第七話 1科1属1種

 それからは、とりあえず他愛無たわいないメールのやりとりが始まった。

 やはり暇なのか、それとも手縫い作業の小休止か、彼はおはようだのおやすみだの、食べたもの縫ったものの写真だのをしげしげと送ってくる。私は筆まめなほうではないので、一日一回返事をするかしないかというところだ。ここで返事をしろとうるさければ、疎ましく思うものだが、彼は割り切っているらしく、時間があるときに返信をもらえば十分だと言っている。私もメルマガ程度の気持ちで読んでいる。

 どうも彼は、裁縫だけではなく料理の腕もいいようだ。品性卑しい私は彼が送ってきた手料理画像のシズル感に、お料理サイトの画像盗用かと疑ってしまった。それを冗談めかして言うと、次に会ったときかおるくんは、タンドリーチキン薄荷ソースのバゲットサンドを作ってきて私の度肝を抜いた。これにはシャッポを脱ぐしかない。いい主夫になれますね、と感嘆すると、


「年収120万の男をもらってくれる人っていますかね。扶養控除の範囲内ですし」


と言いながらきゅるんとした目つきをしてきた。誘い受けが鼻についたので


「かおるくんならもらってくれる人いるでしょ、その辺に」


と返すと、しばらく表情を硬くしていたが


「僕、頑張りますから……」


と、深刻そうに言い出した。一応つきあっているはずの私になぜ、その辺の貰い手探しを頑張ると大真面目に表明するのかよくわからなかったが、まあ頑張ってください、と返事してみた。

 すると、糸井氏はやにわに私の手を固く握ってきた。

 和裁士の指の力で握り込まれたらさすがに痛いので文句を言った。

 その時、私はいたって無頓着だったのだが、糸井氏は、私の言う「その辺」を「自分の身辺」と解釈し、私に誘い受けされたと判断したことがのちに判明した。

 文殊もんじゅの知恵は、二人でいても生まれないし、かえってはた迷惑な方角へ進んでいくこともある。


 糸井氏とお出かけをするときは、ほとんどきものを着て行った。

 公園を歩いたり、イベントの露店をうろうろしたり、生地屋さんめぐりをしたり、作務衣で里山ハイキングなどなど、とても清らかなものだ。映画を見るときはオンデマンドや有料動画配信サイトの旧作を、彼の仕事場のパソコンで見る。飲むときも缶のアルコール飲料を一本飲んで終わり。宅飲みならぬ、仕事場飲みだ。

 そういう一対一の清貧なおデートは、私の人生にはないものだったので、楽しくてこそばゆい。それに、ただでさえきもの姿は人目を引いて面白い。糸井氏を凝視した後、急にきょろきょろし始める人たちもいる。撮影か何かだと思ってしまい、カメラを探しているのだろう。

 糸井氏が目立つと、私はふふん、とうれしくなる。


――かおるくんはわしが育てた……


と、葉巻を指に都市を見下ろす老獪ろうかいなフィクサーの気分だ。

 冬の街歩きに、寒がりの糸井氏がきものの上にインバネスを着てブーツを履いてきた日には、気分はステージママそのものだった。


 ところが、会う回数が重なると、一つの問題が出来しゅったいした。

 今のところはただメールをしあったり一緒に出掛けたりする「友達づきあい」だけで、恋だの愛だのの雰囲気ではないと私は思っているのだが、彼はそーっと、初めて小動物に触れる犬のようにボディタッチをしてくる。

 それが不思議と、気に障る。私はその手をぺちんとやる。

 どきどき、とも、きゅん、ともしない。

 ぺちん、なのだ。


 その理由を考えてみたところ、一つの答えが私の中にガシャポンコロリと出てきた。


 私は彼を男として見ていない。

 趣味友達のノリから前へ全く進めない。

 男だとは認識しているが、私の人間関係の分類を図鑑に例えれば、オトコ科でもオンナ科でもなく「かおるくん」という1科1属1種がある感じなのだ。

 彼が友達の範疇から片足踏み込んで来ようとするたびに、私の中で、まるでペットが勝手にテーブルに上がり、私のお膳に口をつけようとしているような、ルール違反への非難感情が湧き上がってくる。あくまでも、愛のある範囲で。

 ところが、それは私の勝手な線引きであって、そんなものあずかり知らぬ彼は困った顔をする。

 先日も肩に手を回されたので、私が


「そういうのはだめです」


とぱしっと手をやったら、彼はぼそぼそこう言った。


「僕たちはもう大人なんですよ? いまどきの高校生でもこんなに清くありませんよ」


 それから、私は恋愛向きでない性格であるということを直視せざるを得なくなった。

 糸井氏はちょっとズレた人で、でも真剣に私の屁理屈に向き合おうとしてくれる。意見の相違があっても、角を立てないよう考えて言葉選びをする。

 私はそこが怖い。

 もし、つきあいが長くなって私に飽きても、この人は私との関係を良好に保つ努力をし続けてくれるのだろうか。

 今はつきあい始めのあばたもえくぼな期間で、許容のボーダーが緩くなっているだけだ。

 その舞い上がり期間が過ぎたら、私はこの人とどうやって一緒にいればいいのかわからない。だから、関係を維持できないだろうというビジョンしか持てない。

 思い返せば、これまで好きになりかけてきたどの男とも、惚れたはれたの期間が過ぎ去ったらどうなるのか想像がつかなかった。


 なのに、一緒にいる楽しさと困惑とを天秤に掛けると、圧倒的に前者の方に傾く。だから私は彼と会っている。

 一方、彼の天秤には、人生を救ってくれた女神が付き合ってくれているという膨大なありがたさと、細々した不満少々とが天秤の皿に入っていて、量るまでもないらしい。なお、女神と言ったのは彼で、決して私が話を盛っているわけではない。

 女神は神様なのでお触りはタブーではないかと訊ねたら、バチが当たるなら当たればいいんですむしろ当ててくださいよ、とこれも訳の分からないことを言う。


 ある夜、私が仕事から戻り、寝支度を整えてベッドに入ろうとしていると、妹が部屋のドアをノックして入ってきた。

 両手には和服用の桐箱を捧げ持っている。


「見て見て、きもの作ったの! すごくかわいいんだよ」


「へえ……どんなの」


 妹は床に箱を置き、マッサージ座椅子に座った。

 得意そうに箱を開け、たとう紙の紐をほどく。

 出てきたのはネルの単衣ひとえだった。ウールの紬などは冬物であっても普通は単衣で仕立てるので、そのでんだろう。ネルは少し重くて厚いが丈夫で、ノスタルジックなあどけなさとやさしさがある。薄地ほど縫い目が響かないので、ミシン仕立てだと早くて安くてそこそこ仕上がりもいいのだが、このきものにはふんわりとした手縫いの風合いがあった。

 ちょっとうらやましい、私も欲しい。


「ミシン縫いじゃないんだ」


「うん」


 色柄は、とりの地に、葡萄えび色の一円玉ほどの輪郭がぼやけたポルカドット。そう、これはまるであれだ。あれ。えーと。


「ラムレーズンっぽいね」


「そう! このあいだ葉ちゃん、ミントのやつ作ったでしょ。だから私もこういうカジュアルなのが欲しくなって糸井さんに頼んだの」


 あの日、帰宅後に相席の客の麗しさをしつこく語る妹に、あの人が実は和裁士の糸井さんで、寄席がはねて妹と別れた後に自己紹介とお礼のご挨拶があったこと、それから小学生の頃の同級生で、ネットオーダーで比較的リーズナブルにオーダーができることを教えると、彼女はネズミのおもちゃを見る猫のような顔で虚空を見つめ、にっと笑った。

 あのとき糸井氏に持った興味を、今も忘れたわけではなかったのだ。


「糸井さんに? ネットオーダーで?」


「ふつうに電話かけて会いに行ったよ」


「え」


「葉ちゃん、糸井さんのお礼状持ってたでしょ、あの番号にかけて、氷切沢ですって言ったら普通にオーダー請けてくれたよ」


「……それって、私の机の引き出しに入れてなかった?」


「状差しの中に入れっぱなしだったじゃん」


 きもの箪笥は家族共用で、悉皆しっかい屋さんや購入した店のカードやメモが箪笥の横に引っ掛けた鎌倉彫かまくらぼりの状差しに入れてある。

 そこに私は、あの薄荷のきものと一緒に桐箱に入っていた糸井氏のお礼状を入れっぱなしにしていたらしい。


梵天花ぼんてんかで待ち合わせてオーダーして、受け取りもそこだった。ケーキセット、二回も奢ってもらっちゃった」


 妹はうちの近くにある、ちょっと洒落た和風喫茶の名前を挙げた。

 壁際の座敷は間仕切りと透かし格子戸で個室のようになっていて、商談やしんみりした話にも向いている。


「糸井さん、ネットオーダーしか請けないって言ってたけど」


 人と会うことを避けたいがために、オンラインでしか顧客と連絡を取らない主義のかおるくんが。

 私が好意を持った男が妹に目移りする寂しさを愚痴ったら、自分はそんな連中とは違うと断言したかおるくんが。

 妹と会って、妹のオーダーを請けて、私に黙っていた。

 恋人ではない私が非難できる筋合いではないけれど、少々ショックだった。


「でも、あっちが打合せしたいって言ってきたんだよ?」


「そうなんだ」


「やっぱり、サシで会うとほんとにいい男だったよぉ……運命感じちゃった」


 妹は陶然とした面持ちで語りだす。私は胸がチクチクした。


「糸井さんの周りだけね、空気が違うの。ほんと、いい匂いがした」


「嗅いだの」


「うん、ミントっぽい匂い」


 私は、彼が無香とハーバルミント、二種の防虫剤を使い分けているのを思い出し、小さく笑ってしまった。

 何笑ってるの、と訊かれて、それ防虫剤の匂いだよ、と答えると、妹は私を軽く睨んだ。


「葉ちゃん、なんでそんなこと知ってるの?」


「きものの防虫が大変だって話をしたら、糸井さんがそう言ってたから」


「ふーん……」


 妹はマッサージ座椅子をリクライニングして背中を預け、スイッチを入れた。ということは、十五分間は話につきあわされるのだ。

 モミ玉の振動に妹の声が揺れる。


「……私ね、糸井さんにつきあってくださいって言ったんだ」


 いつもながら、感心してしまう。この物怖じしない人懐こさは私が持たないものだ。おそらく、私が母の胎内に忘れ物をして、それを妹が全部持って生まれたのだろう。一般的に見るとビッチだが。


「ユウトくんは? 別れたの?」


 ユウトくんというのは妹の一歳年上の彼氏だ。

どこかの社長の息子で、妹にべた惚れだという。彼のことを妹は自慢しまくって、うちに連れてきたこともある。礼儀正しい堅実そうな男子だった。

 

「別れてはないよ。いざという時の保険で」


 妹はぶすっと言う。

 ああ、かおるくんの年収を知ったら、この夢多き女子大生は何と答えるだろうか。


「でさぁ、糸井さん、なんて言ったと思う? 妹としてならぜひおつきあい願います、だってさ。妹ってどういうことよ」


「妹萌えとかするタイプなんじゃない?」


 適当に答えると、妹はしばらく黙ってしまった。

 首筋と肩のほぐしが終わって、モミ玉が胃の真裏の背骨沿いへに動いていったあたりで、妹が私をじっと見た。見えないものまで見透かそうとするような目だった。


「ねえ、葉ちゃん、私に何か言うことがあるんじゃない?」


「別にないけど」


「糸井さんとつきあってるんじゃないの?」


「誰がそんなこと言ったのよ」


「糸井さんだよ。すっごく真剣な顔して、葉子さんとつきあってますって」


「あああ……あいつ何言ってんの……あの、つきあうっていうか……まだ友達っていうか……遊び仲間だよ」


「葉ちゃんが糸井さんとつきあってるって知ってたらさ、私だって糸井さんにコクんなかったよ! 恥、かかせないでよね! ああ、もう、この私が当て馬みたいになっちゃってさ……不覚だったわぁ……」


 マッサージ座椅子の上でガタガタと体を揺らしながら、妹は大げさに両手を虚空に持ち上げて顔を覆った。


「それ、私のせいなの?」


「当たり前じゃない! 私ね、姉の男を取りたいとかは思わないわけよ! 実の姉と間接キスとか、姉妹丼とかキショくて死にそう!」


 こういう物言いをする妹に、私は血脈を感じる。うちの一族の女性は、しゃなりしゃなりとしていながら結構口汚いのだ。


「いや、まだそういうことはしてないから大丈夫。手ならつないだけど」


「はあ?」

 

 妹は顔にのせていた両手を降ろし、嘘吐きを見るような目を私に向けた。


「ほんとだって。なんかあの人相手だとそんな気にならなくて」


「嘘でしょ? 結婚を前提におつきあいしてるって言ってたよ」


 私は、げっ、と変な声を上げてしまった。


「何それ? そんなの聞いてない」


「葉ちゃんが糸井さんとつきあってるの、家では誰にも言ってないって教えたら、寂しそうな顔してたよ。プロポーズもしたのにって」


「されてない!」


 私の中で、もしかしてあれか、という疑念が湧き上がってくる。

 でもあれは普通プロポーズとは呼ばないし、私は一般論として返事しただけで、「私が」とはひとことも言っていない。


「でも糸井さん、大真面目に言ってたもん。愛されてるよね」


「ほんとにまだ友達って感じなんだって……困るよ」


 妹はため息をついた。十五分が経って、マッサージ座椅子は小さくピッと鳴って静止した。


「いいなあ、葉ちゃん。いいガッコ行って、いい会社入って人生順風満帆で、いい男に好かれてさ。私なんか、顔以外とりえないから、ちょっとでもいい条件の男をつかまえないと人生終わっちゃうんだから」


「いい男……って、顔だけ見ていい男って決めつけたらだめだよ。和裁士ってそんなに儲からないんだよ? ユウトくんこそいい男じゃないの。よそ見しないでもっと大事にしたら?」


「葉ちゃんの収入があれば、男に経済力なんか求めなくてもいいもんね」


 やさぐれた調子で妹は言い、座椅子から降りて、ラムレーズンと自ら銘打ったきものを抱えて出て行った。

 私は、おやすみ、としか言えなかった。

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