビデス・ツデーという観葉植物を買った。シダ科で柔らかな緑をした葉はこどもの指先のようでかわいかった。

事務所に戻って、御独はさっそくネフロビデスの鉢をガラスの箱に入れた。ぱたん、と蓋を閉めて窓際にかざると、ほうっとため息が出そうなくらい美しかった。かつてみた、ポリプロピレンの入れ物より、ガラスでできた入れ物のほうがずっとずっと中の植物も輝いているようで、御独は時間を忘れて眺め入った。

「戻ったぞ」

「あ、所長。おかえりなさい」

「何してんだ」

所長は手にしていた書類をぱさっと自分のデスクに投げ捨てると、御独のいる掃き出し窓を覗き込んだ。

「へえ、ウォードの箱か。しゃれてんな」

「ウォードの箱?」

「違うのか。あー、テラリウムとかいうんだっけか?」

「こういうの、名前があるんですか」

「知らないでやってたのか」

「きれいでしょう。それで、ウォードの箱ってなんですか?」

所長は探偵なんかをやっているだけあって博識だった。あるいは、博識ゆえに探偵なんかをしなくてはならなかったのか、よく言うだろう、博愛主義者は伴侶を持てないと、それと同じで、一つの知識を極められなかったが故にどの職にも能わず、巡り巡って探偵などをやっている人だった。頭の回転だけでいうなら、御独のほうがずっとよかった。

「大公開時代だったか、イギリスの医者が考えた植物を保管するための箱だよ。木枠ガラス張りのいれもんに入れることで、外気から守って植物を健康なまま輸送できたんだ」

海の上は潮風だからな、塩は大抵の植物にとって毒なんだ。塩を含んだ土には向こう百年ぺんぺん草も生えない、塩害っていうんだ、塩を巻くっていうのは除霊というよりは……と芋づる式に引き出される所長のうんちくを、御独は半分だけ聞いていた。

ウォードの箱に入れられた植物たちは、外のあらゆるものから守られて、日差しだけを享受しながら、どこまでも遠くへ行くことのできる。

「所長は探偵ですよね」

「ん、ああ。そうだ」

「ホワイダニットには……もっというなら、動機の追及に意味があると思いますか」

「どういう意味だ?」

「よくありますよね、探偵もののドラマなんかで。動機があるのはこの人しかいない、というような犯人の追い詰め方が。けど、わたし、納得がいかないんです。もう起こってしまった事件の理由を問うことに、どれだけの意味があるのか」

「被害者の気持ちが慰められるかもしれないだろう」

「この人にはかわいそうな理由があったから、殺しても仕方がなかったんです、っていうのは、誰も殺したことがない人たちへの侮辱ですよ」

「情状酌量の余地は誰にでもあり得る」

「罪は加害者のもので、それを被害者に、遺族に教えることは、ただ加害者が許されるためだけのパフォーマンスに過ぎないんじゃないですか」

所長が口を噤んでしまったので、御独は恥ずかしくなった。自分の中の子供が急に癇癪を起こしたみたいに色々と喋ってしまったが、実際に振り返ってみてその言葉は嘘偽りのない御独の本心だった。

「犯罪を抑止するためにはな、罪を許すことが必要なんだ」

「……?」

「もし罪を犯した者が贖罪できず、ただ裁かれるだけの国があったとしよう。罪は軽くなることは絶対にない。一度でも罪を犯したものは、その後の一生を犯罪者だと札を下げて生きるんだ。そんな国の治安がどうなるかわかるか」

「よくなるん、じゃないんでしょうね」

「ああ。むしろ、悪化するだろうな。犯罪をする人間の率は下がるかも分からん。だが、たった一度、軽い罪を犯せばその後の一生犯罪者だとすれば、その一線を超えたものは箍が外れたように何でもするようになる。だってもう踏み越えちまったからな。犯罪は狭く、深くなっていく」

御独は黙って所長の話しを聞いていた。昼下がりのうららかな陽気に晒されたネフロビデスは機嫌がよさそうにその葉を広げていて場違いなくらいだった。

「どうせもう自分は許されないのだから、とことんやってやろう、ってな。罪が許されない社会は、一度罪を犯してしまった者を弾き出してしまう。埒外の連中はそうやってどんどん増えて行くんだ。そこらで万引きしているガキが、一度捕まって次の月にはそこらのマル暴の鉄砲玉になっててもおかしくねえんだよ」

「……なるほど」

「だから罪は許されなきゃなんねえ。人間は過つ。間違うようにできてんだ。間違うからこそ、正しい道を進んだやつには価値がある。そして、そっちの道に引き返せたやつもな」

強い光は、それだけ濃い影を地面に落とす。それと同じことで、犯罪者に厳しすぎる社会はより深い社会の闇を要請する。

「ですが、本人が十分罪を後悔してるとしたらどうなんでしょう」

「ほう?」

「衝動的に罪を犯してしまった、本人は良心も道徳も十分で、その罪を悔いていて、一生同じような過ちはしないと誓っている。だとしたら、その罪を暴くことにどんな意味があるんですか」

「そいつを救うためだろう」

所長の返事には一切のためらいはなかった。

「良心の呵責というやつはな、時に他人の弾劾よりも痛烈だ。それを契機にして人間は死んじまえるんだ。そういうやつに贖罪の機会を与えてやることは、十分そいつの命と心を助けることになる」

御独はとっさに言い返しそうになった。咎人に救いを与えるなんて、と口にしかけて、それが先ほどの自分の言葉と矛盾することに気がついたから声に出すことはしなかった。けれど所長は目ざとくそれを見咎めたらしかった。

「許す必要はないんだ。ただ、被害者も加害者も、その事件から前に進めないままっつうのはな。どうにもやりきれんだろう。全員を立ち止まらせないために、俺たちは罪を謎のままにしちゃいけないんだ」

謎のままにするということは、空想の余地を残すということだ。その空想の中で、事件はあらゆるイフを語られ続ける。

共栄がリュウノヒゲをぐちゃぐちゃにしたのは、ウォードの箱の完全性に嫉妬したからだ。出来のいい妹への当てつけだ。課題曲がうまく弾けないことの八つ当たりだ。もしも、もしも、もしも……。

御独の中で、幼いころのあの事件はまだ終わっていないのだと、謎が明らかにされていないが故に御独はそこから進めていないのだと。所長の言葉を流用するなら、そういうことらしかった。御独はそれを素直に受け入れられるほど純真ではなかったが、恩師にあたる男の言葉を無視できるほどすれてもいなかった。

「いつだっていい。前に進みたいと思ったら、その謎に挑むんでいいさ」

さあて、仕事だ、と所長はおどけたように口にしながら自分のデスクについた。ガラスの中のネフロビデスは白々しいほどに美しかった。




共栄が死んだのは、それからおおよそ三年が経ち、御独が探偵として独り立ちしてすぐのころだった。

交通事故という話だったが、不審な点は多かった。普段の共栄なら出かけないような真夜中、住まいとも職場である小学校とも離れた土地で、見晴らしのいい交差点だった。犯人は夜が明けるより先に自首していた。

あまりにも遺体の損壊がひどかったから、霊安室では御独も含め家族ですら共栄の姿を見ることはできなかった。

通夜のとき、どうしてもその桐の箱の中に姉がいることが信じられずに、どんなにショックを受けてもいいから顔が見たい、と言った御独に対して、葬儀場の人は困ったように笑いながら、少しだけ窓を開けて見せてくれた。頭のところには白い布が被せられていて姉かどうかは分からなかったけれど、確かに人が入っていた。死臭ともまた違う、死んだ人間から発せられる特有の冷気のようなものが強く感ぜられた。御独は白い布を剥ごうとして、係の人に止められた。

御独はぐちゃぐちゃになったリュウノヒゲのことを思い出していた。

きっとこの白い覆いを外さなければ、姉の存在そのものが謎になるのだと、リュウノヒゲと同じものになってしまうのだとう予感があった。

見たいんです、見させてください。

喉元まで出かかった言葉を、御独は飲み込んだ。ぐう、と変な音が出た。

すみません。

代わりに、物分かりの悪い小学生のような声が出た。拗ねた子供のようだった。係りの人は安心したように胸をなでおろし、そっと蓋を閉めてしまった。

これで姉は、未完の謎になってしまった。

永遠に終わらない物語になってしまった。

そのことが、めまいがするほど悲しいのに、頭痛がするほどうれしかった。

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