最終話 メドゥサは薄荷の香り

 翌日、私は日帰り出張で直帰が許されていた。

 ばたばたと案件を片付けて、いつもよりずいぶん早く帰りの電車に乗る。

 相変わらず車内は混んでいる。

 会社員の帰宅ラッシュに巻き込まれないよう、早めに家路を辿る子ども連れやお年寄り、学生の群れ。

 乗っている人が違えば、車内に漂う匂いも違うものだな、と思う。

 冬の駆け足な夕陽の中、窓の景色が、商業ビルの群れからごちゃごちゃした古い住宅街へ移り変わっていく。

 烏雀間駅で私は降りた。プラットホームで、大きく真っ白なため息をついた。


 糸井氏の仕事場には灯が点いている。今日も部屋にはいるらしい。

 最近、一緒に住んでいるお祖母さんの家に、叔母さんが思春期の子供をぞろぞろ連れて戻ってきて、同居を始めたそうだ。それで居づらくなって、仕事場の滞在時間が長くなったと彼はぼやいていた。

 フリーランスだと高額な仕立ての注文が相次ぐことなどめったになく、収入が上向くのはなかなか厳しい。オーダーが入っていないときは、彼は仕事場で適当な反物や服地を小紋や街着、帯や和装小物に仕立てている。そうやって作り溜めた一点物を、自分のサイトと某有名手芸作品販売サイトで掛け持ち出品し、収入の足しにしている。有名販売サイトから自分のショップサイトへ誘導して、いい集客にもなるので一石二鳥だ。糸井氏はミニマルに生きることを望みつつ、それなりに頑張っていた。


 安普請のぺらぺらなドアの向こうで、しゅんしゅんと足踏みミシンの音がする。

 お手頃価格のものを縫っているのだろう。

 古いチャイムを鳴らす。

 ミシンの音がやみ、おもむろに歩いてくる足音がする。

 ドアスコープの奥が暗くなり、チェーンを外す音がした。

 それから、防犯的にとてもお粗末なノブが立てる開錠の音。

 その間、私は何を言うべきか、少し考えている。

 彼がドアを開けた。ドアの隙間から差し込んだ夕陽が、帯のように彼の顔半分を照らして、虹彩が明るく見えた。

 いつでも来ていいとは言われていたが、本当にアポイントメントなしで来たのは初めてだ。糸井氏は驚いた様子で、しかしにこやかに私を招き入れた。


「こんにちは」 


「あ、こんば……こんにちは」


 挨拶がぶつかる。

 仕事帰りにここへ寄るときはいつも夜だから、ドアを開ける彼の顔を見るなり、まだ早いというのについこんばんはと言いそうになった。

 しょぱなからもたついている。


「お仕事中お邪魔してすみません」


「いえ、一段落したところです」


 今日の糸井氏は市販廉価品の作務衣を着ている。デニムにフリースの裏がついていて暖かく、仕事場で着けているのをよく見かける。

 作業台脇の足踏みミシンの台に、バーズアイのツイードがのっている。訊くより早く、彼はウォッシャブルツイードでメンズの単衣を縫っていたところだと説明した。


「女ものは作らないんですか」


「女性のは、もう少し薄手のツイードがいいと思います。おはしょりが浮いてしまいますから」


 ミシンにセットされている厚物用の針の太さを眺めながら、たしかに、と納得する。

 私の後ろへ糸井氏が回った。軽く肩に手をかけ、私のコートの生地を少し持ち上げる。


「葉子さん、コート掛けときましょうか」


「いえ、すぐ帰るので、脱がなくても大丈夫です」


 私は一歩前に出て、彼の手から抜け出た。

 そして、ぐるっと振り返って、すげない台詞に面食らっている糸井氏をちょっと睨んだ。


「糸井さん、今日はお話があってきました」


「……何でしょう」


 彼は怒られることを覚悟している犬のような表情をじんわりと浮かべた。こうして見ると、きれいな顔に小学生のころの面影が出てくる。

 もう少し柔らかい口調にしてあげてもよかったな、と思った。


「妹に会いましたね。実花に聞きました」


 一瞬、彼の目が泳いだ。


「あ……はい」


「どうして黙ってたんですか」


「ご家族であっても、お客様のご依頼について話すわけにはいかないので……」


「いつもなら、お祖母様経由とか、ネットのやり取りとかでオーダーを請けるんでしょう? なんで私に黙って、妹と会ってるんですか」


「あの、それはやきもちというやつですか」


「……」


「それだったら大丈夫です、僕は葉子さん一筋なので……」


 自分の顔が渋くなっていくのがわかる。

 かおるくんにも論点を外したのがわかったらしく、ちょっと声のトーンが落ちた。


「秘密にしてたわけじゃありません、ただ……」


「ただ?」


「葉子さんのこと、いろいろ聞きたかったので……自分の彼女について、もっと知りたいと思うのって普通じゃないですか」


 彼女、ねえ。

 少し胸が痛んだが、その程度の痛みを気にしていたら負けだ。


「だったら、妹に訊かないで、私に訊いてください」


 納得のいかなさそうな顔をうつむけて、糸井氏はごめんなさいと謝った。

 しかし、私の言いたいことは終わっていない。


「糸井さん、プロポーズしたとか結婚が前提のおつきあいとか、ありもしないことを妹に言ったでしょう? すごく迷惑なんですけど」


 すると、彼は顔を上げ、心外そうに反論を始めた。


「ありもしないことじゃないでしょう」


「私はプロポーズされた覚えはありませんけど」


「僕をもらってくれって言ったじゃありませんか。僕の手料理を褒めてくれたときに」


 ああ、やっぱりあれだ。あの時だ。指向性が違えば、こうも意味が変わってしまうのか。


「あれはどう考えてもプロポーズじゃないし、私は糸井さんをもらうなんてひとことも言ってません」


「またそんな屁理屈を」


 美化した思い出を燃料にフィーリングで突っ走って、キスすらしたこともない女と結婚するつもりになっている糸井氏に言われたくない。

 10人いたら10人とも、私の言うことをわかってくれるはずだ。たまにかおるくんのような個体がいるかもしれないので、9.8人くらいになるかもしれないが。


「私の何がわかってて、結婚がどうとかこうとか言うんですか。私が屁理屈女なら、あなたは思い込み激しすぎ男でしょ?」


 彼はしばらく黙って、また額に手を当てて何か考えていた。頭がいいのか悪いのか、よくわからない人だ。

 駅の方から電車の音が聞こえてくる。

 ちょっと頭を冷やしたのか、彼は私を真っ直ぐに見た。


「確かに、いきなり結婚を持ち出すのは、ちょっと順序がおかしかったかもしれません」


「ちょっとどころじゃありません」


「でも、葉子さんとのことを真剣に考えてるからこそ、いろいろ知りたくて妹さんに伺おうと思ったんです」


「だから私に訊いてくださいって」


「じゃあ訊きますが、そもそも、僕とのおつきあいって、葉子さんの中ではどういうことになってるんですか」


「どういうことって……」


「だって、順序を踏もうにも踏ませてくれないじゃないですか。僕たちつきあってるのに、いいトシして手を握るくらいしかさせてくれないってどうなんですか」


 目から視線を逸らさず、きりっと訊ねられる。

 ちょっと弱った。適当にごまかせなくなってしまう。

 

「僕のことを何だと思ってるんですか」


 これは、いつか言わなければと思っていたことを伝えるチャンスかもしれない。

 私は、この期に及んでもかおるくんを失いたくなかった。男女交際の相手ではなく友人として、だ。彼ほど私を理解しようとしてくれた人間は今までいなかったから。

 それはひどく身勝手なものだとわかっている。長引かせるのは残酷なことだとも思っている。

 だけどきっと、私ならうまく切り抜けられる。

 惚れたはれたの感情を抜いて、楽しくおしゃべりできる関係へ。

 そう変化させるチャンスを、私ならものにできる、たぶん。


「糸井さんは、大切なお友達、です」


「……お友達」


 彼がふっと能面のように感情を消した。温厚だった超弩級美形が、この近距離で表情を消すと少々怖い。

 以前もオトモダチ扱いして不機嫌にさせたことがあるので、ちょっとフォローを入れておくべきだ、と私は判断した。


「私の趣味とか、いろいろわかってくれたし、優しいし、大好きなんだけど、……男としては見られないっていうか……」


 歯切れの悪いその言葉を、彼は数秒反芻はんすうしているようだった。 

 反芻が終わって飲み込んだ彼の目は、奇妙に明るかった。


「今なんて言いました」


「男としては見られない?」


「その前です」


「趣味に理解があって、優しい?」


「そのすぐ後」


「大好き……って、言ったかな……」


 そういえば、私からそういうことを言ったことはなかったな、と思った途端、いきなり両肩を掴まれ、次の瞬間、壁みたいなものにぶつかった。

 デニムの作務衣に包まれた、温かく血の通う壁だった。

 視界がみんな、デニムのインディゴブルーに覆われた。


「その言葉が聞ければ、今は十分です」


 今まではおずおずとした軽いちょっかいだったのだが、こうも大胆になるとは。

 私に好きと言われることが、彼にとっては一つの扉の鍵になったのだろう。

 彼はきゅっと腕に力を籠めた。

 私は生まれて初めて、家族以外の人間に抱きしめられていた。

 驚きと、そこそこの恐怖と、経験したことのない電流のようなものが筋肉の電位をおかしくしたのか、動けない。


「僕を男だと思ってないなら、女とでも、それ以外とでも思っていていいですよ」


 非常に無理があることをおっしゃる。

 広い胸、しっかりした腕。

 呼吸の響き、心臓の音。

 生身の温かさと、腕に籠る穏やかな力。

 それから、薄荷の匂い。

 防虫剤だけじゃない。この人は、髪も体も、身を薫らせるものはすべて薄荷で揃えている。その中に混じる、ここまで近づかなければ気づかなかった肌の匂い。

 快かった。

 力が抜けそうだった。

 遠足で人知れずけがをして泣いていたあの時のかおるくんは、人の温かさに触れて、こういう気分だったのかもしれない。


「いえ、……糸井さんはちゃんと男の人ですよ」


 私の口が、訳の分からないことを言い出す。糸井氏は、静かに私の頭に頬ずりした。


「わかってるじゃないですか」


「いやそれは、生物学的にであって、私の主観的には……ひゃっ」


 頬ずりの重みが少しずつ降りてくる。

 着けているスヌードの隙間から、うなじに温かい息がかかり、開き加減の唇が触れた。

 思わず変な声が出て、その自分の声が私をパニックに陥れる。

 怖いような、甘ったるいような感覚に、ぞくっと鳥肌が立った。


「……あ、あの、そういうのは……よ、よ、よくないと思います」


「どうしてですか」


「だって、そ、そういうのは、い、いやらしいじゃないです、か……ね……?」


 変な風にどもってしまった。

 自分でも、変なこと言ってるな、と思う。私ったらどんな古い人間なんだろう。

 これまで糸井氏には、すれたことも世知辛いこともたくさん、本当にたくさん喋ってきた。

 恋愛とは遠ざかっているけれど、そこそこ酸いも甘いも噛み分けたはずだし、公私問わず人前に立つこともできるし、仕事においてはそれなりに信任も厚い。だから、かつてひねこびた泣き虫で、今も人と接するのが嫌で和裁士の道を選んだかおるくんをやっぱりどこかしら下に見て、私は海千山千うみせんやませんのおねえさんなんだぞ、と無意味に姉貴風あねきかぜを吹かしてきた。


 かおるくん第二形態は、これまでそんな虚勢をにこにこしながら聞いていた。

 自分のことを好きとも言わない、常に上から目線の屁理屈女の言うことを、大人しく聞いてくれた。

  

 なのに、なのに。

 全部、耳年増のたわごとだということがばれてしまったではないか。

 どうしてくれるんだ、私の立場はめちゃめちゃになってしまったではないか。 

 頭の中が稼働中の洗濯機のようになっている耳元で、彼が囁いた。

 

「いやらしいと思うからいやらしいんです。僕は自然なことだと思います」


 くすぐったさに思わず、首をすくめた。

 でも、笑うようなくすぐったさではない。

 子どものころは友達と囁き声でひそひそ話なんか普通にやっていた。

 なのに、これほどぞわぞわくるものだったなんて。

 今、私は多分めちゃめちゃな表情を浮かべているのに違いない。

 青ざめているのか真っ赤っかなのか、自分でも見当がつかない。

 ひとつ確実にわかることは、私の顔は相当に強張っている。表情を作る筋肉、特に鼻の両脇あたりが筋肉痛になりそうだ。

 だから顔を見られたくなくて、ぐっと彼の胸に顔を押し当てている。化粧が作務衣についてしまうのも構わずに。


「あの……葉子さん」


「……」


 ちょっと咳払いして、糸井氏が言った。


「泊って行ってもいいですよ」


 ここには布団が一組しかない。

 それはだめだ。やっぱり。

 私は顔を上げた。


「いや、それは……」


「冗談ですよ」


 時すでに遅し。

 顎ががっちり、一日に何時間も運針うんしんをこなす指に捕まっている。


「葉子さん、愛してます。一生大事にします」


「ちょっと……ちょっと待って……」


 声に力が入らない。もう目が合わせられない。


――ああ、もしかすると……


 私が彼を男として見ようとしなかったのは、もし好きになったら恥ずかしくて顔を合わせられないからなのかもしれない。これだけの美形といちゃこらする面映ゆさを思うと、胃に穴が開きそうなのだ。

 せっかくの国宝級美男子に目が向けられないとは、なんともったいないことか。 

 目があったら死ぬ。確実に死ぬ。まるでギリシャ神話のメドゥサだ。メドゥサも女神顔負けの美少女だったというから、あながち変なたとえとは言えないと思う。


 私はこの時間が終わったら、……彼の唇が私の唇に重なっているこの時間が終わったら、目を開けるのがこわい。

 もうどんな顔をしていればいいのかわからない。


 かおるくんは、いいトシをして目をぎゅっと閉じたまま固まっている私に何度もキスをした。

 そして、半泣きの私に、憎たらしいほどやさしく言った。


「いい温泉宿を知ってるんです。今度、一緒に行きましょう」


  <了>

 

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薄荷をめぐる思いの丈 江山菰 @ladyfrankincense

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