第六話 残念さんたち

 中にはいろんな色のはぎれが入っていた。

 糸井氏は、余りぎれが出たときはきものを納品するときに相手に返すので、ここにあるはぎれは本当に小さい、返送されても困るような本当のはしっ切ればかりだ。しかしそれもまたいいもので、はぎ合せて袋物や匂い袋を作ると可愛らしい。パネルに少しずつ貼って、生地見本帳のようなものを作って部屋に飾るのも洒落ている。

 こうしてはぎれが何種類も発生しているところを見ると、糸井氏はそこそこお仕事はしているらしい。

 フリーランスの和裁士はほとんどフリーターと同義、と聞いたことがあるので、私は彼の受注状況にちょっと安心し、さっそく生地を選び始めた。

 桜ねずの正絹綸子しょうけんりんずは、おそらく長襦袢用の生地だろう。大きめだったのでそれをまずいただく。

 この更紗さらさはミニフレームに入れて飾ろう。

 紅絹もみは飾り襟にしたらいいけれど、もう製造されていないので切ってしまうのはもったいないかもしれない。

 そんなことを考えながら、通勤バッグに常備している縮緬ちりめんの風呂敷を出してぽんぽんとのっけていく。

 糸井氏はいつの間にか私のすぐ右脇に立ち、じっと私の手元を見ていた。


「あの、ちょっと訊いてもいいですか」


「あ、はい」


「こんな風に、男と二人っきりになることに抵抗とかないんですか」


 おお、これは芭蕉布だ。この間糸井氏が着ていたもののはぎれらしい。

 和風のリボンバレッタでも作るか。

 そういう妄念に没頭しているときに、実につまらんことを訊いてくるので、とりあえずさくっと答えた。


「そりゃあ、ないわけではないですよ」


「……じゃあどうして来たんですか」


「どうしてって、糸井さんが帯とかはぎれとか見せてくださるからでしょう。誘ってくださったじゃないですか」


「いや、そういう意味じゃなくて」

 

 糸井氏は自分が適当にあしらわれているのを気づいている風だ。じわっと真顔になり、ため息と一緒に言葉を吐く。


「あのですね、ちょっと気になったんですけど、きもののこととなるとほいほい男についていくのはどうかと思うんです。僕が悪人だったらどうするんですか」


 なんだこいつ。

 人に餌を提示して釣っておいて、何を言い出すのか。

 私ははぎれを選ぶペースを上げながら訊き返す。


「糸井さんは悪人ですか?」


「えっ……」


 鼻歌でも歌うように、私は茶化した。


「私より糸井さんのほうが身辺に気を付けた方がいいですよ、男性でも性犯罪に巻き込まれる人って多いんですって。変な人を部屋に上げたりしない方がいいですよ」


「僕は、氷切沢さんが危ないという話をしてるんです」


「基本的には気を付けてますから大丈夫です。糸井さんはかおるくんだし、私のお気に入りを仕立ててくださったしで信頼してますから」

 

 糸井氏は複雑な、さっきチョコミントのアイスを食べていたときのような顔をしている。私は畳みかけた。


「ほいほい来ないほうがよかったんですか?」


「いえ、来てほしかったですよ。ずっと、メール待ってたんですから」


 糸井氏の言うことが支離滅裂だ。歯磨き味のアイスを我慢して食べて、どこか脳の回路がおかしくなったのかもしれない。

 風呂敷の対角四隅をきゅっと結んで、私は引き上げる支度を整えた。

 引き上げどきを見誤らないことが、身を守るすべの一つだ。これ見よがしにスマートフォンを確認し、もうこんな時間、と声を上げ、玄関を向き加減に立ち上がる。


「今日はいきなり誘ってすみませんでした。私が誘ったのに、糸井さんにご馳走になっちゃって、お土産までいただいてしまって……」


「ちょっと待ってください」


 締めの口上の真っ最中に、糸井氏が遮った。


「もしかして、氷切沢さん、何にも気づいてないんですか」


「え? 何に?」


「ああ……」


 また例の、額に手を当てる仕草が出た。

 丸々二分ほどの大長考の末、かおるくん第二形態はもそっと言った。


「僕、この間から氷切沢さんを口説いてたつもりだったんですけど」


「……はあ」


「氷切沢さん、ものすごく鈍いって言われたことありませんか」


「いや、ご好意はなんとなく感じてましたけど。あくまでも古いお友達的な感じで」


 糸井氏はいいやつのようだし、きものの話ができるし、腕がいい。付き合いが絶えるのは惜しい。

 しかし、口説かれるのとは少々違う気がする。あまり色恋の相手という感じが持てない。

 彼はちょっと不機嫌そうだった。


「そういう風に『オトモダチ』って言葉で濁すの、すごく性質たちが悪くありませんか」


 じっと私の目を見てくる。涼しげな目元が酒にでも酔ったように赤くなってきている。

 もし私の性質が悪いのなら、では糸井氏の女性についての審美眼は何なのだろう。

 私は帰り支度万端に手に持っていた通勤バッグと風呂敷包みを、いったん彼の作業机に置いた。 


「糸井さん、ちょっと順を追って説明してもいいですか」


「はい」


「あなたは老若男女ろうにゃくなんにょが振り向く美丈夫びじょうふさん、私は残念さん。……ここまではご理解いただけますか」


「理解できるわけないでしょう、何ですかそれ」


「わからなかったら、とりあえずそういうものだということにして、最後までお聞き願います」


 学校でよくそういうことを言われたなと思いだす。

 特に、数学や理科あたりで法則とか定理とかやったときに、そういう風になってるからそうだと思っとけばいい、それで点は取れるのだから、と。

 思えば、それが私の処世訓なのかもしれない。

 他人とはこういうもの、私はこういう人間。


「私、これでも、いい感じになった男性も何人かいたんです。でも、そのたびに肩透かし喰らわされてきたわけですよ……ブサイクが勘違いしてんじゃねえよ、とか、きものきて色気出してキモいとか陰で言われてたりね。高校大学社会人、ずっとそういうことばっかりで、嫌気がさしました」


 え、と一言発したきり、糸井氏は目を見開き加減にして黙っている。

 

「ひどいのになると、うちの妹目当てに私に近づいてきてたりね。糸井さんも、うちの妹見たでしょ? 姉から見てもめちゃくちゃ可愛いんで、まあ当然そうなるよねって感じです」


 今や反論の声はない。

 私の独演会である。

 演題は『不幸自慢』で、私はかなり気持ちよくしゃべっていた。


「惚れたはれたの勘違いほど見苦しいものはないでしょう? 私、これ以上自分がみっともなくなるの、嫌なんです。だから、色恋沙汰には石橋を叩いて叩いて叩いて叩いて、それから渡ることにしたんです」


 私の弁舌がなめらかになればなるほど、糸井氏はもやもやと考えている顔つきになる。


「そんな中で、いきなり、昔のクラスメイトに偶然再会したら、その辺のアイドルとか俳優とかどころじゃない、国外追放レベルのイケメンになっていて即口説かれるって、どこの欲求不満のレディコミですかって話ですよ、まったく」


 そこでひとしきり、糸井氏と私の顔面と骨格の格差についてぶちかましたあと、私は一息ついた。


「ここまで、よろしいですか? ついてきてますか?」


「だいたいは把握しました」


「大したこと言ってないんで、だいたいで結構ですよ。私は鈍いくらいがちょうどいいという理由につきましては以上です。ご清聴ありがとうございました」


 これでよし。

 何の解決にもなっていないが、けむには巻いた。

 これで、次に会うときも、ややこしいことは抜きで楽しく会話できる気がする。

 ところが。


「僕にも話をさせてください」


 糸井氏が挙手した。挙手している人を見ると、誰しもどうぞと言ってしまうものだ。

 彼は最終弁論でもするかのように語りだした。


「氷切沢さん、男性を選ぶ際に大事なのは、性格を除いて、ルックスと経済力、どっちだと思いますか」


「あ……経済力、ですかね」


「ですよね。だいたいアンケートで男性を選ぶのに重視するのはぶっちぎり一位が性格、それから三位に大差をつけて二位は経済力、そして三位がルックスなんです」


 彼はきりっと凛々しく言い放った


「いいですか、よく聞いてください。僕の年収はだいたい120万です」


 私は鼻白はなじろみ、彼の顔をぽかんと見つめた。


「あなたは僕の見てくれがどうとかこうとか言っていましたが、じゃあ僕のこの収入額はどう思いますか」


 どう思うかと言われても、私の四分の一ですね、とは言えない。


「あ……ああ、フリーランスでやってらっしゃるし、最初はそれぐらいじゃないでしょうか」


「この年収じゃ、ルックスで相殺どころか、さらにマイナスですよね。性格だって、あんまり褒められたものじゃありません。八割がた引き籠り生活だし、初恋の女子の消息しょうそくに触れただけで鼻血出すくらいにはキモい性格してますよ」


なるほど。

キモい。


「糸井さん……思い出を美化しすぎてませんか」


「いいえ、実物のほうがずっとエロくて優しくて、僕より稼いでそうでした。この間氷切沢さんが帰った後、氷切沢さんが座ったその椅子に小一時間抱き着いてました」


 糸井氏が、この間私が座り、今日もついさっきまで私が座っていた椅子を指差す。

 女には不自由しなさそうなこの顔で、この椅子にハグをかましているのを想像すると実にシュールだ。ハグだけで済んでなかったらどうしよう。いや別にどうでもいいけども。相手は糸井氏の椅子だし。

 こういう話を聞いたら、普通の女子は多分逃げ帰る。いや、糸井氏のこの顔でやれば萌えるんだろうか。

 ギャップ萌えは理解できるが、奥が深すぎてわからないレベルだ。


「えっと、私を口説いているのは金と体目的ということですか」


「そういうことを言ってるんじゃありません」

 

「何が仰りたいのか全然わかりません……」


「僕のルックスのアドバンテージがもしあったとしても、より社会的に重要度が高い要素を加味して僕という人間を判断した場合、かなり不良品だってことを言いたいんです。顔なんて皮一枚の問題だし、年取って肉がたるんでしわが寄ったら、みんな同じですからね」


 私はつい、思ったことを正直に言ってしまった。


「それ、口説こうとしていた相手に言って、何かいいことがあるんですか」


 本当につきあいたい相手になら、普通なら自分の長所を売り込みたいだろうに。

 かおるくん第二形態は、悲しそうだった。


「ありませんよ。ただ、氷切沢さんがあんまり自分を卑下するから」


「いや、あれは事実なので」


「事実じゃないって!」


――いいひとだなぁ、かおるくん。

――それに、けっこう残念さんなんだなぁ。


 しみじみそう思った。

 私は残念なところのある人にしか親しみを持てない。


 かおるくんは、優しい人に育ったのだろう。

 その優しさは、傷ついた相手を引き上げるようなものではなくて、動けなくなっているその場所へ下りていくようなものなのだろう。

 寄席でも、糸井氏は他人のことに心を痛めていた。

 そんな彼に変な自己憐憫にまみれた熱弁をふるってしまったことが、恥ずかしくなった。

 

「糸井さん」


「はい」


「私が自分をこき下ろすのは、これ以上傷つかないように自分で予防線を張ろうとしているからなんです。そういうのって、自己愛に満ちてて気持ち悪いですよね」


 私ははすうつむいていた。

 正直に、ふざけずに自分のことを話すと、相手の顔が見られなくなる。


「私は傷つくことがすごく嫌で、怖くて、シニカルに構えてしまう人間なんです。それがもう染みついてしまって、見かけだけじゃなくて、性格も可愛くないんですよ。さっき、私か喋ったの見て、わかったでしょう」


「……」


 笑って見せようとして、顔が強張るのを感じた。

 本当のことを言うのは、私にとってはなかなかきついことのようだ。


「それにね、料理も掃除も、全然できませんよ。そんな女でもまだ口説きたいですか」


「甲斐性なしでもよければ、口説かせてください」


 糸井氏は侘し気な眼差しを私に向けた。 


「僕の見かけが気に入って近寄ってくる人って、僕の人間性とか、僕が本当にしたいこととか、そういうのを一切無視して、自分の勝手な役割とかを押し付けてくるようなタイプばっかりでした……でも、氷切沢さんは僕がちんちくりんだったころから優しかったし、僕がどうであってもこの人なら大丈夫な気がしました」


「大人になってまだ二回しか会ってないのに?」


「回数の問題じゃありません。フィーリングの問題です」


「怪しいなあ」


「僕は氷切沢さんを悲しませて屁理屈女にならざるを得なくした他の人とは違いますから」


 彼はいたって真剣だったが、私は笑った。


「屁理屈女かぁ」


 確かにそうだ。

 今、このときも、頭の中でぐりぐりとロジックをこね回している。

 それは、自分の心が動くのを感じて、不安になっているから。

 こんな風に言ってくれた人は今までいなかったから。


 私はすぐ近くに立っている彼の手を見た。美しい手だが、指先の皮が厚く、爪は針でできた傷だらけ。

 その左の手を、私は右の手で取り、両のたなごころで包んだ。


「本当に、大人になってしまったんですね……私も、かおるくんも」


「子どもの頃より、僕は今が楽しいです」


「そんな感じがします。これから、ちょっとずつ、お互いを知っていきましょう」


「え、それは」


「お付き合いしましょうということです」


 糸井氏の、くっきりと美しい目がぱちぱちと何度も瞬いた。


「いいんですか……いいんですか、本当に?」


 信じられないように数回、糸井氏はそう呟いた。


「私の方こそ、私でいいのか訊きたいです」


「いいに決まってますよ!」


 彼は声を張り、左手を包んでいる私の両手に右手を添えてきゅっと力を込めた。

 その力のかけ方が、快かった。


「これから氷切沢さんじゃなくて、葉子さんって呼んでもいいですか」


 かおるくんは目を細めて、実に典雅ににっこりした。


 自分のものにできそうだと思った途端、「まあ、いいんじゃない」が「ものすごくいい」に変わる、と恋多き妹が言っていたのが、なんとなくわかる気がした。


 その夜、私たちは今更襲ってきた気恥ずかしさに会話を途切れさせながら、駅まで歩いた。

 私はかおるくんとお手手を繋いだ仲にはなったが、異性として好きになってはいないし、彼もそこはラジカルに推し進めようとはしていないので、特に何も起こらないまま私は家へ、彼は彼の暮らすお祖母さんの家へ帰った。

 ただ、駅で別れるときに


「今度布団買って、仕事場にも泊まれるようにしますから」


と、やたらと熱意を込めて言ってきたのが可笑しいような、困るような、複雑な気分だった。

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